第67話 玉
抽選は、市場の東の角で、毎朝 行われていた。
エレノアは、六年、それを見たことがない。
組んだのは彼女だ。優先順位を撤廃して、最低限を均等に配り、余った分は完全に抽選にする。あの日、彼女はそう決めて、紙に書いて、テオドルに渡した。渡してからのことを、彼女は知らない。知る必要がなかった。回っているかどうかは、数字を見れば分かる。
回っていた。六年、一度も止まらずに。
角には、木の卓が一つ出ていた。
その上に、箱がある。木の箱だ。蓋に穴が一つ開いていて、手首が入るくらいの大きさだ。角が丸くなっている。六年、毎朝 触られた木の丸まり方だった。
人が、十四、五人 集まっていた。
揉めていない。誰も並んでいない。卓の周りに、思い思いに立っている。荷主だ。手に紙を持っている者もいる。持っていない者もいる。
卓の向こうに、若い娘が座っていた。
十六か、それくらいだ。髪を後ろで結わえている。前掛けをして、袖をまくっている。彼女は箱の蓋を押さえて、それから、右手を穴に入れた。
手が、動かなかった。
中を探っていない。掻き回してもいない。入れたところで、そのまま止めている。それから一つ、掴んで、出した。手の中にあったのは、指の先ほどの木の玉だった。番号が焼いてある。
「二十二番」
娘は、そう言った。
人の輪の中で、一人が手を上げた。娘は玉を卓に置いて、脇の紙に、何かを書いた。それから、また手を入れた。
「九番」
誰も、答えなかった。
「九番、おられませんか」
少し待って、娘は次を引いた。
「三十番」
輪の端で、男が手を上げた。男は帽子を取って、それから、かぶり直した。それだけだった。喜びもしない。誰も、その男を見なかった。
エレノアは、卓から五歩ほど離れたところで、それを見ていた。
速い。十四人が、四半刻もかからずに片付いていく。誰も文句を言わない。誰も、娘に話しかけない。話しかける理由がないからだ。あの娘は、何も決めていない。決めていない者に、話しかけても仕方がない。
六年前、彼女はそう組んだ。誰も選ばない。誰も選べない。選べないから、誰も恨まれない。恨まれないから、明日も同じ卓が出る。
組んだ形が、いま、木の卓の上で動いていた。
彼女は、それを、今日 初めて見た。
最後の玉が出て、輪が、ばらけた。
娘は、玉を全部 箱に戻した。数えながら戻している。三十いくつある。数え終わって、蓋を閉めて、紙を折った。
それから、顔を上げた。
目が、合った。
娘は、動かなかった。立ち上がりもしない。頭も下げない。ただ、卓の向こうから、こちらを見ていた。
エレノアは、その顔を、見た。
――覚えている。
六年前、領地の外れの道の脇だった。服が古くて、ところどころ擦り切れていた。手に小さな袋を持っていて、中にパンの欠片が入っていた。誰かが分けてやったものだ。十歳くらいの子どもで、一言も喋らず、頷いただけだった。
あのとき、エレノアは手を伸ばしかけて、止めた。止めて、背を向けた。北側の商会を全部 切った二日あとだ。三百人が失業していた。この子の親も、その中にいたのだろう。彼女はそれを、数字で知っていた。
伸ばせば、一人が救われる。伸ばさなければ、三百人が、平等に何ももらえない。片方が大きい。だから、伸ばさなかった。合っていた。
六年、この領地で、エレノアが顔を覚えている者は、三人しかいない。サラと、テオドルと、この子だ。あとは、一人もいない。廊下ですれ違う三人も、紙を運ぶ者も、灯りを替える者も、写しを取る者も、一人も。
覚えているのは、この一人だ。
手を伸ばして、止めた一人だけ。
「お嬢様」
娘が、そう言った。
エレノアは、答えなかった。
「あのとき、手を、出しかけられました」
風が、市場の幕を、少しだけ動かした。
「――覚えておいでですか」
「はい」娘は言った。「わたし、そのあと、ずっと考えておりました」
「何をですか」
「なぜ、引っ込められたのか、を」
彼女は、箱の蓋に、手を置いた。
「四年 かかりました」娘は言った。「ここに座ってから、分かりました」
「――お名前を」
「リタと申します」
「リタ」
「はい」
エレノアは、その名を、頭の中に置いた。置いて、そこに残した。
「リタ。この仕事は、何年ですか」
「四年です」
「その前は」
「厨におりました」
「――なぜ、こちらへ」
「玉を引く者は、荷主と縁のない者でなければなりません」リタは言った。「テオドル様が、そう仰いました。わたしは、身内が誰もおりませんので」
エレノアは、答えなかった。
組んだのは、彼女だ。荷主と縁のない者に引かせる。そこまでは、紙に書いた。書いてから、誰がそれをやるのかを、彼女は考えなかった。考えなくても、テオドルが探す。探したら、いた。身内が誰もいない者が、この領地には、六年前に三百人ぶん、いた。
「リタ」
「はい」
「玉を引かれるときに、手を止めておられました」
「はい」
「探しておられませんでした」
「探すと、揉めます」リタは言った。「掻き回しておりますと、選んでいるように見えますので。入れて、そのまま握れば、誰にも見えません」
エレノアは、その返事を、聞いた。
「――どなたに、教わりましたか」
「前の方に」
「その方は」
「その前の方に、と仰っておりました」リタは言った。「はじめに誰が始めたのかは、存じません」
市場の音が、卓の周りだけ、少し薄い。
六年だ。
紙には、書いていない。掌を止めろ、とはどこにも書いていない。彼女が組んだのは、玉を引くところまでだ。引き方は、書いていない。
書いていないものが、六年、渡っていた。
「リタ。この抽選で、揉めたことは」
「一度もございません」
「六年、ですか」
「六年です」リタは言った。「わたしの前の方も、揉めなかったそうです」
「なぜだと、思われますか」
娘は、少し、考えた。
考えるところを、隠さなかった。
「誰にも分からないからです」
エレノアの、指が、止まった。
「わたしが決めていたら、揉めます」リタは言った。「わたしが誰かを選んだことになりますので。選ばれなかった人は、なぜあの人で、わたしではないのか、と訊きます。訊かれたら、答えなければなりません」
「はい」
「玉が決めれば、誰も選んでおりません」
彼女は、箱の角を、指の腹で撫でた。丸くなったところだ。
「誰にも分からないことを、誰にも分からないままにしておく。それだけです」リタは言った。「そうすると、誰も、訊きません」
市場の音が、少しだけ遠くなった。
エレノアは、その箱を、見ていた。
――書いてある。
六年前、あの日、彼女は何と言ったか。ロイド・ヴァルケンが向かいに立っていて、盤の上に構造が載っていて、彼女はそれをひっくり返した。優先順位の撤廃。均等配分。追加分は、完全に抽選。
言った言葉が、二つある。選べません、と言った。誰も、と言った。
あれが、理由だった。
誰にも見えないから、玉を引く。誰にも見えないことを、誰にも見えないまま置いておく。彼女は六年前に、それを紙に書いて、掲示に出して、三十の商会に読ませた。三十人とも、読んで、頷いて、翌朝 玉を引きに来た。誰も、外さなかった。六年、一度もだ。
条件が、付いていなかったからだ。
長雨の年に外れる理由ではない。暖かい冬に外れる理由でもない。誰にも見えない、というのは、いつまで経っても本当のままだ。本当でなくなる日が来ない。来ないものは、外れない。
書けたのだ。一度、書いている。書いたことに、気づいていなかっただけだ。
「リタ」
「はい」
「もう一つ、伺います」
エレノアは、木の卓の前に立った。
「あのとき、私が手を出しておりましたら、あなたは、いま、どうしておられましたか」
リタは、答えなかった。
彼女は、箱を、両手で持ち上げた。木の箱だ。中で、玉が、乾いた音を立てた。
「分かりません」
娘は、そう言った。
「誰にも、分かりません」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
六年、この領地でエレノアが顔を覚えている者は、三人しかいません。
サラと、テオドルと、この子です。
覚えているのは、手を伸ばして、止めた一人だけでした。
――誰にも分からないことを、誰にも分からないままにしておく。
――そうすると、誰も、訊きません。
六年前、彼女は言いました。「選べません」「誰も」と。
あれが、理由でした。
書けたのです。一度、書いています。
書いたことに、気づいていなかっただけでした。
次話「見えません」で、彼女は白い紙の前に座ります。
――今度は、三時間かかりません。
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