第74話 四の杭
翌朝は、東の窓が白かった。
夜のうちに霧が下りて、通りの向こうの屋根が見えない。荷改めの角灯が、いつもより長く点いていた。秋に入ってから、この霧が三日に一度は出る。出た日は朝の便が半刻ほど遅れるので、屋敷の者は誰も慌てない。
ベルクは、門が開くのと同じ時刻に来た。
「舟は、何艘ございますか」
挨拶のあとで、エレノアが最初に訊いたのはそれだった。男は、外套を腕にかけたまま、指を三本 立てた。
「三艘です」
「一艘に、どれだけ積めますか」
「十二です」ベルクは言った。「荷車で十二。人が乗るなら、そのぶん減ります」
「一日に、何度 渡られますか」
「四往復です。朝から夕まで」
エレノアは、筆を執った。
三艘。一艘に十二。四往復。掛ければ百四十四になる。この数を彼女は紙に書き、その下に線を一本 引いた。
「水が高い日は」
「二艘です」ベルクは言った。「舳先が持っていかれるんで、真ん中の一艘は出せません。荷も減らします。八ぐらいでしょうか。三往復がやっとです」
二艘。八。三往復。四十八。
半分より、さらに下だった。
「出せない日は、年に何日ですか」
「去年は三十八日です」
「数えておられますか」
「数えます」男は、当たり前のように言った。「出せなかった日は、荷主に詫びを言いますんで。何日 詫びたかは、覚えます」
エレノアは、その三十八という数を、百四十四と四十八の下に書いた。
書いてしまうと、それは扱いやすい形をしていた。年に三十八日、能力が三分の一に落ちる。落ちる日が読めないのなら、平らな年で回せる量を出しておいて、余りを取っておけばいい。彼女が六年やってきたのは、そういう仕事だ。
紙の上では、そう見えた。
紙の上でそう見えるものは、たいてい、現地で一度は破れている。六年前の王都の帳簿もそうだった。数字は全部そろっていて、並べ替えれば足りるはずだった。足りなかったのは、粉を運ぶ荷車が北の坂を登れない日が月に四日あるという、どの欄にも書かれていない事実のほうだ。
書かれていない事実は、書いた者の頭の中にしかない。頭の中にあるものは、読めない。
彼女は、その百四十四という数の脇に、小さく点を打った。まだ信じない、という印だった。六年、この印を打った数は、あとで必ず一度は動いている。
「押し出された荷は、どうなさいますか」
男の顔が、そこで少し動いた。
「そこです」
「伺います」
「押し出したら、次に入れます」ベルクは言った。「入れますが、いつ入るかは言えません。次の日も水が高けりゃ、また押し出しますんで」
「荷主は、どうされますか」
「毎朝 来ます」
それだった。
三月前まで、荷主は毎朝 来ていた。掲示を立ててから、来なくなった。ただし、押し出された荷の主だけは、いまも毎朝 来る。掲示にその荷のことが書いていないからだ。
掲示というのは、載っているものの数だけ人を減らし、載っていないものの数だけ人を集める。減った数は目に見える。集まった数は、渡し場の親方の朝が長くなるという形でしか出てこない。
一月半前、峠でも同じことが起きていた。あのとき道を塞いでいたのは荷ではなく、次がいつだか分からずに帰れなくなった人間のほうだった。彼女は線を消さずに、余白へ日付を書き足した。それで二十一台が下りた。
同じ手が、ここでは使えない。
「例外の扱いの欄は、空けておられますね」
「空いてます」ベルクは言った。「そこに日を書きゃいいのは、分かっとるんです。あんたのやつを写したときから、その欄はある。ですが、書けない」
「書けば、外れます」
「外れます」
彼は、そこで一度、川の話に戻った。
「三日後と書いて、二日目に水が出たら、その紙は嘘になります」ベルクは言った。「一度 嘘を書いた板は、二度と読まれません。荷主は、読まないくせに毎朝 来るようになる。前より悪い」
エレノアは、その言葉を、そのまま受け取った。
一度 外れた掲示は、二度と読まれない。それは彼女が一月前に、四十倍の国の街道で見たことだった。冬に備えるためと書いた紙が三日で外れて、半日で下ろされた。あのとき下ろしたのは掲示を立てた本人で、下ろすほうが早いと分かっていたから下ろした。
この男は、それを立てる前に分かっている。
だから、二年 断っていた。だから、いまも空欄のままにしてある。
白い霧が、窓の下を通っていった。荷改めの声が二つ、霧の中から上がって、また沈む。
エレノアは、筆を置いた。
置いて、しばらく何も言わなかった。日付では書けない。書けば外れる。外れれば読まれない。読まれなければ、掲示が無いのと同じになる。ここまでは、この男が二年かけて辿った道筋だった。彼女が今日 半日で辿り直したにすぎない。
その先が、無かった。
――見えません、と。
彼女は、机の向こうに立っている男を見た。外套は、腕にかけたままだ。裾の色が、昨日と同じところで切り替わっている。下から指四本ぶん。輪郭が、はっきりしていた。
昨日、彼はこう言った。うちの舟は古いんで、決まったところまで水が来ます。決まったところで止まる。
「ベルク様」
「へえ」
「川に、目印はございますか」
男が、顔を上げた。
「杭ですか」
「杭がおありですか」
「ありますよ」ベルクは言った。「渡し場の岸に、五本 打ってあります。下から一の杭、二の杭。上まで五本です。おれが打ったんじゃありません。おれの前の親方が打って、そのまた前からあります」
「一の杭が水の上に出ておりましたら、何が通りますか」
「全部です」即答だった。「三艘 出せます」
「二の杭は」
「二が隠れたら、鉄は載せません」ベルクは言った。「重いんで、舳先が下がります」
「三の杭は」
「三が隠れたら、真ん中の一艘は出しません」
「四の杭は」
「四が隠れたら、木材は諦めます」男は言った。「長いんで、風を食います。四が見えとるうちは、通します」
「五の杭は」
「五が隠れたら、誰も出しません」
エレノアは、その五つを、紙に書いた。
一。二。三。四。五。左に杭の番号、右に通す区分。書き終えるのに、二呼吸もかからなかった。
この男は、五つを答えるのに一度も迷わなかった。考えて出した数ではない。毎朝、岸へ下りて杭を見て、その日に何を積むかを決めている手が、そのまま口から出てきた。二十年ぶんか、三十年ぶんか、彼女には測れない。測れないが、迷いの無さで長さは分かる。
五つの行は、この土地の全部だった。三艘の舟と、五本の杭と、四往復の朝。それだけで、川の一年が回っている。
「ベルク様」
「へえ」
「これは、いま、どこにございますか」
「どこにと言われますと」
「この五つは、どこに書いてございますか」
男は、黙った。
「――おれの頭です」
「ほかに、ご存じの方は」
「舟の者は知ってます。三人ですが」ベルクは言った。「荷主は、知りません。訊かれたことも無い。訊かれても、答えたことは無いですな」
「なぜですか」
「訊かれませんので」
窓の外の霧が、薄くなり始めていた。屋根の線が戻ってくる。石畳を叩く車輪の音が、二重になった。
エレノアは、五つの行の紙を、机の向こうへ回した。
「例外の扱いの欄に、日付をお書きにならないでください」
「では、何を」
「杭をお書きください」
ベルクは、紙を見た。
「――四の杭が見えましたら、木材を通します」エレノアは言った。「そう書いておかれれば、押し出された荷の主は、川を見て、自分で分かります」
男は、動かなかった。
「掲示は、外れません」彼女は続けた。「日を書けば、外したのは書いた方になります。杭を書けば、決めているのは川です。あなたは嘘をつきません」
「……荷主が、川を見るので」
「見に行くのは、あなたのところへ来るより近うございます」
ベルクは、紙を持ち上げた。持ち上げて、五つの行を上から下まで読んだ。読み終わって、もう一度 上から読んだ。
霧が抜けて、机の上に光が入った。
この一手は、彼女が出したものではなかった。彼女は、書ける形を出しただけだ。杭が五本あることも、四が見えているうちは木材が通ることも、彼女は昨日まで知らなかった。この土地には、この土地でしか通らない答えがある。
それは、書いた者ではなく、そこにいる者が持っている。
同じことを、峠でもやっていた。あそこで日付が書けたのは、木材の便が十一日ごとに来ると決まっていたからだ。決まっていたのは、彼女がそう組んだからではない。北の谷の四十戸が薪を使う速さと、山から下ろす人手の数が、十一日で釣り合っていたにすぎない。あの数字も、その土地のものだった。
様式は、どこへ持って行っても同じ形をしている。中に入る数だけが、土地ごとに違う。違うところを埋められるのは、そこで毎朝 何かを見ている者だけだ。
紙は運べる。見ている者は、運べない。
「これは」ベルクが言った。
「はい」
「これは、おれが書くので」
「はい」
男は、紙を持ったまま、しばらく動かなかった。それから、それを机の上に、そっと戻した。
「……おれは、書けません」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
日付は、書いた人が外します。
杭は、川が決めます。だから書いた人は、嘘をつきません。
――ただし、杭が五本あることも、四が見えているうちは木材が通ることも、
エレノアは昨日まで知りませんでした。
この土地でしか通らない答えは、書いた人ではなく、そこにいる人が持っています。
彼女が出せたのは、書ける形だけです。
次話「粉の女」では、その男が「書けません」と言った理由が分かります。
字は書けます。書けないのは、決まりの文のほうです。
――そして、それとまったく同じ弱みを持った女が、この屋敷に六年おります。
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