表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
65/79

第64話 四十軒

 掲示は、四日目の朝に立った。


 九つの街道に、同じ文言が出た。枠の四分を出す者を募る。出した者は、遅れた日に、空きへ入れる。出さない者は、入れない。強制ではない。


 理由の欄は、なかった。


 エレノアは、峠の掲示板の前で、その紙を読んだ。若い手の字だ。ニナが、今朝、写した。文言も、様式も、彼女の書いたものではない。だが、書き方は、彼女のものだった。左に日付。右に区分。下に、例外の扱い。


 その下に、もう一つ、欄が増えていた。


 ――枠の四分。出す/出さない。


 選ばせる欄だ。


 六年前、彼女は執務室でその言葉を口にした。強制ではありません。選ばせるのです。乗れば利益が出る。乗らなければ出ない。そういう構造を作ります――そう言って、彼女は領地の流通を全部 組み直した。


 一割だけ、組まなかった。


 いま、その一割に、欄がついている。


「――ニナ」


「はい」


 娘は、掲示板の脇に立っていた。筆と、小さな墨壺を持っている。ロイドのものと同じ形だ。三年、この娘は毎朝ここに来て、この紙を書いてきた。


「峠を、越えます」


「はい」


 道は、下りだった。


 四半刻ほどで木が切れて、谷が見えた。四十戸。板葺きの屋根に石が載っている。煙は、二つ。夏だからだ。二月なら、四十戸のうち四十戸から上がる。上がらない家があれば、それは薪が尽きた家だ。


 エレノアは、下りた。


「ニナ」


「はい」


「私が、参ります」


 娘が、足を止めた。


「――お嬢様」


「一軒目から、四十軒目まで」エレノアは言った。「文言を、教えてください」


 ニナは、答えなかった。


 彼女は、しばらく、道の先を見ていた。三年、毎月 歩いた道だ。石の位置も、塀の高さも、どの家の戸がどちらへ開くかも、全部、この娘の中にある。


「――枠の四分を出せば、遅れた日に、空きへ入れます」


「はい」


「四分を出すと、薪が二台と少しになります。ひと月、越せません」


「はい」


「ですので、出せません。出せませんので、外です」


 ニナは、そこで、口を閉じた。


「それだけです」彼女は言った。「あとは、訊かれたことに、答えます」


「訊かれますか」


「訊かれます」


 一軒目の戸は、道の右側だった。


 エレノアは、叩いた。叩き方が分からなかった。役所の人間の叩き方でも、サラの叩き方でもない。しばらく待って、もう一度 叩いた。


 年寄りが出てきた。


「枠の四分を出せば、遅れた日に、空きへ入れます」エレノアは言った。「四分を出すと、薪が二台と少しになります。ひと月、越せません」


 年寄りは、聞いていた。


「ですので、出せません。出せませんので、外です」


「――そうかい」


 戸が、閉まった。乱暴ではなかった。


 エレノアは、その板を、しばらく見ていた。訊かれなかった。怒鳴られもしなかった。七日前、東街道の南で、籠を提げた女が同じ顔をした。書いてあるじゃないか、と。あの女も、この年寄りも、話が通じる相手かどうかを、顔を見ただけで決めている。決め方が、速い。速いのは、外れたことがないからだ。


 二軒目の戸は、道の左だった。三軒目はその隣で、四軒目は少し奥まったところにある。エレノアは同じ文言を、同じ速さで言った。区切る場所も、変えなかった。ニナがそうしていたからだ。


 四軒目で、彼女は、自分が数字のところで一度 置いていることに気づいた。相手が聞き取れる速さに、落としている。落とし方を、彼女は昨日 覚えたのではない。二十一日前、この道で、あの娘の声を一度 聞いた。一度で、写った。


 七軒目は、返事がなかった。


 彼女は、戸の脇の柱に、手を伸ばした。


 細い刻みが、並んでいた。三年ぶんだ。木は、そこだけ色が変わっている。何度も指で触られた場所の色だった。


 エレノアは、その刻みを、指の腹で数えた。三十七あった。


 三十七ヶ月だ。


 この娘は、留守の家に三十七回 来て、三十七回、柱に刻みを入れて、帰った。誰も見ていない。誰も礼を言わない。刻んだところで、薪が来るわけでもない。書いてある紙のほうが、よほど役に立つ。それでも、来たことだけは、残る。


 彼女は、爪で、新しい刻みを一つ入れようとして、やめた。


 それは、この娘の刻みだ。彼女のものではない。三十七回、誰にも見られずに来た記録に一つ足すというのは、四十軒を一度 歩いただけの人間がしてよいことではなかった。


 十九軒目に、日に焼けた男がいた。


 戸口の脇で、荷車の車輪を直していた。木槌を持っている。彼はエレノアを見て、それから、手を止めた。


「ああ」男は言った。「あんたか」


「はい」


「薪、来たぞ」


「伺いました」


「十一日だった」


「はい」


 男は、木槌を、地面に置いた。


 エレノアは、その顔を見た。四十がらみ。日に焼けている。二十二日前、峠の焚き火の脇で、木の匙を持っていた男だ。鍋の火を消して、土を蹴って灰をかけて、ありがとうよ、と言って帰った。


「枠の四分を出せば、遅れた日に、空きへ入れます」


 彼女は、そう言った。


「四分を出すと、薪が二台と少しになります。ひと月、越せません。ですので、出せません」


 男は、聞いていた。


「出せませんので、外です」


 男は、しばらく、動かなかった。


「なんでだ」


「あなたの薪が、ひと月に三台だからです」


「三台じゃ、駄目なのか」


「四分を出せません」


「出したら、どうなる」


「二台と少しになります」エレノアは言った。「四十戸は、越せません」


「じゃあ、出せねえな」


「はい」


「出さなかったら、どうなる」


「二月に、遅れます」


「遅れたら、どうなる」


 エレノアは、答えなかった。


 男は、待っていた。


 急かさなかった。目も逸らさなかった。車輪の脇に立って、両手を下げたまま、こちらを見ている。この待ち方を、エレノアは知っていた。二十二日前に、掲示板の前で、この男は同じ立ち方をしていた。


「奥様」


「はい」


「訊いてんだ」


 風が、畑の土を、少しだけ動かした。


「――八人です」


「八人」


「三年前の二月に、この村で、八人です」


 男は、頷いた。


「ああ」


 驚かなかった。訊き返しもしなかった。この男は、その数を、三年 持っている。持っている者の受け取り方だった。


 彼は、荷車のほうを向いて、木槌を拾った。車輪の輻を、一本、軽く叩いた。音が、乾いていた。


「うちの、婆さんもだ」


 エレノアは、答えなかった。


 答える言葉が、そこになかった。


 男は、木槌を持ったまま、車輪を回した。輻が、順に上を通っていく。彼は、その音を聞いている。どこかに、ひびが入っていないかを、音で確かめている手つきだった。


「あんときは、掲示もなかったからな」男は言った。「今は、書いてある。あのぶんだけ、ましだ」


「はい」


「奥様」


「はい」


 男は、車輪から手を離した。


「あんた、どっから来た」


「――ヴァルディエ侯爵領です」


「そりゃ、どこだ」


「北へ、十一日です」


「遠いな」


「はい」


 男は、荷車の脇に、木槌を置いた。それから、家のほうへ歩きかけて、足を止めた。


「そっちは、どうなんだ」


 エレノアは、その背中を、見ていた。


 六年、彼女の領地では、枠の一割が空いている。誰にも訊かず、誰にも説明せず、彼女が黙って空けてきた。長雨の年も、そうでない年も。八月も、二月も。


 誰も、外にいない。


「――一割が、ございます」


 男は、振り返らなかった。


「そりゃ、いいな」


 彼は、家に入っていった。


 戸が、閉まった。乱暴ではなかった。


 エレノアは、二十軒目の戸のほうへ歩いた。


 あと、二十一軒ある。日はまだ高い。夕までには終わる。終わったら峠を越えて、掲示の前を通って、宿場町へ下りる。下りて、それから、北へ十一日だ。


 六年、彼女は領地を出なかった。出る理由が、なかったからだ。出てみると、道は十一日ぶんあって、その十一日ぶんの先に、四十戸あった。


 一割は、そこまで届いていない。


 届かせる方法を、彼女は持っていない。持っていないものを、六年、真ん中に置いていた。

 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


 留守の家の柱には、細い刻みが三十七ありました。

 三年、毎月。誰も見ていません。刻んだところで、薪が来るわけでもありません。

 それでも、来たことだけは、残ります。


 エレノアは新しい刻みを一つ入れようとして、入れられませんでした。

 それは、あの娘の刻みだからです。


 ――遅れたら、どうなる。

 ――……。

 ――奥様。訊いてんだ。


 次話「北へ、十一日」で、エレノアは領地へ帰ります。


 ――そっちは、どうなんだ。

 ――一割が、ございます。


 よろしければ、ブックマークで追っていただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ