第64話 四十軒
掲示は、四日目の朝に立った。
九つの街道に、同じ文言が出た。枠の四分を出す者を募る。出した者は、遅れた日に、空きへ入れる。出さない者は、入れない。強制ではない。
理由の欄は、なかった。
エレノアは、峠の掲示板の前で、その紙を読んだ。若い手の字だ。ニナが、今朝、写した。文言も、様式も、彼女の書いたものではない。だが、書き方は、彼女のものだった。左に日付。右に区分。下に、例外の扱い。
その下に、もう一つ、欄が増えていた。
――枠の四分。出す/出さない。
選ばせる欄だ。
六年前、彼女は執務室でその言葉を口にした。強制ではありません。選ばせるのです。乗れば利益が出る。乗らなければ出ない。そういう構造を作ります――そう言って、彼女は領地の流通を全部 組み直した。
一割だけ、組まなかった。
いま、その一割に、欄がついている。
「――ニナ」
「はい」
娘は、掲示板の脇に立っていた。筆と、小さな墨壺を持っている。ロイドのものと同じ形だ。三年、この娘は毎朝ここに来て、この紙を書いてきた。
「峠を、越えます」
「はい」
道は、下りだった。
四半刻ほどで木が切れて、谷が見えた。四十戸。板葺きの屋根に石が載っている。煙は、二つ。夏だからだ。二月なら、四十戸のうち四十戸から上がる。上がらない家があれば、それは薪が尽きた家だ。
エレノアは、下りた。
「ニナ」
「はい」
「私が、参ります」
娘が、足を止めた。
「――お嬢様」
「一軒目から、四十軒目まで」エレノアは言った。「文言を、教えてください」
ニナは、答えなかった。
彼女は、しばらく、道の先を見ていた。三年、毎月 歩いた道だ。石の位置も、塀の高さも、どの家の戸がどちらへ開くかも、全部、この娘の中にある。
「――枠の四分を出せば、遅れた日に、空きへ入れます」
「はい」
「四分を出すと、薪が二台と少しになります。ひと月、越せません」
「はい」
「ですので、出せません。出せませんので、外です」
ニナは、そこで、口を閉じた。
「それだけです」彼女は言った。「あとは、訊かれたことに、答えます」
「訊かれますか」
「訊かれます」
一軒目の戸は、道の右側だった。
エレノアは、叩いた。叩き方が分からなかった。役所の人間の叩き方でも、サラの叩き方でもない。しばらく待って、もう一度 叩いた。
年寄りが出てきた。
「枠の四分を出せば、遅れた日に、空きへ入れます」エレノアは言った。「四分を出すと、薪が二台と少しになります。ひと月、越せません」
年寄りは、聞いていた。
「ですので、出せません。出せませんので、外です」
「――そうかい」
戸が、閉まった。乱暴ではなかった。
エレノアは、その板を、しばらく見ていた。訊かれなかった。怒鳴られもしなかった。七日前、東街道の南で、籠を提げた女が同じ顔をした。書いてあるじゃないか、と。あの女も、この年寄りも、話が通じる相手かどうかを、顔を見ただけで決めている。決め方が、速い。速いのは、外れたことがないからだ。
二軒目の戸は、道の左だった。三軒目はその隣で、四軒目は少し奥まったところにある。エレノアは同じ文言を、同じ速さで言った。区切る場所も、変えなかった。ニナがそうしていたからだ。
四軒目で、彼女は、自分が数字のところで一度 置いていることに気づいた。相手が聞き取れる速さに、落としている。落とし方を、彼女は昨日 覚えたのではない。二十一日前、この道で、あの娘の声を一度 聞いた。一度で、写った。
七軒目は、返事がなかった。
彼女は、戸の脇の柱に、手を伸ばした。
細い刻みが、並んでいた。三年ぶんだ。木は、そこだけ色が変わっている。何度も指で触られた場所の色だった。
エレノアは、その刻みを、指の腹で数えた。三十七あった。
三十七ヶ月だ。
この娘は、留守の家に三十七回 来て、三十七回、柱に刻みを入れて、帰った。誰も見ていない。誰も礼を言わない。刻んだところで、薪が来るわけでもない。書いてある紙のほうが、よほど役に立つ。それでも、来たことだけは、残る。
彼女は、爪で、新しい刻みを一つ入れようとして、やめた。
それは、この娘の刻みだ。彼女のものではない。三十七回、誰にも見られずに来た記録に一つ足すというのは、四十軒を一度 歩いただけの人間がしてよいことではなかった。
十九軒目に、日に焼けた男がいた。
戸口の脇で、荷車の車輪を直していた。木槌を持っている。彼はエレノアを見て、それから、手を止めた。
「ああ」男は言った。「あんたか」
「はい」
「薪、来たぞ」
「伺いました」
「十一日だった」
「はい」
男は、木槌を、地面に置いた。
エレノアは、その顔を見た。四十がらみ。日に焼けている。二十二日前、峠の焚き火の脇で、木の匙を持っていた男だ。鍋の火を消して、土を蹴って灰をかけて、ありがとうよ、と言って帰った。
「枠の四分を出せば、遅れた日に、空きへ入れます」
彼女は、そう言った。
「四分を出すと、薪が二台と少しになります。ひと月、越せません。ですので、出せません」
男は、聞いていた。
「出せませんので、外です」
男は、しばらく、動かなかった。
「なんでだ」
「あなたの薪が、ひと月に三台だからです」
「三台じゃ、駄目なのか」
「四分を出せません」
「出したら、どうなる」
「二台と少しになります」エレノアは言った。「四十戸は、越せません」
「じゃあ、出せねえな」
「はい」
「出さなかったら、どうなる」
「二月に、遅れます」
「遅れたら、どうなる」
エレノアは、答えなかった。
男は、待っていた。
急かさなかった。目も逸らさなかった。車輪の脇に立って、両手を下げたまま、こちらを見ている。この待ち方を、エレノアは知っていた。二十二日前に、掲示板の前で、この男は同じ立ち方をしていた。
「奥様」
「はい」
「訊いてんだ」
風が、畑の土を、少しだけ動かした。
「――八人です」
「八人」
「三年前の二月に、この村で、八人です」
男は、頷いた。
「ああ」
驚かなかった。訊き返しもしなかった。この男は、その数を、三年 持っている。持っている者の受け取り方だった。
彼は、荷車のほうを向いて、木槌を拾った。車輪の輻を、一本、軽く叩いた。音が、乾いていた。
「うちの、婆さんもだ」
エレノアは、答えなかった。
答える言葉が、そこになかった。
男は、木槌を持ったまま、車輪を回した。輻が、順に上を通っていく。彼は、その音を聞いている。どこかに、ひびが入っていないかを、音で確かめている手つきだった。
「あんときは、掲示もなかったからな」男は言った。「今は、書いてある。あのぶんだけ、ましだ」
「はい」
「奥様」
「はい」
男は、車輪から手を離した。
「あんた、どっから来た」
「――ヴァルディエ侯爵領です」
「そりゃ、どこだ」
「北へ、十一日です」
「遠いな」
「はい」
男は、荷車の脇に、木槌を置いた。それから、家のほうへ歩きかけて、足を止めた。
「そっちは、どうなんだ」
エレノアは、その背中を、見ていた。
六年、彼女の領地では、枠の一割が空いている。誰にも訊かず、誰にも説明せず、彼女が黙って空けてきた。長雨の年も、そうでない年も。八月も、二月も。
誰も、外にいない。
「――一割が、ございます」
男は、振り返らなかった。
「そりゃ、いいな」
彼は、家に入っていった。
戸が、閉まった。乱暴ではなかった。
エレノアは、二十軒目の戸のほうへ歩いた。
あと、二十一軒ある。日はまだ高い。夕までには終わる。終わったら峠を越えて、掲示の前を通って、宿場町へ下りる。下りて、それから、北へ十一日だ。
六年、彼女は領地を出なかった。出る理由が、なかったからだ。出てみると、道は十一日ぶんあって、その十一日ぶんの先に、四十戸あった。
一割は、そこまで届いていない。
届かせる方法を、彼女は持っていない。持っていないものを、六年、真ん中に置いていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
留守の家の柱には、細い刻みが三十七ありました。
三年、毎月。誰も見ていません。刻んだところで、薪が来るわけでもありません。
それでも、来たことだけは、残ります。
エレノアは新しい刻みを一つ入れようとして、入れられませんでした。
それは、あの娘の刻みだからです。
――遅れたら、どうなる。
――……。
――奥様。訊いてんだ。
次話「北へ、十一日」で、エレノアは領地へ帰ります。
――そっちは、どうなんだ。
――一割が、ございます。
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