第66話 一割
執務室は、ひと月 空けても、何も変わっていなかった。
机の上に、紙が積んである。日付の新しいものが上だ。左の端に、届いた順の印がある。窓は開いていて、通りの音が入ってくる。車輪。荷を数える声。遅れを詫びる声。回っているものは、音を立てない。人がそれに気づくのは、止まったときだけだ。
止まっていなかった。
門を入ってから、この部屋まで、彼女は歩いた。
廊下で、三人とすれ違った。三人とも、壁際に寄って、頭を下げた。彼女は頷いて、通り過ぎた。六年、そうしてきた。すれ違うのに、二秒もかからない。
二秒あれば、顔は見える。
見えるが、見ていない。三十四日前、峠の下で、彼女は麻布の帳面を開いて、若い手の字を見た。癖のある、少し急いだ、右へ流れる字。線を引くときだけ、定規を当てる手。あれを、彼女は三秒で読んだ。読めたのだ。読める人間なのだ。
その手は、三年、毎日 この廊下を歩いていた。
エレノアは、机の前に立った。
座らなかった。ひと月と少し、この椅子に誰も座っていない。それでも紙は減っている。届いて、処理されて、棚へ行っている。誰かがやった。
「お帰りなさいませ」
テオドルが、戸口にいた。
細い男だ。背は高くない。髪は白いものが混じっていて、指が長い。六年、この男は彼女の決めた順番どおりに紙を動かしてきた。言おうとしてやめる癖がある。半分は言わなくてよいことだと学んでいる。学ばせたのは、彼女だ。
「テオドル」
「はい」
「ひと月の分を、伺います」
「三割の更新が一件、水路の普請が二件、南側の商会から照会が四件」彼は言った。「照会のうち二件は、様式の写しの依頼です」
「――他領からですか」
「はい」
「何とお答えになりましたか」
「お嬢様のお帰りをお待ちください、と」
エレノアは、頷いた。
ひと月半、この男はそう答え続けた。答えられないものを、答えられないまま、置いておいた。棚へ回して、忘れずに、上に積んである。
「テオドル。一つ、伺います」
「はい」
「この領地の通行の枠は、いま、何割 空いておりますか」
「一割です」
「私が留守のあいだも、そうでしたか」
「六年、そうでございます」
窓の外で、荷車が一台、通っていった。
「なぜですか」
テオドルの指が、戸口の枠のところで、止まった。
「――どういう意味でございましょう」
「なぜ、一割 空けておられますか」
彼は、答えなかった。
エレノアは、待った。この男は、言おうとしてやめる。やめる前に、必ず一度、口の形が動く。いま、動いた。動いて、止まった。
「……お嬢様が、そう決められたからです」
「理由を、ご存じですか」
「存じません」
彼は、そう言った。
言ってから、頭を下げた。謝る形だった。
「六年、動かしてこられました」エレノアは言った。「理由を、ご存じないまま」
「はい」
「一度も、お訊きになりませんでしたか」
「訊きました」
エレノアの、指が、止まった。
「――どなたに」
「お嬢様にです」
「いつですか」
「一年目の、秋でございます」
彼は、顔を上げなかった。
「枠が一割 空いております、と申し上げました。埋めてよろしいですか、と」テオドルは言った。「お嬢様は、埋めないでください、と仰いました。私は、なぜですか、と伺いました」
「私は」
「お答えになりませんでした」
部屋の中の音が、少しだけ遠くなった。
「二度目は、二年目の春でございます。三度目は、その年の冬です」テオドルは言った。「三度目に、お嬢様はこう仰いました。必要ありません、と」
エレノアは、答えなかった。
――必要ありません。
その言葉を、彼女は六年、いちばん角の立たない言葉だと思って使ってきた。短くて、正確で、相手を責めない。使われた側は、そこで話をやめる。やめてくれるから、便利だった。
「以後、伺っておりません」テオドルは言った。「訊いてはならないことだと、存じましたので」
彼は、そこで、初めて顔を上げた。
「三年目の春に、写しを取る娘が、私のところへ参りました」
エレノアは、その顔を見た。
「同じことを、訊いてまいりました」テオドルは言った。「この一割は、何のためですか、と」
「――あなたに」
「はい」
「何と、お答えになりましたか」
「存じません、と」
彼は、少しだけ、目を伏せた。
「存じませんでしたので。ですので、お嬢様にお訊きしなさい、と申しました」
エレノアは、動かなかった。
三年目の春。
この男が、そう言った。そう言われた娘は、執務室へ行った。行って、訊けなかった。訊けなかったから、写しの右の余白に、書いた。上から三寸ほどのところ。小さい字。
彼女は、定規を取った。
「テオドル」
「はい」
「あなたは、その娘を、私に引き合わせようとなさいました」
「――ご存じでしたか」
「先日、伺いました」
テオドルは、しばらく、黙っていた。
「よく写す娘でございました」彼は言った。「三部を、同じ速さで、間違えずに。三年、一度も間違えておりません。私は、六年で、あれだけ写す者を見たことがございません」
「それで」
「お嬢様にお訊きしたいことがあるようでしたので」
彼は、そこで、言葉を切った。
「私が、答えられませんでしたので」
エレノアは、窓のほうを見た。
――必要ありません。
三度目だった。三年目の春に、彼女はその言葉を、三度 使っている。テオドルの三度目の問いに。娘の余白に。そして、引き合わせの申し出に。
全部、同じ春だ。
同じ春に、三つの戸が閉まった。閉めたのは、一人だ。
閉めた覚えは、ない。
覚えていないのは、閉めたと思っていないからだ。彼女は毎日、同じ言葉で百のことを終わらせてきた。終わらせるのが、仕事だった。終わらせなければ、次が来る。次が来なければ、紙が溜まる。紙が溜まれば、領地が止まる。
六年、彼女は止めなかった。
止めなかったぶんだけ、後ろに、閉まった戸が並んでいる。
「テオドル」
「はい」
「この部屋に、いま、何人おりますか」
彼は、部屋を見回した。
「――私と、お嬢様でございます」
「いいえ」
戸が、開いた。
紙を持った者が入ってきた。机の端に置いて、一礼して、下がった。若い男だ。顔は見なかった。見なくても紙は置かれる。六年、そうだった。
戸が、閉まった。
エレノアは、その戸を、見ていた。
六年、あの戸は日に何十回も開く。開いて、誰かが入ってきて、紙を置いて、下がる。彼女は顔を上げない。上げる理由がないからだ。紙は机の上にあり、机の上のものは彼女の仕事で、運んできた者は仕事ではない。
運んでくる者を見ない理由を、彼女は一度も考えたことがなかった。考える必要が、なかったからだ。理由のないことを、癖という。癖は、六年 続けると、作法になる。
「三人です」エレノアは言った。
テオドルは、答えなかった。
「あの方の、お名前を」
「――ヤン、と申します」
「いつからおりますか」
「四年でございます」
「四年」
「はい」
エレノアは、机の端の紙を見た。
置いたばかりの紙だ。角が揃っている。左の端に、届いた順の印がある。印の付け方が、正確だった。
「テオドル」
「はい」
「この部屋に出入りする者を、全員、書き出してください」
「――全員、でございますか」
「名前と、いつ入ったかと、何をしているかを」彼は答えなかったが、エレノアは続けた。「六年ぶんです。辞めた者も、含めてください」
「……承知いたしました」
彼は、頭を下げて、下がりかけて、足を止めた。
「お嬢様」
「はい」
「一つ、伺ってもよろしいですか」
六年、この男が二度 訊いたことはない。訊いて、やめた。それが、この男の六年だった。
「どうぞ」
テオドルは、机の上の紙を見ていた。
「一割は、何のためでございますか」
エレノアは、答えなかった。
答えられなかった。
六年前と、同じだ。一年目の秋も、二年目の春も、三年目の冬も、彼女はここに立って、この男に同じ顔を向けていた。あのときは、必要ありません、と言えた。
言えなくなっていた。
「――テオドル」
「はい」
「私が死んだら、その一割は、どうなりますか」
彼は、答えるまでに、間を置いた。
この男は、言おうとしてやめる。やめないときは、答えが一つしかないときだ。
「――外れます」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
テオドルは、六年、理由を知らずに一割を守っていました。
訊かなかったのではありません。三度、訊いています。
三度目に「必要ありません」と言われて、それきりにしました。
三年目の春に、写しを取る娘が同じことを訊いてきたとき、
彼は「存じません。お嬢様にお訊きしなさい」と答えました。
同じ春に、三つの戸が閉まりました。閉めたのは、一人です。
次話「玉」で、エレノアは抽選の席へ行きます。
――私が死んだら、その一割は、どうなりますか。
――外れます。
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