第68話 見えません
紙は、白かった。
執務室の机の上だ。窓は閉めてある。夜だからだ。通りの音はもう聞こえない。荷改めも、車輪も、値を言い合う声もない。回っているものが止まっている時間だけ、この街は静かになる。
灯りは、一つ。
エレノアは、筆を持っていた。
三十六日前、彼女は宿場町の平屋で、同じ格好で三時間 座っていた。窓を開けて、通りの音を入れて、白い紙の前に。書くことは決まっていた。一行で足りた。その一行の下に、理由を書こうとして、書けなかった。
カティアが戸口にいて、三時間 外で数えていたと言った。
彼女は、一行目を書いた。
――枠の一割は、空けておきます。
書けた。三十六日前も、ここまでは書けている。書けなかったのは、その下だ。
彼女は、筆を止めなかった。
止めれば書けなくなると、峠で分かっている。三十五日前、掲示板の余白に日付を書いたときも、そうだった。書きながら決めた。決めながら書いた。手が止まった瞬間に、頭が、書かない理由を探しはじめる。
――理由。次に何が来るかは、誰にも見えません。
書いた。
筆が、紙から離れた。
二十二文字だった。
六年、彼女はこの二十二文字の前で止まっていた。数えれば、それだけだ。数えられるものが、六年 書けなかった。
風が、閉めた窓を、少しだけ鳴らした。
彼女は、その一行を、見ていた。
六年、この一行の前で止まってきた。止まる理由を、彼女は正確に持っていた。書けば規則になる。規則には理由が付く。理由には条件が付く。条件が付いたものは、条件が外れた日に外される。長雨と書けば、晴れた年に外される。冬と書けば、八月に外される。ロイド・ヴァルケンが三日で証明した。
誰にも見えません、というのには、条件がない。
長雨の年に外れない。暖かい冬にも外れない。三十年 何も起きなくても、外れない。次に何が来るかが見えるようになる日は、来ないからだ。来ないものは、外せない。
六年前に、彼女は同じ形の一行を、一度 書いている。
――選べません。誰も。
あれを、三十の商会が読んだ。読んで、頷いて、翌朝 玉を引きに来た。六年、一度も外れていない。彼女はそれを、抽選という仕組みの説明だと思っていた。説明ではなかった。あれが、理由だった。
書けなかったのではない。
書いてあるものを、彼女が読んでいなかっただけだ。
彼女は、次の行に、筆を下ろした。
――見えるようになったら、埋めてください。
書いてから、彼女は、筆を置いた。
それでいい、と思った。
埋めろ、と書いてある。埋めてよい、と自分で書いてある。だから、誰かが埋めようとしたときに、この紙は反論しない。反論する必要がない。埋めるには、見えるようになったと言わなければならないからだ。
言える者が、いない。
六年 言えなかった。彼女が、いちばん見える人間として立っていた六年、一度も。
戸が、鳴った。
「入ってください」
テオドルだった。手に、紙の束を持っている。
「お申しつけの分でございます」
エレノアは、それを受け取った。
厚い。名前が並んでいる。いつ入って、いつ出て、何をしていたか。左の端に、届いた順の印がある。六年ぶんを、この男は三日で作った。三日で作れたということは、元から、全部 知っていたということだ。
彼女は、数えた。
四十一人だった。
覚書と、同じ数だ。峠の役所の机の上で、彼女は四十一行を仕分けた。三十七と、九十七に。あれは、届かなかったものの数だった。これは、この屋敷を通った人間の数だ。
偶然だった。偶然だが、彼女はその数を、二度 数えた。
四十一人のうち、いま屋敷にいるのが二十六人。辞めたのが十五人。三行目に、ニナの名がある。六年前 四月。同年 九月、執務室付。写しを取る者。三年前 一月、退く。
顔が浮かぶのは、二人だった。
サラと、テオドル。四十一のうち、二人だ。
「テオドル」
「はい」
「四十一人です」
「はい」
「そのうち、お名前を仰れるのは」
「四十一人でございます」
エレノアは、顔を上げた。
「――いつから、ご存じでしたか」
「はじめから、でございます」テオドルは言った。「紙を動かす者の名を私が存じませんと、紙が止まりますので」
彼女は、答えなかった。
峠の下で、角灯の丸い光の中で、同じ問いを、同じ形で一度 訊いた。あなたの役所には何人おりますか。二十二人です。そのうち、お名前を仰れるのは。二十二人です。数える人間の名前は、数えます。
あのとき、彼女は自分を、例外だと思っていた。
彼女は、束を閉じた。閉じて、机の端に置いた。棚へは回さなかった。
テオドルは、机の上の、もう一枚の紙を見ていた。
「――お嬢様」
「読んでください」
テオドルは、読んだ。
三行だ。細い男が、三行を読むのに、思ったより長くかかった。
「これは、規則になりますか」
「なります」
「条件は」
「ございません」
彼は、答えなかった。
彼は、その紙を、もう一度 上から読んだ。指で辿らなかった。この男は、六年、紙を指で辿ったことがない。
「……外れませんね」
「外れません」
「見えるようになったら、埋めてください、と」
「はい」
「――誰も、言えません」
「言えません」
テオドルは、紙から目を離さなかった。
「お嬢様」
「はい」
「一年目の秋に、私は、これを伺っておりました」
エレノアは、その言葉を、聞いた。
「二年目の春にも、三年目の冬にも」テオドルは言った。「三度、伺っております」
「はい」
「――伺っておりましたら、私は」
彼は、そこで、口の形を止めた。
言おうとして、やめる男だ。半分は言わなくてよいことだと学んでいる。学ばせたのは、彼女だ。
「テオドル」
「はい」
「仰ってください」
彼は、少し、間を置いた。
「守るのではなく、読めておりました」
灯りの芯が、一度、鳴った。
「六年、私は、守っておりました」テオドルは言った。「お嬢様が決められたことですので、そのとおりに動かしました。動かすのに、理由は要りません。理由が要らないのは、お嬢様がいらっしゃるからです」
「はい」
「読めておりましたら、私が、書いておりました」
エレノアは、答えなかった。
この男は、六年、その一行を運んでいた。三部に写して、一部を棚へ、一部を机の上へ、一部を自分の手元へ。運びながら、中身を読めずにいた。読めなかったのではない。読ませてもらえなかった。
――必要ありません。
三度、彼女はそう言った。三度目で、この男は訊くのをやめた。
やめた男の下に、写しを取る娘が来て、同じことを訊いた。彼は、存じません、と答えた。答えられる人間へ行きなさい、と言った。
行った娘は、余白に書いて、線を引かれた。
「テオドル」
「はい」
「申し訳ございませんでした」
彼は、答えなかった。
六年、この部屋で、その言葉が使われたことはない。
「……お嬢様」
「はい」
「その紙は、どちらへ」
「写しを、九部」エレノアは言った。「隣国の街道へ、九つ」
「他領の三件は」
「三部です」
「――照会の来ていない先にも、でございますか」
「はい」
彼は、頷いた。
戸が、また鳴った。開いた。
サラが、入ってきた。壁際まで歩いて、そこに背を預けた。いつもの場所だ。
「読んだわよ」
「――どちらでですか」
「後ろから」サラは言った。「あなた、書くとき、肩が下がるのね。六年 見てるのよ」
エレノアは、答えなかった。
サラは、壁から背を離さない。
「これ、渡せるわね」彼女は言った。「私、読めるだけの人間だけど、これは、読めば分かるわ。誰でも分かる。若い子でも写せる」
「はい」
「あの子に送るんでしょ」
「送ります」
「宛名は」
「“数える人へ”です」
サラは、少しだけ、口の端を動かした。笑みとも、嘲りともつかない表情だった。
「で、あと、どこへ送るの」
「九つの街道と、他領の三つと」
エレノアは、机の上の紙を見ていた。
「王都です」
サラの、肩が、動いた。
「――王都?」
「はい」
「あなた、行かないわよね」
「行きません」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
――枠の一割は、空けておきます。
――理由。次に何が来るかは、誰にも見えません。
――見えるようになったら、埋めてください。
長雨と書けば、晴れた年に外されます。冬と書けば、八月に外されます。
誰にも見えません、というのには、条件がありません。外れる日が、来ません。
六年前に、彼女は同じ形の一行を、一度 書いています。
――選べません。誰も。
書けなかったのではありませんでした。
書いてあるものを、彼女が読んでいなかっただけでした。
次話「数える人へ」で、第2部はひと区切りです。
――王都へも、送ります。ですが、彼女は行きません。
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