第75話 粉の女
「字は、書けます」
ベルクは、机の上に戻した紙を見ながら、そう言った。
「照会を、お書きになりました」
「あれは、訊きたいことを書いただけです」男は言った。「訊きたいことなら出てきます。困ってますんで。ですが、白い紙に、決まりを書けと言われますと」
「何も出てこられませんか」
「出てきません」
窓の外は、もう霧が抜けていた。朝の便が入り始めて、荷改めの卓の音が三つに増えている。
エレノアは、その返事を、聞いた。
聞いてから、戸口の柱のほうへ目を向けた。
サラは、そこにいた。いつからいたのかは、この執務室では誰も確かめない。腕に夕方の帳合いの束を抱えたまま、片方の肩を柱に預けている。目は、机の上の五つの行に向いていた。
「サラ」
「聞こえてたわよ」
「では」
「嫌よ」
即答だった。
「まだ何も申し上げておりません」
「顔で分かるのよ、あなたは」サラは言った。「六年 見てるんだから。あなたが人を見るときは、その人に何かさせるときだけよ」
ベルクが、二人のあいだで少し困った顔をした。この男は、屋敷の中の口の利き方に慣れていない。
六年、サラは壁際にいた。三割を取り、四割を断り、繋ぎの仕事だけをしてきた。誰かの設計を読んで、どこが破れるかを言う。それがこの女の全部だった。作る側には、一度も回っていない。
回らなかったのではない。回れなかった。白い紙を出されると何も出てこないと、この女は自分で言った。読めるのに、書けない。六年、その一点だけが変わらずにある。
エレノアはそれを、対の欠落だと思っていた。自分は書けるが、書けないものが一つある。この女は読めるが、書けない。二つ合わせて、ようやく一人ぶんになる。
いま、机の向こうに三人目がいた。
「私は、書けます」エレノアは言った。「ですが、私が書きますと、私の言葉になります」
「そうでしょうね」
「杭の名は、この方のものです」
サラは、柱から背を離した。
束を机の端に置いて、五つの行の紙を手に取る。一の杭、二の杭。左に番号、右に区分。読むのに、この女は五つ数えるほどの時間もかけなかった。
「これ、あなたが書いたの」
「形だけです」
「中身は、この方ね」
「はい」
サラは、紙をベルクのほうへ差し出した。差し出して、そのまま持たせた。
「あんた、これ 読める?」
「読めます」
「じゃあ、書ける」
「書けません」男は言った。「読むのと書くのは、違いますんで」
「同じよ」
サラは、そう言い切った。
それから、机の上から掲示の写しを引き寄せて、いちばん上の一枚をベルクの前に置いた。区分と数と日が並んだ、いつもの形の紙だ。
「あんた、これは書けるんでしょ」
「毎日 書いてます」
「じゃあ、この形のまま、日のところを杭にすればいいの」サラは言った。「新しく考えないの。もう立ってる形を、そのまま使うのよ。中の言葉だけ入れ替える」
ベルクが、写しと五つの行を、交互に見た。
サラが言っているのは、書き方の話ではなかった。決まりを書くというのは、白い紙の上に新しいものを立てる仕事だと、この男は思っている。思っているから、手が止まる。
立てなくていい。もう立っているものの、中の言葉を入れ替えるだけでいい。それなら、写す仕事と同じだ。写す仕事なら、この男は三月やっている。
――教え方が、正しい、と。
六年、この女が壁際で何をしていたのかを、エレノアはいま少しだけ知った。この女は、他人の設計を読むときに 必ず「これは何を借りているか」を見ている。借り元が分かれば、新しく作らずに済む。それが、書けない人間の生き延び方だった。
「……それでいいので」
「いいのよ」
「決まりというのは、もっと」
「もっと、なあに」サラは言った。「立派に書くと、読まれないわよ。あんたのところの荷主、字ばっかり多い板 読む?」
「読みません」
「でしょ」
エレノアは、その二人を、机の向こうから見ていた。
六年、この屋敷で誰かが誰かに教えているところを、彼女は見たことがなかった。人は入って、仕事を覚えて、辞めていく。覚え方は、それぞれが勝手に見て覚えた。教える段取りは、どこにも無かった。
彼女は、そのことに、いま気づいた。
「サラ」
「なによ」
「あなたは、どちらでそれを教わりましたか」
サラの手が、少しだけ止まった。
止まって、それから、また写しの端を指で押さえた。
「王都よ」
「どちらの」
「粉のところ」サラは言った。「西の製粉屋の卸が、王都に帳場を持っててね。そこの奥に、貴族の奥様がひとり噛んでたの。ベルナール子爵夫人。名前は、覚えてなくていいわ。もういないでしょうから」
エレノアは、その名を、六年ぶりに聞いた。
断罪された夜会の広間で、彼女はその名を口にしている。第三柱の陰にいる青い上着の男を運送組合の代理人だと言い当てたあとで、その隣にいた女を、西部の製粉業者と繋がっていると言った。あれは、脅しの材料として並べただけだった。以後、一度も考えたことがない。
「そこで、読みを教わったの」サラは言った。「帳場の紙が読めないと、使い物にならないから。書きは教わらなかったわ。読めれば足りるって言われたのよ。それで、六年 足りてる」
「足りておりません」
「足りてるわよ」
「あなたは、三割で足りると仰いました」エレノアは言った。「四割は断られました」
「その話、まだ引っ張るの」
サラは、そう言って、ベルクの手の中の紙を軽く叩いた。
ベルクが、筆を執った。執って、しばらく紙の上で止めた。それから、掲示の写しの形をなぞるようにして、一行 書いた。
――四の杭が見えとるあいだ、木材を通します。
太い字だった。薄い墨に、力が入っている。
「“とる”は、要らないわね」サラが言った。
「はい」
「あと、“あいだ”は残しなさい。そこがいちばん要るところだから」
男は、書き直した。二度目は、一度目より速かった。
エレノアは、その手元から目を上げて、ベルクに訊いた。
「ベルク様」
「へえ」
「マルタ様の荷札に、印はございましたか」
「印ですか」男は、少し考えた。「ありました。麦の穂を三つ、輪にしたやつです。荷札にも、包みにも押してありました」
サラの指が、写しの端から離れた。
「――それ、あそこの印よ」
「どちらの」
「西の製粉屋」サラは言った。「三つの穂を輪にするの。子爵夫人が使わせてたやつよ。仕入れの順を決めるのに、どこかから紙を引っ張ってきて使ってるって、当時から言われてたわ」
エレノアは、机の上の三枚を、もう一度 見た。
この様式は、隣国から出た三つのうちの一つではなかった。九つの街道を通って来たものでもない。王都が立ち直ったころに西へ流れた写しが、製粉屋の帳場で仕入れの順を決めるのに使われ、その使いの女が二年、川の渡し場に通った。
誰も、その道を知らない。知らないのは当然だった。誰も、そこを通ると思っていなかったからだ。
一月前、隣国の役所の男に 他領のどこへ出たかを訊いたことがある。樫の坂と、二番目の橋の先までは、その男が数えていた。灰色の川の対岸だけが、存じませんという返事だった。あの男は、自分の国から出たものは全部 数える。数えていないということは、自分の国から出ていないということだ。
彼は正確だった。正確なのに、届いていた。
紙は、数えている者の見ていないところを通る。通ったあとで、初めてそこに道があったと分かる。六年前、彼女が王都の流通で毎日 見ていたのも、そういうものだった。地図に無い抜け道を、荷は勝手に見つける。荷が見つけるものを、机の上の紙は最後に知る。
「ベルク様」
「へえ」
「マルタ様は、なぜ二年も、渡し場へ通われたのでしょうか」
男は、その問いに、すぐには答えなかった。
答えるのに、少し時間がかかった。思い出すのではなく、いま初めて考えた顔だった。
「――あれの荷が、いつも押し出されてたからです」
窓の外で、朝の便が門を抜けていった。
「粉は軽いんで、あとに回されます」ベルクは言った。「重いのから積みますんで。あれは、毎朝 来てました。毎朝 来て、次はいつだと訊いて、おれが答えられんで、それで帰る。二年です」
エレノアは、その二年を、頭の中に置いた。
押し出された荷の主が毎朝 来る。答えられない。それが、昨日この男が挙げた困りごとの全部だった。彼はそれを、いま初めて、一人の女の二年として言い直した。
ベルクは、昼前に発った。
十四日 かけて戻る。掲示に杭を書く。書いたものの写しを送ると言った。送り先は、峠の役所と決めた。峠には書記が一人いて、こちらとのあいだは十一日で繋がっている。
行きに十四日、帰りに十四日。川から峠までの三日ぶんを二度 歩き、あとの十一日は便に揺られる。この男が持って帰るものは、紙一枚だ。紙一枚のために二十八日を使うのは、彼の側から見れば高い買い物だった。
高いのに、来た。返す先が書いていない照会を出してしまったからだ。書く欄が無かったせいだと、この男は言わなかった。言わずに、自分の足で埋めた。
サラが、門のところまでは出てこなかった。廊下の窓から見ていたのは、エレノアが階を下りるときに背中で分かった。この女は、自分が教えた相手が門を出るところを見ない。見ないが、いなくなるまで窓の前にいる。
門の外で、男は一度 振り向いた。
「侯爵様」
「はい」
「うちの向こうにも、川があります」
エレノアは、その言葉の意味を、すぐには取れなかった。
「灰色の川を渡って、二日 行くと、もう一本あるそうです」ベルクは言った。「そっちにも渡し場があると聞いてます」
「どちらの土地ですか」
「知りません」男は言った。「渡ったことが、ないもんで」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
白い紙に決まりを書こうとすると、何も出てこない。
――それは、この屋敷に六年いる女の弱みと、まったく同じものでした。
だから彼女は、教えられます。
新しく考えないこと。もう立っている形を、そのまま使うこと。
そして、灰色の川へ様式を運んだのは、隣国でも九つの街道でもありませんでした。
王都が立ち直ったころに西へ流れた写しが、製粉屋の帳場に落ち、
その使いの女が二年、毎朝 渡し場へ通いました。
彼女の荷が、いつも押し出されていたからです。
次話は、峠へ行きます。三年前から書きかけで止まっている一行に、
ようやく続きが書かれます。
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