第73話 去年の冬
窓の下を、昼の便の最後の一台が通っていった。
執務室は、その音が抜けたあと、少し静かになった。ベルクは、外套を腕にかけたまま、机の前に立っている。座らせようとしたが、座らなかった。荷改めの卓のそばで暮らす人間は、屋根の下で椅子に座ることに慣れていない。
「亡くなられたのですか」
「去年の冬です」
「ご病気で」
「熱です」ベルクは言った。「三日でした。年寄りじゃありません。四十のちょっと手前でしたか」
エレノアは、その言い方を、一度そのまま受け取った。
人が死んだ話を、この男はほかの荷の話と同じ調子で言った。渡し場で長く働いた者に、その調子は多い。川で人が死ぬからだ。悼まないのではなく、悼む言い方を職業として持たされていない。六年前、王都の列の中で数を数えていた男も同じ喋り方をした。
彼女は、机の上の表紙を、自分のほうへ回した。
――マルタ
字は、太くも細くもない。癖がなく、行の頭が揃っている。この字を書いた手は、書くことに慣れていた。ベルクの照会の字とは、まったく別のものだった。
「この字は、その方のものですね」
「そうです」
「ベルク様の字ではありません」
「おれの字は、あれです」男は、照会の紙を顎で示した。「太いのが、おれです。薄い墨でも、力を入れんと曲がりますんで」
エレノアは、二つの紙を並べた。
太い字と、細い字。書き慣れていない手と、慣れた手。同じ様式の、同じ表紙に、二人の手が載っている。片方は死んでいる。
「マルタ様は、どちらからいらした方ですか」
「西です」
「西のどちらですか」
「粉です」ベルクは言った。「粉の商いをやってました。西のほうの、大きい製粉所の使いで、川を渡って何年か来てました。荷を出す側です。うちの舟に乗る側で、掲示を書く側じゃありません」
「その方が、この様式を持って来られた」
「持ってきました」
男は、そこで一度、言葉を切った。切って、外套を持ち直した。
「二年です」
「二年」
「二年、持ってきてました」ベルクは言った。「うちの渡し場に、この紙を持って、月に一度か二度、来るんです。舟の順を、こう決めたらどうかと。書いて出したらどうかと。おれは、断ってました」
「なぜですか」
「川は、紙のとおりに流れませんので」
その一言には、迷いが無かった。二年ぶん練った理由の言い方だった。
「増水すりゃ止まる。減りゃ出す。それを紙に書いたって、書いた日に水が変わったら、書いた紙が嘘になります」ベルクは言った。「嘘の書いてある板を、うちの渡し場に立てるわけにいかんでしょう」
「もっともです」
エレノアは、そう言った。
男が、少しだけ顔を上げた。反論されると思っていた顔だった。
もっともだった。彼女の様式は、動かせるものを並べ替えるために作られている。穀物は積み替えられる。木材は待たせられる。鉄は分けられる。人が決めれば、順は動く。
川は、そこに入らない。人が決めても、水位は動かない。動かないものを一つ抱えた土地に、動かせるものだけを前提にした紙を持ち込めば、必ずどこかで嘘になる。二年 断った理由として、それは正しい。
正しいことを二年 言い続けて、通らなかった者がいた。断った側も正しかった。そういう組み合わせが、いちばんほどけない。
「じゃあ、なぜ立てておられますか」
「あれが死んだからです」
窓の外で、風が上がった。夕方に向かって、この時刻から風が変わる。秋に入ってから、その変わり目が少しずつ早くなっていた。
「去年の冬に、川が凍りかけましてね」ベルクは言った。「二十日、舟が出ませんでした。荷主が三人、畳みました。それから雪が解けて、出せるようになって、荷が一度に来た。誰が先か、みんな おれのところへ来る。朝から晩まで、順番の話しかしとらんかった」
「その二十日のあいだに」
「熱を出しました」男は言った。「舟が出んので、川の手前の宿に居ついてました。あれも荷が動かんと困る側でしたんで。三日で死にました」
彼は、それを淡々と言った。悼んでいないのではない。悼み方を、この男は言葉で持っていなかった。
「荷が動くようになってから、宿にあれの荷物が残ってましてね。返す先を訊きに行くつもりで、包みを開けたんです。中に、この紙が入ってました」ベルクは言った。「二年 見せられてたやつです。おれは断り続けてたんで、字面は覚えてました」
「それで、立てられた」
「立てました」
「二年 断られたものを、なぜ、そのときは」
「順番の話をせんで済むからです」
エレノアは、その返事を、聞いた。
二年、正しいことを言った者がいた。言われていた側は、断っていた。断る理由も正しかった。そして、言った者が死んだ翌月に、断られていたものが立った。
立ったのは、その紙が正しいと認められたからではない。順番の話をしなくて済むからだ。二年ぶんの説得より、朝から晩まで順番を問い詰められる二十日のほうが強かった。
説得は、人を動かさない。人を動かすのは、その人が困っていることのほうだ。彼女はそれを六年前から知っていて、知っているから誰も説得しなかった。乗れば利益が出て、乗らなければ出ない構造だけを作って、あとは黙っていた。
黙っていた結果として、二年 通おうとした者がどこかにいたのかどうかを、彼女は確かめたことがない。
彼女は、机の縁に指を置いた。置いただけで、動かさなかった。
「表紙の名を、消しておられません」
「消しません」
「なぜですか」
「あれが持ってきたもんですので」
それが全部だった。この男は、それ以上の言い方を持っていない。
「ベルク様」
「へえ」
「もし、あなたがどなたかにこの様式をお渡しになったら、その方は、表紙に何とお書きになると思われますか」
ベルクは、少し考えた。
「……おれの名でしょうな」
「その方が掲示をお書きになったとしても、ですか」
「書くでしょう」男は言った。「もらったもんですから」
エレノアは、表紙のいちばん上の二行を、もう一度 見た。
――ヴァルディエ侯爵領 様式
――マルタ
彼女が今朝、自分の写しに書いた三行は、こう読ませるつもりだった。写した者が名を書き足す。だから、いちばん下の名が、いま その紙を回している者になる。訊けば、答えが返る。
人は、そう書かない。
人が表紙に書くのは、それを持ってきた者の名だ。渡された者は、渡してくれた者の名を書く。感謝は書く。誰が答えるかは、書かない。
名前の連なりは、道ではなかった。
誰から誰へ渡ったかという、渡された順の記録だった。
記録としては、正確だ。この表紙は嘘をついていない。マルタは確かにこの様式を対岸へ持ち込んだし、いちばん下に書かれる資格がある。書いたベルクにも、書かれたマルタにも、落ち度は無い。
落ち度が無いのに、訊いても答えが返らない。
彼女が今朝 足した一行は、この形を防げなかった。防ぐには、名の下に日付を書かせるか、いま生きている者に印をつけさせるか、そういう手当てが要る。手当てを足せば、また欄が増える。欄が増えるたびに、書く側の手間が増える。手間が増えれば、空欄のまま出される。
――順に、埋まっていない、と。
六年前、王都の帳簿がそうだった。欄はすべてあった。半分が空欄だった。空欄の理由は誰も書かず、書く欄も無かった。
「――ベルク様」
「へえ」
「その様式に、責任を持っておられるのは、どなたですか」
男は、口を開いた。開いて、そのまま止まった。
「掲示は、あなたがお書きです」
「書いてます」
「日ごとの順も、あなたがお決めです」
「決めてます」
「では、その様式そのものは」
ベルクは、机の上の三枚を見た。表紙の、いちばん下の名を見た。
「マルタです」
「亡くなっておられます」
「はい」
「では、いまは」
窓の下で、荷改めの卓を畳む音がした。昼の便が終わる。夕方の便までのあいだ、この通りは一日のうちで最も静かになる。
ベルクは、外套を腕にかけ直した。かけ直して、少しのあいだ、何も言わなかった。
「……おりません」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
表紙のいちばん下に書かれていたのは、渡し場を回している人の名前ではありませんでした。
その紙を持ってきた人の名前でした。
人は、渡してくれた人の名を書きます。
感謝は書きます。誰が答えるかは、書きません。
――だから、名前の連なりは道になりません。
渡された順の記録に、なるだけです。
彼女が今朝 表紙に書いた三行は、半日で最初の一件に外されました。
次話「四の杭」では、その渡し場が本当は何で止まっているのかが分かります。
日付では、書けません。
本日の連続投稿は、ここまでです。明日から一日一話で続けます。
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