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第70話 いちばん下の名

第3部を始めます。


第2部の最後で、エレノアは六年ぶりに自分の紙へ署名し、

「この様式を写した者は、この下に、名を書き足すこと。訊かれるのは、いちばん下の名です」

と表紙に書きました。

その同じ日の夕方に、灰色の川の対岸から届いた写しの表紙に、知らない名前が書いてありました。

この話は、その直後から始まります。


第3部は、彼女が作った「訊きに行く先」が、最初の一件でうまく働かないところから始まります。

今度は、彼女は領地を出ません。全部が、向こうから来ます。


第1部・第2部をお読みでない方は、第1話からどうぞ。

更新を追っていただけるようでしたら、ブックマークをいただけると嬉しいです。

 包みには、まだ紙が残っていた。


 掲示の写しは三枚あって、それは門の前で読んだ。読んだつもりでいた。三枚をもう一度そろえ直したとき、いちばん下の紙の裏に、もう一枚が折り込んであるのが指に触れた。厚みが違う。掲示の紙より粗く、腹で撫でると毛羽が起きた。


 北へ折れた定期便の馬車は、もう見えなかった。通りには荷改めの声が戻っている。夕方の便が入る刻限で、車輪の音が二重になり、値を言い合う声が東の角から上がって、すぐに収まった。回っているものは、音を立てない。立てているのは、回すために動いている人間のほうだ。


 エレノアは、屋敷へ戻らずに、門の柱のそばでその一枚を開いた。


 折り目が三つあった。四つに畳んで、懐に入れて運ばれた紙だ。端に、うっすらと油が回っている。麻縄を毎日 扱う手が触れる場所には、必ずその色がつく。役所の紙ではなかった。役所の紙は板に挟んで運ばれるので、折り目がつかない。


 墨は薄い。薄いのに、字が太かった。何度も上からなぞってある。書き慣れていない者が、間違えないように力を入れて書いた紙だ。書き慣れた者は、薄い墨を薄いまま置く。


 三行あった。


 ――例外の扱いの欄に、日付を書き足してもよろしいでしょうか。

 ――こちらでは、日付が書けません。

 ――どなたに伺えばよいのか、分かりません。


 エレノアは、その三行目を、二度読んだ。


「どうしたの」


 サラが、門の内側から出てきていた。癖のある黒髪を無造作に束ねて、襟元だけが几帳面に整っている。この女は、六年、同じ立ち方をしている。


「照会です」


「読んだでしょ、さっき」


「これは、添え状です」


 サラは、紙を覗き込んだ。覗き込んで、すぐに顔を上げた。一行目で全部を読む女だった。


「日付って、あなたが峠で書いたやつ?」


「はい」


 二月の話ではない。夏の終わりの、峠の掲示だ。荷が溜まって道が動かなくなったとき、彼女は線を消さずに、余白へ「木材、十一日後」と書き足した。あれで、荷を一台も動かさずに場所が空いた。塞いでいたのは荷ではなく、次がいつだか分からずに帰れなくなった人間のほうだったからだ。


「こっちに来て、まだ三月も経ってないのに」


「その掲示が回り始めたのが、三月前です」エレノアは言った。「この方は、同じところで詰まりました」


「三月で?」


「早いです」


 速さの話をしているのではなかった。同じ様式を回せば、同じ場所で詰まる。詰まった場所が同じだということは、様式がきちんと写されているということだった。壊れた形まで揃っている。


「で、どうするの」


「返事を書きます」


「じゃあ、書きなさいよ」


 エレノアは、答えなかった。


 彼女は、包みを持ったまま屋敷へ入った。廊下は、この時刻には人が少ない。夕方の便の帳合いが終わるまで、書き役は全員 下の部屋にいる。


 執務室の机は、片づいていた。


 今朝まで、机の右手前に紙が積んであった。文官長が毎朝そこへ置いていく分だ。積み方が決まっていて、上から順に読めば、その日に決めるべきことが順番に並ぶようになっている。六年、彼女はその順番で仕事をしてきた。


 その場所が、空いていた。


 テオドルは、今日の昼前に王都へ発った。馬車で九日。往復で十八日。彼女がそう決めて、彼が両手で包みを持ち直した。


 エレノアは、棚から自分の写しを出して、机に置いた。


 麻布ではない。革の装丁でもない。ただの綴じだ。六年 使って、背が丸くなっている。毎日 開かれている本の形をしていた。


 表紙のいちばん上に、今朝 書いた二行がある。


 ――ヴァルディエ侯爵領 様式

 ――この様式を写した者は、この下に、名を書き足すこと。


 その下に、もう一行。訊かれるのは、いちばん下の名です。そしていちばん下に、彼女の名。墨がまだ、わずかに光っていた。


 筆を置いてから、半日も経っていない。


 彼女は、その隣に、対岸から届いた三枚を並べた。


 表紙にあたる一枚は、麻縄で綴じた跡がある。上のほうに二つ、下のほうに二つ。紙の下端から指二本ぶんのところに、横一文字の染みが走っていた。輪郭がはっきりしている。一度 濡れて、そのまま乾いた跡だ。上と下で紙の色が違う。


 水の高さを、そのまま写し取ったような線だった。


 いちばん上に、二行。


 ――ヴァルディエ侯爵領 様式


 その下に、もう一行。字は知らない。若い手でもない。


 ――マルタ


 誰も教えていない。彼女が今朝 考えついた形を、灰色の川の対岸の誰かは、三月前にもう書いていた。書けと言われずに書いていた。


 人は、名を書く。


 それが分かったこと自体は、悪い話ではなかった。悪くはないのに、彼女は二つの表紙を前にして、二呼吸ぶん動かなかった。


「どうしたのよ」


 サラが、いつのまにか戸口の柱に背を預けていた。


「返事の宛名を、決めております」


「その名前でいいでしょ」


「この方が、どなたか分かりません」


「マルタでしょ」


「マルタが、書記なのか、荷を出す方なのか、渡し場を預かっておられる方なのか、分かりません」エレノアは言った。「宛先を間違えた紙は、届いても読まれません。読まれない紙は、返事が来ないのと同じです」


「じゃあ、渡し場の親方に出しなさいよ。名前なんか要らないでしょ」


「渡し場を預かる方が、掲示を書いておられるとは限りません」


「同じでしょ、そんなの」


「違います」エレノアは言った。「掲示を書く方は、数をご存じです。渡し場を預かる方は、順番をお決めになります。この照会は、書く側から出ております」


「なんで分かるのよ」


「困り方が、書く側の困り方です」


 順番を決める者は、通すか通さないかで困る。書く者は、書く場所が無いことで困る。この三行は、後のほうだった。


「……ふうん」


「それに、この方は、日付が書けないと仰っています」


「書けばいいじゃない」


「書けない理由が、あるはずです」エレノアは言った。「まだ、分かりません」


 サラの眉が、わずかに動いた。それだけだった。


 窓の外で、荷改めの角灯に火が入り始めていた。門の脇には、まだ馬車が一台 停まっている。南から来た便だ。荷が少なく、急いでいる形をしていた。


 エレノアは、階を下りた。


 御者は、荷台の縁に腰かけて、木の匙で何かを掬っていた。四十がらみの、日に焼けた男ではない。もっと若い。だが同じ座り方をしていた。この仕事の者は、みな荷台の縁に浅く腰かける。すぐ立てるからだ。


「お尋ねします」


「へえ」


「灰色の川の渡し場に、マルタという方がおられますか」


 男は、匙を止めた。止めて、少し考える顔をした。考えているというより、思い出そうとしている顔だった。


「おれは、袋を預かっただけです」


「どちらでですか」


「峠です」男は言った。「峠の役所に、対岸行きと、こっち行きが一緒に置いてありましてね。こっち行きを、おれが持ってきた」


「渡し場の方には、お会いになっていないのですね」


「会いません。峠までしか行きません」


「峠から向こうは、どなたが運ばれますか」


「向こうの人でしょう」男は、匙をまた動かした。「川があるんで。舟の者は舟の者で回してます。こっちは、荷を置いて帰るだけです」


「あの袋は、峠にどのくらい置いてありましたか」


「二日ばかりでしょうな」


「いつも、置いてありますか」


「近ごろは、ありますね」男は言った。「前は無かった。荷だけでした」


 当たり前のことを訊かれた顔だった。


 紙は、峠を経由していた。峠には九人の書記のうちの一人がいる。だがその一人も、川は渡っていない。渡し場から峠までは向こうの人間が運び、峠から先はこちらの人間が運ぶ。荷は繋がっている。人は、繋がっていない。


 エレノアは、屋敷へ戻った。


「サラ」


「なに」


「この名前は、どなたに伺えばよろしいですか」


 サラは、エレノアを見た。


 この女は、いつも壁際にいて、読んでいる。読んで、一言で毒を差す。だがこのときは、すぐには何も言わなかった。しばらく黙って、それから机に近づいて、対岸の表紙のいちばん下を、指で押さえた。


「あなたが今朝 書いたじゃないの」


「はい」


「訊かれるのは、いちばん下の名です、って」


「はい」


「それ、この名前でしょ」


 エレノアは、その指の先を見た。


 ――マルタ


「……はい」


 訊く先を、紙の上に作った。作った先に、訊く相手の名が書いてある。その名を誰に訊けばいいのかは、その紙のどこにも書いていない。


 角灯の火が、窓の下を一つ、通っていった。


 彼女は、対岸の三枚を、自分の写しの上に重ねて置いた。

 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。第3部の第1話でした。


 彼女が今朝 表紙に書いた三行は、

 「訊く先が、紙のどこにも載っていない」という六年ぶんの穴を埋めるためのものでした。


 その半日後に届いた最初の照会が、同じ穴を持っていました。

 しかも向こうは、誰にも言われないうちに、三月前から同じことをしていました。


 人は、名を書きます。

 書きますが、その名が誰なのかは、書きません。


 次話「書けない返事」では、エレノアが返事を書こうとして、書けません。

 書けない理由は、言葉ではありません。紙のほうに、返す場所が一行も無いからです。


 本日はこのあと、第73話まで続けて投稿します。

 よろしければ、ブックマークで追っていただけると嬉しいです。

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