第71話 書けない返事
返事は、三行で書けた。
朝の光が、机の左手から入っていた。この部屋は東向きで、午前のうちは紙がよく見える。彼女が六年 この向きで仕事をしてきたのは、墨の乾き方が見えるからだった。
――書き足して差し支えありません。
――例外の扱いの欄は、消さずに、余白へ書いてください。
――日付が書けない理由を、教えてください。
筆を置くまでに、二呼吸もかからなかった。一行目と二行目は峠で自分が使った手だ。荷を一台も動かさずに場所を空けるやり方は、書けば三十字に収まる。収まるからこそ、六年 誰にも渡っていなかった。
三行目だけが、彼女の側からの照会だった。
書けない理由を教えてください、と紙に書いたのは、彼女は六年で初めてだった。この執務室から出て行く紙は、これまで全部が決定だった。数と、期日と、どちらを先に通すか。訊く紙を出したことは、一度もない。訊く必要が無かったからではない。訊く相手が、いなかったからだ。
紙を持ち上げて、上の余白を見た。
そこで、手が止まった。
宛名を書く場所だった。
――マルタ様、と書けばいい。書けばいいのに、筆が下りなかった。この名がどこの誰かを、彼女は知らない。書記かもしれない。渡し場を預かる者かもしれない。舟を出す者かもしれない。三月前に写しを持ち込んだだけで、いまはもうその土地にいない者ということもある。
宛先を間違えた紙は、届いても読まれない。読まれない紙は、机の隅に積まれて、半年後に束のまま捨てられる。六年前、王都の各部署へ出した通達のうち三通が、そうやって戻ってきたことがあった。宛名の部署が前の年に無くなっていた。中身は正しく、期日も正しく、誰も読まなかった。
エレノアは、筆を筆架に戻した。
「開いてないわよ、それ」
サラが、戸口から入ってきた。手に紙束を持っている。夕方の便の帳合いだ。テオドルが不在のあいだ、この束は彼女のところへ行く。
「返事は、書けております」
「書けてるのに、なんで置いてあるの」
「宛名です」
サラは、机の上を見た。三行の返事と、その隣に開いてある対岸の三枚。表紙の下端の、横一文字の染み。
「マルタでしょ」
「その方に届く保証がありません」
「渡し場に出せばいいじゃない。あそこに一人しかいないってわけでもないでしょうけど、掲示 書いてる人なんて、そう何人もいないわよ」
「渡し場の名を、こちらは知りません」
サラの手が、止まった。
紙は峠を経由して来た。峠より先は向こうの人間が運び、峠より手前はこちらの人間が運ぶ。荷は繋がっている。人は繋がっていない。そして、この三枚のどこにも、川のどのあたりの渡し場なのかは書かれていなかった。
「……書いてないの?」
「書いてありません」
「じゃあ、なんであなたのところに届いたのよ」
「こちらの名が、書いてあったからです」エレノアは、表紙のいちばん上を指した。「ヴァルディエ侯爵領 様式。この六文字だけが、この紙の上にある地名です」
サラは、表紙を自分のほうへ回して、しばらく見ていた。
「向こうは、あなたの居場所を知ってるのね」
「はい」
「あなたは、向こうの居場所を知らない」
「はい」
その通りだった。彼女が六年前に決めた様式には、写した者がどこにいるかを書く欄がない。書く必要が無かったからだ。写しは執務室の中で作られ、執務室の中で使われた。誰がどこにいるかは、全員が知っていた。
いま、その紙は九つの街道と三つの他領と、川の向こうにある。
エレノアは、白い紙を一枚 引き寄せた。
「何 書くの」
「照会の様式です」
筆が動いた。今度は止まらなかった。
――この紙を出す方の名。
――その方が、いまおられる場所。
――この様式を、どこから写されたか。
――伺いたいこと。
――返事を、どこへ届ければよいか。
五行だった。
書きながら、彼女は一行ごとに、それを書く側の手間を数えていた。名は、誰でも書ける。場所は、その土地の呼び名を知らない者には書けない。どこから写したかは、渡された者が渡した者を覚えていれば書ける。伺いたいことは、困っている者なら必ず書ける。
最後の一行だけが、性質が違った。返す先を書くには、返事が来るということを、あらかじめ知っていなければならない。誰も返事をくれたことがない者は、返す先を書かない。書く欄があっても、空けて出す。
書き終えて、彼女はその五行を上から読んだ。読んで、いちばん下の一行のところで、筆を持ったまま動かなくなった。
「なあに」
「この様式を、対岸へ届ける手立てがありません」
サラが、机の縁に手をついた。
「……ああ」
「返す先を書いてくださいと申し上げるためには、こちらから紙を出さなければなりません。紙を出すには、出す先が要ります」
「同じ穴じゃないの」
「同じ穴です」
声の高さは変わらなかった。だが彼女は、五行の紙を裏返して、机の端へ置いた。
窓の外で、朝の便が動き始めていた。門の前に馬車が三台。荷改めの角灯はもう消えている。この時刻の音は、彼女の耳が六年ぶん覚えていて、狂いがあればすぐ分かる。今日は狂っていなかった。
狂っていないところが、少し引っかかった。
街は回っている。回っているのに、紙のほうだけが行き止まりになっていた。
戸を叩く音がした。
入ってきたのは、まだ若い男だった。紙を運ぶ役の者だ。名は、ヤンといった。四年 この屋敷にいる。
「峠から、届いております」
「置いてください」
「一枚だけです」
「ヤン」
「はい」
「峠からの紙は、どなたが受け取られますか」
「門で、私が受け取っております」
「今月は、何枚ございましたか」
「四枚です」男は言った。「先月は、一枚でした」
「先々月は」
「ございません」
エレノアは、その三つの数を、頭の中に置いた。
男は、机の端へ紙を置いて、下がった。下がりぎわに一度、五行の裏返しの紙を見た。見ただけで、何も言わなかった。この屋敷の者は、机の上のものについて口を利かない。
エレノアは、その一枚を開いた。
掲示の写しではなかった。文だけだ。四行ある。
――第三街道の書記より。
――例外の扱いの欄に、二つ以上の日付を書いてもよろしいでしょうか。
――同じ日に、二つの区分が遅れております。
――名は、下に書き足しました。
いちばん下に、名前が一つ。エレノアの知らない名だった。
彼女は、その紙を、対岸の三枚の横に並べた。
「二件目?」
「二件目です」
「同じことを訊いてるの?」
「違うことを訊いております」エレノアは言った。「同じところが、抜けております」
サラが、二枚を見比べた。見比べて、少し目を細めた。瞳孔のふちの金の輪が、朝の光で一度だけ動いた。
「……返す先が、無いのね」
「ありません」
「名前は、両方 書いてある」
「書いてあります」
名前は、誰が書いたかを示す。返す先は、いま答えられる者がどこにいるかを示す。同じものだと、彼女は今朝まで思っていた。今朝までというより、半日前までだ。表紙に三行を書いたとき、彼女は名さえ並べば道になると考えていた。
名は、道ではない。名は、印だ。
印は、どこにあるかを言わない。
「エレノア」
「はい」
「これ、増えるわよ」
エレノアは、答えなかった。
増える。九つの街道に九人の書記がいる。他領に三つ。川の向こうに一つ。合わせて十三だった。今朝、彼女が十三の包みを出したのと同じ数だ。あのときは、こちらから出す数として数えた。今度は、こちらへ来る数として同じ十三が並んでいる。
それぞれが、同じ様式を回している。同じ様式を回せば、同じ場所で詰まる。詰まったら、訊く。訊く先は、表紙に書いてある。彼女の家の名だ。
紙は届く。返事は、行かない。
届く速さは、それぞれ違った。第三街道は早馬で四日。第五は六日。峠は十一日。他領の樫の坂は八日で、二番目の橋の先は十二日かかる。川の向こうは、峠までの三日を足して、どれだけになるのか誰も測っていない。十三の紙が、十三の速さで、一つの机に集まってくる。集まる先は一つしかない。
「――サラ」
「なに」
「第三街道までは、こちらから何日ですか」
「便で十一日。早馬なら四日」サラは即座に言った。「往復八日ね。あなた、四日で返事するつもり?」
「返せる先が分かっているものは、返します」
「じゃあ、対岸は」
「分かりません」
「待つの?」
「待ちます」
「待ってるあいだに、また詰まるわよ」
「詰まります」
「それ、あなたの紙のせいよ」
「はい」
「否定しないのね」
「しません」エレノアは言った。「返す欄を作らなかったのは、私です。六年、要らなかったからです」
「要らなかったんでしょ。じゃあ、仕方ないじゃない」
「要らなかったのではありません」彼女は言った。「渡さなかったので、要らずに済んでおりました」
サラは、それには何も返さなかった。机の端の五行の紙を、指で軽く叩いた。
「あなた、また一人で全部読むのね」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
返事の中身は、三行で書けていました。
書けなかったのは、宛名のほうです。
彼女が六年前に作った様式には、
「写した人がどこにいるか」を書く欄がありません。
執務室の中だけで使う紙に、そんな欄は要らなかったからです。
名前は、誰が書いたかを示します。
返す先は、いま答えられる人がどこにいるかを示します。
同じものだと思っていたのは、彼女のほうでした。
次話「濡れた外套」では、返事を待っているところへ、向こうから人が来ます。
川を渡ってきた者の外套は、裾から乾きます。
よろしければ、ブックマークで追っていただけると嬉しいです。




