第69話 数える人へ
定期便は、月に三度 出る。
北回りだ。隣国まで十一日。荷を積むのは朝で、門の前に馬車が二台つく。積み終わるまでに、半刻もかからない。六年、この便は一度も遅れていない。遅れないように組んだのは、彼女だ。
包みは、十三あった。
九つが、隣国の街道へ。そのうちの一つが、峠へ行く。三つが、他領へ。
最後の一つが、王都へ行く。
「テオドル」
「はい」
文官長は、旅装だった。厚い上着。細い男に、その厚みは似合っていない。六年、この男が屋敷の外へ出たことは、数えるほどしかない。
「王都までは、何日ですか」
「馬車で、九日でございます」
「お伝えいただくことは、一つです」
「はい」
「変わるのであれば、支援はします、と申し上げました」エレノアは言った。「六年前です。あの方は、変わりました。ご自分で、そう報告に来られました」
「はい」
「ですので、送ります」
テオドルは、包みを、両手で持ち直した。
「――お嬢様は」
「参りません」
「はい」
「請われて出すのではありません」エレノアは言った。「約束を、履行しております。履行に、私は要りません」
彼は、頭を下げた。
馬車が、一台目を積み終わった。
サラが、門の柱に背を預けていた。
「エレノア」
「はい」
「テオドル、行っちゃうのよね」
「九日です。往復で、十八日」
「その十八日、誰が回すの」
「あなたです」
サラの肩が、少しだけ、動いた。
「私、作れないのよ」
「存じております」
「六年 言ってるでしょ。読めるけど、書けないの」彼女は言った。「白い紙 出されたら、私、何も出てこないのよ。あなたのなら読めるけど、あなたのじゃなくなったら――」
「作らなくて、済みます」
サラが、こちらを見た。
「――なんで」
「書いてありますので」
エレノアは、包みの一つを、指で示した。
中身は、三行の紙だ。枠の一割は、空けておきます。理由。次に何が来るかは、誰にも見えません。見えるようになったら、埋めてください。
「六年、この領地の一割は、私の頭の中にありました」彼女は言った。「頭の中にあるものは、読めません。読めないものを、あなたは読もうとしていました。読めないので、私が要りました」
「――要らなくなったの」
「一割は、要らなくなりました」
サラは、答えなかった。
彼女は、柱から背を離さなかった。この女は、六年、壁際にいる。壁際にいて、読んでいる。読めるものが増えれば、この女の仕事は増える。
「……ふうん」
「サラ」
「なあに」
「三割は、据え置きです」
「上げなさいよ」
二台目の馬車に、包みが積まれた。
エレノアは、峠へ行く一つを、手に持っていた。
麻の袋だ。宛名だけを書いてある。差出人は、書かなかった。
――“数える人へ”
三年前の二月、同じ宛名を書いた袋が一つ、峠の役所に届いた。差出人はなかった。宛名だけだった。中身は、六年 いちばん近くにいた人間が写した、彼女の三年だった。
届いた先の男は、差出人を探さなかった。中身が正しかったからだ。
彼女は、その袋を、御者に渡した。
「――お嬢様」
サラが、そう言った。
「表紙は?」
エレノアは、動きを止めた。
彼女は、屋敷へ戻った。
執務室の棚に、この領地の写しがある。麻布ではない。革の装丁でもない。ただの綴じだ。六年 使って、背が丸くなっている。毎日、開かれている本の形だった。
表紙には、何も書いていない。
書く必要が、なかったからだ。この部屋のものは、全部、彼女のものだ。名前を書くのは、誰かに渡すときだけで、彼女は六年、誰にも渡していない。
エレノアは、筆を取った。
表紙の、いちばん上に、書いた。
――ヴァルディエ侯爵領 様式
書いてから、彼女は、その二行を見た。
三年前、峠の書記になる娘が、麻布の表紙に、同じ二行を書いた。自分が考えたものではないので、と。その二行が、一年後に他領へ出て、いま、名前のない橋の先に立っている。
消さない。
彼女は、その下に、行を足した。
――この様式を写した者は、この下に、名を書き足すこと。
――訊かれるのは、いちばん下の名です。
筆を、止めなかった。
この様式には、書いていないことが多すぎる。玉を掻き回さない引き方が書いていない。掌を止めろとは、どこにも書いていない。それでも六年、渡っていた。前の者から、その前の者から。渡っていたのは、訊く相手がいたからだ。
三年、あの娘には、訊く相手がいなかった。
いなかったのではない。名前が、どこにも載っていなかっただけだ。
紙には、様式が載っている。数字が載っている。日付が載っている。運んだ者の名は、一つも載っていない。載っていないものには、訊けない。訊けなければ、教わらない。教わらなければ、一人で四回 消す。
六年前、彼女はこう思った。教える相手がいなかった、と。
違った。
教わりに来る道を、彼女が作らなかっただけだ。
エレノアは、その行の下に、もう一行 足した。
――エレノア・ヴァルディエ
六年で、初めてだった。
この領地の紙に、彼女が自分の名を書いたのは、断罪の日の、王都の書類が最後だ。あのとき、彼女は反論は致しません、と言って、署名した。以後、六年、彼女は決めるだけで、名乗らなかった。名乗る必要が、なかったからだ。
いま、名前がある。
その下は、白い。
――ここに、書き足される。
次に写す者が、この下に名を書く。その者に訊けば、答えが返る。答えられなければ、その者が、上の名に訊く。上が答えられなければ、その上に訊く。
いちばん上に、彼女がいる。
訊かれる場所を、彼女は初めて、紙の上に作った。
定期便は、昼前に出た。
馬車が二台。門を出て、北へ折れて、それから見えなくなった。十一日で峠に着く。峠の役所で、荷改めの角灯を持った男が、麻の袋を受け取る。差出人はない。宛名だけだ。
男は、差出人を探さないだろう。中身が、正しいからだ。
その袋は、掲示を書く娘の机の上に置かれる。彼女は、それを開く。開いて、三行を読む。読んだら、峠の役所の棚から、麻布の帳面を出す。
後ろのほうの頁だ。
四回、線が引いてある。五つ目が、書きかけで止まっている。理由――と書いて、そこで終わっている。線は、引いていない。
三年、あの手は、そこから動いていない。
エレノアは、門の前で、しばらく立っていた。
風が、通りの土を、少しだけ動かした。荷改めの声。車輪。値を言い合う二人。この街がどこまで回っているかが、耳だけで分かる。
回っていた。
「エレノア」
「はい」
「切られてるのよ、あなた」サラが言った。「契約、あっちから切られたの。忘れてない?」
「忘れておりません」
「九つの街道、あの女のものよ。他領の三つも。あなた、そこに紙 送ったの」
「送りました」
「ただで?」
「ただで、です」
サラは、しばらく、黙っていた。
「あの女、なんて言うと思う?」
エレノアは、答えなかった。
切って、何が変わりますか、と彼女は訊いた。何も、とあの女は答えた。九つの街道は明日も回る。他領の三つも。掲示は下ろさない。書記も替えない。あなたの名前も、そのままよ、と。
合っている。
切られた者には、失うものがない。失うものがなければ、値を付ける理由もない。売りません、と言う必要も、貸します、と言う必要もない。
――切ったのは、あの方です。
六年、彼女は盤の上でものを考えてきた。盤の上にいる者は、盤の上の手しか打てない。彼女は今朝、盤の外から、十三の包みを出した。
門の向こうから、馬車が一台、近づいてきていた。
北からではない。南だ。定期便の逆の便だ。荷が少ない。急いでいる形の馬車だった。
御者が、門の前で止まって、荷台から包みを一つ下ろした。
「ヴァルディエ侯爵領へ」
「はい」
「照会です」男は言った。「二日 遅れました。申し訳ありません」
「――どちらからですか」
「灰色の川の、対岸から」
エレノアは、その包みに、手を伸ばしかけて、止めた。
「二日は、どちらで遅れられましたか」
「峠です」
「――峠」
「掲示に、日付が入っておりました」男は言った。「二日後、と。ですので、二日 待って、参りました」
「その日に、通れましたか」
「通れました」
彼は、荷台の縁に手をかけて、それだけ言った。当たり前のことを訊かれた顔だった。
「日付は、当たりましたか」
「当たりましたよ」男は言った。「ずれたら、待たんです。待ってても来ないもんは、置いて帰ります」
エレノアは、その包みを、受け取った。
軽い。紙が数枚だ。彼女は、その場で開いた。
掲示の写しだった。
左に日付。右に区分。上から、穀物、木材、鉄。下に、例外の扱い。彼女の様式だ。字は知らない。若い手でもない。
紙のいちばん上に、二行あった。
――ヴァルディエ侯爵領 様式
その下に、もう一行。
名前が、書いてあった。
エレノアは、その名を、頭の中に置いた。
置いて、探した。六年ぶんを、端から端まで。屋敷の廊下。執務室の戸。机の端に置かれる紙。峠の掲示板。四十戸の柱の刻み。市場の東の角の、木の箱。
どこにも、なかった。
「……存じません」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第2部「私の名前で、壊れていく」は、この話までです。
――この様式を写した者は、この下に、名を書き足すこと。
――訊かれるのは、いちばん下の名です。
紙には、様式が載っています。数字が載っています。日付が載っています。
運んだ者の名は、一つも載っていませんでした。
載っていないものには、訊けません。訊けなければ、教わりません。
教わらなければ、一人で四回 消します。
六年前、彼女は「教える相手がいなかった」と思っていました。
教わりに来る道を、彼女が作らなかっただけでした。
そして今日、切られた女が、切った国の九つの街道へ、紙を送りました。ただでです。
切られた者には、失うものがありません。失うものがなければ、値を付ける理由もありません。
――売りません、と言う必要も、貸します、と言う必要も、もうありません。
灰色の川の対岸から届いた掲示の写しには、いちばん上に彼女の家の名があり、
その下に、もう一つ、名前が書いてありました。
彼女は、その名を知りません。
六年前と、同じです。
――ですが、今度は、訊きに行く先が、紙に書いてあります。
この続きから、第3部「いちばん下の名」が始まります。
本日はこのあと、第73話まで続けて投稿します。




