第72話 濡れた外套
四日目に、第三街道への返事が出た。
早馬で四日。あちらから四日。八日で往復する。返す先が分かっているものは、返せる。分かっていないものは、机の端に置いたままになる。対岸の三枚は、四日 そこにあった。
その四日で、照会がもう二件 増えた。
第五街道からの一件は、鉄の区分についてだった。荷の重さで待避所の順を入れ替えてよいか、という問いだ。樫の坂からの一件は、掲示を立てる高さについてだった。冬に雪が積もると下の三行が読めなくなる、と書いてある。
どちらも、こちらの様式には無いことを訊いていた。どちらも名は書いてある。どちらも、返す先は書いていない。
エレノアは、その二枚を、対岸の三枚の隣に置いた。置く場所が、机の右奥から左へ広がりはじめていた。文官長が毎朝そこへ積んでいた場所は、まだ空いたままだった。
「門に、荷を持たない方がおられます」
ヤンだった。昼の便の刻限で、廊下の向こうから車輪の音が絶えず入ってきている。
「商いの方ですか」
「違うと思います」若い男は、少し言い淀んだ。「列に並んでおられません。ずっと、荷改めを見ておられます」
エレノアは、筆を置いた。
門の内側は、この時刻がいちばん混む。荷改めの卓が三つ出て、そのうしろに待ちの馬車が並ぶ。並び方が乱れれば、外から入る車が詰まる。六年、その乱れは起きていない。
男は、卓の列から三歩 外れたところに立っていた。
五十がらみだった。首が太く、肩が厚い。上着の上から重い外套を着ているのに、暑がっていない。手の甲に、古い縄の跡が何本も走っていた。縄を引く仕事の手だ。荷を積む手とは筋の位置が違う。積む者は指の付け根が厚くなり、引く者は甲の骨の上に線が残る。
立ち方も、荷主のものではなかった。荷主は列を見る。順番が気になるからだ。この男は列を見ずに、卓の上を見ていた。荷改めの者がどこに何を書き込んでいるかを、目で追っている。
六年前に断罪された夜会で、彼女は柱の陰にいる男を運送組合の代理人だと言い当てたことがある。あのときも同じだった。人は、自分が毎日 見ているものを見る。見ているものは、隠せない。
外套の裾が、色を変えていた。
下から上へ、指四本ぶんほどのところで、色が切り替わっている。上が乾いた灰、下がわずかに濃い。輪郭が、はっきりしていた。一度 濡れて、そのまま乾いた跡だ。
横一文字だった。
エレノアは、その線を見た。それから、頭の中で、机の端に置いてある表紙の下端を見た。あちらの染みも、同じ形をしていた。
「お待たせいたしました」
男が、振り向いた。
「侯爵様で」
「ヴァルディエです」
「ベルクと申します」男は、頭を下げた。下げ方が浅い。慣れていない下げ方だった。「灰色の川の、渡し場の者です」
荷改めの声が、二人のあいだを通り過ぎていった。
「十四日 かかりました」ベルクは言った。「舟で川を渡って、峠まで三日。峠から先は、荷の便に乗せてもらって十一日です。峠の役所で、荷と一緒に泊めてもらいました」
「渡し場は、どなたが」
「舟の者が三人おります」ベルクは言った。「順は川が決めますんで、水さえ見りゃ出せます。決まりごとが要るときだけ、おれが要るんです」
「照会は、届いております」
「――そうですか」
男は、一度 息を吐いた。安堵ではなかった。もっと、確認に近い息だった。
「返事は、書いてございます」
「そりゃあ、どうも」ベルクは言った。「ですが、届きゃしないでしょう」
「はい」
「出してから、気づきましてね」男は、外套の襟に手をかけて、それを外した。「あれ、返しようが無い。こっちの名前も何も、書いてないんです。川のどのあたりだとも書いてない。書いてから六日 経って、ああ駄目だ、と」
「どうして、そう思われましたか」
「うちの掲示に、同じことがあったからです」
エレノアは、その言葉のところで、卓の列のほうから男へ視線を戻した。
「掲示に、なんと書いておありですか」
「区分と、数と、日です」ベルクは、指を三本 立てた。「上から、穀物、木材、鉄。左が日で、右が区分。下に、例外の扱い」
そのまま同じだった。並びも、順も、名前も。
「それを、どなたが書いておられますか」
「おれが書いてます」
男は、それを当たり前に言った。恥じても誇ってもいなかった。
「いつからですか」
「三月ちょっと前です」
「その前は」
「舟の順番は、川が決めてました」ベルクは言った。「増水すりゃ止まる。減りゃ出す。それだけです。荷主が朝に来て、待って、帰る。待って、帰る。それを何年もやってました」
彼は、そこで一度、川の話に戻った。この男は、話を進める前に必ず川へ戻るらしかった。
「掲示を出すようになって、どうなりましたか」
「待つ日が減りました」ベルクは言った。「日が書いてあると、来ないんですわ。来ないと、詰まらない。詰まらないと、出せる。三月で、朝の待ちが半分になりました」
エレノアは、その言い方に、少しのあいだ耳を留めた。
待たせないために日を書いたのではない。来させないために書いた。同じことのようでいて、順が逆だった。渡し場の側から見れば、荷主が来ないことが利益になる。荷主の側から見れば、来なくてよい日が分かることが利益になる。二つの利益が同じ方向を向いているあいだは、掲示は立っている。
向かなくなったときに何が起きるかを、この男はまだ見ていない。
「増えたものはございますか」
「訊かれることが増えました」
エレノアは、その返事を、聞いた。
「掲示に書いてないことを、みんな おれに訊きに来ます」男は言った。「今日は何で止めたのか。あの荷はなぜ先なのか。うちのはいつか。おれは、書いた通りにしかやってません。ですが、書いてないところは、おれが決めてることになる」
「決めておられますか」
「決めてます」
即答だった。この男は、そこを取り繕わなかった。
「そこが、こわい」ベルクは言った。「おれが決めてるうちは、おれが死んだら止まります。川はそれで止まらんのですが、掲示は止まる」
門の外で、車輪が石を噛む音がした。荷改めの卓の一つが空いて、次の馬車が入ってくる。
エレノアは、屋敷のほうを見た。
「お上がりください」
「荷はありません」
「照会を、持っておられます」
ベルクは、外套を腕にかけたまま、少しのあいだ動かなかった。それから、うなずいた。
階を上がる途中で、男は一度 足を止めた。廊下の窓から、屋敷の裏手が見える。石を敷いた坂が下って、その脇に浅い溝が走っていた。雨の日に水を東へ落とすための溝だ。掘ったのは六年前で、掘った者の顔を彼女は知らない。
「あれは、どちらへ落としておいでで」
「東の川へ落としております」
「深さが、途中で変わっとりますな」
「途中から、坂が緩みますので」
「なるほど」ベルクは言った。「うちも、そうします」
彼はそれきり何も言わずに、また階を上がった。溝一本で相手の仕事を測るのは、川の仕事の者の癖だった。
執務室の机には、四枚の紙が並んでいた。対岸の三枚と、五行の様式の裏返し。窓が東を向いているので、この時刻の机には光が入らない。ベルクは、その前に立って、いちばん上の表紙を見た。
「これです」男は言った。「うちのを、写して持ってきました」
「拝見しております」
エレノアは、表紙の下端を指で示した。指二本ぶんのところに走る、横一文字の染み。
「この線は、いつつきましたか」
「舟の中でしょう」ベルクは言った。「底に、水が溜まりますんで。板に置いとくと、下から吸います」
「毎度、同じ高さになりますか」
「なりますな」男は、少し笑った。笑ったというより、口の端が動いただけだった。「うちの舟は古いんで、決まったところまで水が来ます。決まったところで止まる」
エレノアは、その言葉を、頭の中の別の場所に置いた。
置いてから、表紙のいちばん上の二行を、指で辿った。
――ヴァルディエ侯爵領 様式
――マルタ
「ベルク様」
「へえ」
「この、下の名は」
男は、その行を見た。
見て、目を動かさなかった。動かさないまま、しばらく黙っていた。窓の下を、昼の便の馬車が通っていく。車輪の音が二つ、三つ、遠ざかった。
「マルタは」
「はい」
「――おりません」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
返す先が書いていない照会に、返事は出せません。
出せないと分かった男は、六日かけて自分で来ました。
渡し場の掲示は、三月で朝の待ちを半分にしました。
そのかわり、掲示に書いていないことは全部、書いた男が決めることになりました。
――おれが決めてるうちは、おれが死んだら止まります。
この作品は六年前に、それで一つの王都を止めています。
次話「去年の冬」では、表紙のいちばん下の名前が、誰なのかが分かります。
分かっても、訊けません。
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