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第65話 北へ、十一日

 四十軒目の戸が閉まったとき、日は落ちかけていた。


 谷の道は、朝と同じ幅だった。石を積んだ低い塀。乾いた畑。煙は、二つ。四十軒 歩いても、増えなかった。夏だからだ。


 エレノアは、道の真ん中で、立っていた。


 膝から下が、重い。六年、彼女はこういう疲れ方をしたことがない。執務室で夜を明かした朝の重さは、頭にある。これは、足にある。


 ニナが、少し離れたところに立っていた。


 一日、彼女は何も言わなかった。エレノアが戸を叩き、文言を言い、訊かれたことに答えるあいだ、道の端で待っていた。手を前で組んで。道を空けたまま。


「ニナ」


「はい」


「訊かれたのは、十一軒でした」


「はい」


「あなたは、毎月、何軒に訊かれますか」


「――そのくらいです」


 娘は、そう言った。


 エレノアは、その返事を、聞いた。三十七ヶ月。毎月 十一軒。四百回だ。四百回、この娘は、いつ来るか分からないものについて、訊かれてきた。


「明日、北へ発ちます」


「はい」


「十一日です」


「はい」


 ニナは、驚かなかった。


 エレノアは、その顔を見た。特徴のない顔だ。日に焼けている。街で百人とすれ違えば、百人ぶんの中に紛れる。二十一日前、彼女はこの顔を見て、覚えるところがない、と思った。


 いまは、覚えている。


「ニナ」


「はい」


「連れて参りたい、と申し上げるところです」


 娘の指が、前で組んだところで、少しだけ動いた。


「申し上げません」


 風が、畑の土を、動かした。


「あなたが峠を離れれば、この四十軒に、誰も来なくなります」エレノアは言った。「掲示は峠にあります。峠まで登れるのは、御者だけです。家にいる者は、いつ来るかを、峠まで登らなければ知れません」


「はい」


「三年、あなたが登っておられました」


「はい」


「代わりが、おりません」


 ニナは、答えなかった。


 彼女は、道の先を見ていた。四十軒。板葺きの屋根に石が載っている。


「わたしも、そう思っております」


 娘は、そう言った。


 エレノアは、その言葉の形を、聞いた。決めたことのない人間の口調ではなかった。三年、峠の掲示を書いてきた声だ。数字のところで一度 置いて、それから次へ行く声。


「――ニナ」


「はい」


「一つ、申し上げます」


 エレノアは、峠のほうを見た。道は、木の間を折れながら、上へ続いている。


「これは、良くありません」


「はい」


「一人が歩いていて、その一人が病めば、四十戸が止まります。あなたが明日 転べば、止まります」彼女は言った。「三年、止まらなかったのは、あなたが三年 転ばなかったからです。それは、仕組みではありません」


「はい」ニナは言った。「存じております」


「――ご存じでしたか」


「三年、それだけを考えておりました」


 娘は、両手を、組み直した。


「わたしが歩かなくて済む形を、書こうとしました。四回、書きました。四回とも、駄目でした」


「五枚目は、理由ではありませんでした」


「はい」


 エレノアは、答えなかった。


 この娘は、自分が緩衝材であることを、最初から分かっていた。分かっていて、代わりを書けなかった。書けなかったから、歩いた。歩きながら、書こうとして、また消した。


 三年だ。


 それが、この人間の三年だった。


 峠の道を、二人は登った。


 日は落ちて、木の間はもう暗い。ニナは、角灯を持っていなかった。三年、この道を月に一度 越えている人間には、要らないのだろう。エレノアは、その背中の少し後ろを歩いた。


 峠の肩で、下が見えた。


 待避所に、焚き火が三つある。荷車が並んでいる。夕の便が二番目に入って、上りの荷とすれ違っている。すれ違えるのは、そこに場所があるからだ。


 掲示板の紙が、白く見えた。


「ニナ」


「はい」


「あの帳面の、後ろのほうの頁です」


「はい」


「四回、線が引いてあります。五つ目は、書きかけで止まっております」


「はい」


「理由――と書いて、そこで終わっております」


 ニナは、答えなかった。


 エレノアは、掲示板のほうを見ていた。


「書けたら、送ります」


 娘が、こちらを見た。


 暗くて、顔は見えなかった。手を前で組んでいるかどうかも、分からない。ただ、そこに立っている気配だけが、道の上にあった。


「――お嬢様」


「六年、書けておりません」エレノアは言った。「明日 書ける保証も、ございません。ですので、いつとは申し上げません」


「はい」


「ですが、書けたら、送ります」


 風が、峠の下から吹き上がってきた。


「どちらへ、お送りすればよろしいですか」


 ニナは、しばらく、黙っていた。


 それから、言った。


「“数える人へ”で、届きます」


 エレノアは、その言葉を、聞いた。


 三年前の二月、同じ宛名の袋が一つ、峠の役所に届いている。差出人は、どこにも書いていなかった。


「――承知いたしました」


 翌朝、宿場町を発った。


 ロイドは、関所の前まで来た。手ぶらだった。筆と、小さな墨壺と、薄い台帳を懐に入れて、この男はいつもそうやって街道を歩く。


「エレノア様」


「はい」


「募集は、二十七でした」


 エレノアは、その数を、聞いた。二十四でも、二十六でもない。三十のうち、二十七だ。得だと分かれば、人は乗る。乗るほうが得なうちは、乗り続ける。


「――成立しております」


「はい」ロイドは言った。「十一台です」


 彼は、それだけ言った。


 馬車が、動いた。


 道は、南から北へ、十一日ある。麦畑が切れて、丘になり、丘が切れて、川になる。定期便は北回りで、月に三度。早馬なら四日だ。


 十一日は、長かった。


 往路は、九日だった。二日 早い。あのときは、返事を待たせないために急いだ。返事の中身は、条件を先に出すことだった。彼女は九日 揺られながら、頭の中で条件を組んでいた。組み上がったものを、十日目に机の上へ置いた。売りません。貸します。


 あれは、綺麗な一手だった。


 帰りは、組むものが、ない。


 三日目に、馬車は橋を渡った。


 川幅は広くない。石の橋だ。エレノアは御者に、橋の名を訊いた。名はない、と言われた。この辺りでは、二番目の橋と呼ぶらしい。上流にもう一つあって、そちらが一番目だからだ。


 ――二番目の橋の先。


 覚書の、後ろのほうの地名だった。三年前の二月から数えていくと、途中で、この国のものではなくなる行がある。樫の坂。二番目の橋の先。灰色の川の対岸。


 橋を渡ったところに、掲示板が立っていた。


 彼女は、馬車を止めさせた。


 左に日付。右に区分。上から、穀物、木材、鉄。下に、例外の扱い。紙のいちばん上に、二行あった。


 ――ヴァルディエ侯爵領 様式


 書いたのは、この土地の書記だ。若い手ではない。ニナは、ここへ来たことがない。来たことのない場所の数を、あの娘は峠で御者に訊いて、覚書に足していた。


 彼女の家の名前が、名前のない橋の先に、立っている。


 下の欄には、日付が入っていた。粉、四日後。三番目の枠。六台。


 四日後だ。


 エレノアは、馬車に戻った。


 六年、彼女は領地を出なかった。出る理由がなかったからだ。出てみると、道は十一日ぶんあって、その十一日ぶんの先に、四十戸あった。四十戸の煙は、二つだった。


「エレノア」


 向かいで、サラが言った。


「なあに、じゃないわよ。私、四日で来たのよ。帰りは十一日?」


「――馬車ですので」


「三割 上げてもらおうかしら」


 エレノアは、答えなかった。


 サラは、肩をすくめて、窓の外を見た。


「エレノア」


「はい」


「あの子、置いてきたわね」


「はい」


「連れてきたら、あの村、死ぬもんね」


「はい」


「で、置いてきたら、あの子が転んだ日に死ぬのよね」


 エレノアは、答えなかった。


 サラは、それ以上 言わなかった。この女は、読むだけの人間だ。読んだものを、そのまま置く。置いたあとの片付けは、しない。片付ける人間は、六年、一人しかいなかった。


 九日目に、丘を越えた。


 道が、変わった。轍が深い。石が均してある。溝が、道の両側に掘ってある。深さも、傾きも、一定だ。誰が掘ったのかを、彼女は知らない。掘る基準を決めたのは、彼女だ。


 十一日目の夕方に、門が見えた。

 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


 一人が歩いていて、その一人が病めば、四十戸が止まります。

 三年 止まらなかったのは、あの娘が三年 転ばなかったからです。

 それは、仕組みではありません。


 ――存じております。三年、それだけを考えておりました。


 あの娘は、自分が緩衝材であることを、最初から分かっていました。

 分かっていて、代わりを書けませんでした。だから、歩きました。


 次話「一割」で、エレノアは領地に帰ります。


 ――そこには、一割があります。誰も、外にいません。


 よろしければ、ブックマークで追っていただけると嬉しいです。

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