第63話 同じ卓の反対側
翌朝、平屋の机に、椅子が二つあった。
一つは、カティアのものだ。窓を背にして、通りの音のほうを向いている。この女は、六年前から、音の来るほうに背を向けて座る。もう一つは、机の反対側にあった。昨日まで、そこには何もなかった。
「座りなさいよ」
エレノアは、その椅子を、見ていた。
「――なぜですか」
「話が長くなるから」
エレノアは、座った。
卓が一つある。その反対側に、女がいる。灯りは要らない。朝の光が窓から入って、机の木目の上を斜めに切っている。
六年前にも、椅子が二つしかない部屋があった。あのときは、一対一だった。決着をつけるために、二人だけになった。今日は、ロイドが戸口に立っていて、サラが壁際にいる。二人とも、口を開かない。
同じ卓の、反対側だった。
六年前の部屋を、エレノアは覚えている。
高台の屋敷の、いちばん奥だ。机を一つ出して、椅子を二つ入れて、ほかには何も置かなかった。灯りが一つ。窓は閉めてあった。あの日、この女は入ってきて、まず椅子を見た。二つしかないのを、数えたからだ。数えて、面白そうな顔をした。
あのとき、二人は向かい合っていなかった。盤を挟んでいた。盤の上には、優先順位の撤廃と、均等配分と、抽選の玉が載っていた。彼女が勝って、この女が引いた。今回は引く、と言って。
六年、彼女はあれを、勝った部屋だと思っていた。
いまは、机の上に、四角の描いてある紙が一枚ある。
「昨日の答えを、聞いてなかったわね」カティアが言った。
「はい」
「四十戸の村は、一割を出せるか」
「出せません」
「なんで」
「薪が、ひと月に五台です」エレノアは言った。「三台が、あの御者のものです。四分の一を出すと、二台と少しになります。ひと月に、二台と少しの薪では、四十戸は越せません」
「越せないわね」
「はい」
「じゃあ、出せないわ」
「出せません」
カティアは、頷いた。
「出せない者は、外よ」
エレノアは、答えなかった。
「あの子が――ニナが、毎月 越えて、四十軒に喋って回るでしょ」カティアは言った。「あれは、続くわ。歩くのはただだもの。でも、枠は買えないの。買えない者は、遅れた日に、明日へ送られる。明日は十割。明後日も十割」
「三日後も、三日後です」
「そう」
彼女は、机の上の四角を、指で押さえた。
「二月に、また八人ね」
「――八人です」
「去年は、九十七人よ」カティアは言った。「八人と、九十七人。どっち」
窓の外で、荷車が一台、関所へ向かっていった。車輪が石を叩く音が、二度した。
エレノアは、その音を、聞いていた。
――八人だ。
考えるまでもなかった。三秒もかからない。八十九人が生きる。八人が死ぬ。並べるものが二つあって、片方が小さい。彼女は六年、こうして決めてきた。
北側の商会を全部 切った日も、同じだった。三百人が失業して、二日で北側が安定した。安定しなければ、領地の全部が二月に止まっていた。三百と、全部。片方が小さい。だから切った。
あのとき、彼女は数字しか見ていない。
三百は、紙の上の数だった。数の下に顔があることを、彼女は知っていた。知っていて、見なかった。見れば、三百が三百でなくなる。三百でなくなれば、割れない。割れなければ、決められない。
決めるためには、見てはならない。
六年、それが彼女の作法だった。作法を、彼女は一度も疑っていない。疑わなかったから、二日で北側が安定した。安定したから、正しかった。
合っている。
「合っております」
エレノアは、そう言った。
「そう」
「進めてください」
カティアは、少しのあいだ、彼女を見ていた。
それから、椅子の背に、体を預けた。
「あなた、なんでそんな顔してるの」
「――どのような顔ですか」
「知らないわよ。でも、合ってるって言った人の顔じゃないわね」
エレノアは、答えなかった。
「合ってるんでしょ?」
「合っております」
「あなたが決めたのよ。私が決めたんじゃないわ」カティアは言った。「じゃあ、何が不満なの」
「不満では、ありません」
「じゃあ、何よ」
エレノアは、答えなかった。
カティアは、机に肘をついた。
「言いなさいよ」
彼女は、笑っていなかった。
「私、六年 待ってるのよ」
窓から入る光が、机の上を、少しだけ動いた。
エレノアは、その線を、見ていた。
六年前、この女は最後にこう言った。こんな面白い相手、逃がさないわ、と。次は分からないわよ、と。あれは、宣戦布告ではなかった。約束だった。
約束は、ひと月前に、書簡になって届いた。
封蝋の縁が、丸く、静かに盛り上がっていた。垂らしてから印を押すまでに、たっぷり間を置いた者の手だ。急いだ者は縁が薄く歪む。この女は、急いでいなかった。
六年、待っていたのだ。
何を待っていたのかを、エレノアは、いま初めて考えた。構造ではない。構造なら、一年前に他領へ出している。買いませんか、と訊く必要もなかった。
この女が待っていたのは、机を挟んで返ってくる言葉のほうだ。
「――六年前に」
「うん」
「婚約者に、こう申しました」
カティアの指が、木目の上で、止まった。
「殿下のお言葉は、いつも正しいのですね、と」
「へえ」
「皮肉のつもりか、と訊かれました」エレノアは言った。「いいえ、と申しました。羨ましいだけです、と」
カティアは、答えなかった。
「――で?」
「誰も、本気だとは思いませんでした」エレノアは言った。「あの場に三十人おりました。三十人とも、当てこすりだと聞きました。その日のうちに、私は婚約を切られて、王都を出ました」
「本気だったの?」
「はい」
部屋が、静かになった。
戸口で、ロイドが動かなかった。壁際で、サラが動かなかった。
「あの方は、正しいことを仰って、正しいと思っておられました」エレノアは言った。「思えるのです。正しいと。正しいと思って、そのとおりになさって、それで済むのです」
「あなたは」
「私の申すことは、六年、外れておりません」
彼女は、机の上の四角を、見ていた。
「合っていることと、してよいことは、別です」エレノアは言った。「あの方は、その二つを区別なさいませんでした。区別する必要が、なかったからです。正しければ、してよいのです。あの方の中では」
「あなたは、区別するのね」
「いたします」
「それで?」
「区別したあとに、何を取ればよいのかを、私は教わっておりません」
カティアは、動かなかった。
「合っております。八人です。九十七人ではありません。これは外れません。六年、一度も外れたことがありません」エレノアは言った。「その、外れないものが、今日、四十戸の村を外に置きます」
「置くわね」
「合っているから、置くのです」
彼女は、そこで、少しだけ、間を置いた。
「置いてよいかどうかは、合っているかどうかとは、別の話です。その別の話を、私は持っておりません。六年前に、それを持っている方が、目の前におられました」
エレノアは、顔を上げた。
「羨ましかったのです」
カティアは、何も言わなかった。
彼女は、机の木目を見ていた。指は、動かしていない。この女が、指を動かさずに黙るのを、エレノアは初めて見た。
「……なにそれ」
「事実ですので」
「あなた、それ、六年 誰にも言ってないの」
「言いました」
「誰に」
「あの方に」
「なんて言われたの」
「皮肉か、と」
カティアは、椅子の上で、少しだけ体を動かした。
それから、天井を見た。
「私、正しいかどうか、考えたことないわ」
「存じております」
「利益があるか、ないか。それだけよ。六年前も言ったわね」
「伺いました」
彼女は、天井を見たまま、そう訊いた。
「羨ましい?」
「はい」
カティアが、こちらを見た。
エレノアは、目を逸らさなかった。
六年前、彼女は同じ言葉を、灯りの多い部屋で言った。誰も本気だと思わなかった。今日、机を挟んで、二人目に言った。二人目は、天井を見ていた。
「……そう」
カティアは、それだけ言った。
それから、椅子から立ち上がって、窓のほうへ歩いた。背中を向けたまま、外を見た。荷改めの声。車輪。値を言い合う二人。この街がどこまで回っているかが、耳だけで分かる。
「募集は、明日からよ」
「はい」
「ロイドが署名して、私が二つ目に押す。三十のうち、二十四か、二十六」彼女は言った。「峠の掲示に出すわ。九つ全部に」
「はい」
カティアは、振り返らなかった。
「四十戸の村には、誰が言いに行くの」
エレノアは、答えなかった。
「あなた方は、外です、って」カティアは言った。「四十軒、一軒ずつ」
彼女は、窓の桟に、手を置いた。
「あの子でしょ」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
八人と、九十七人。片方が小さい。
エレノアは六年、こうして決めてきました。北側の三百人も、同じ計算です。
合っています。彼女の言うことは、六年、一度も外れていません。
――合っていることと、してよいことは、別です。
――区別したあとに、何を取ればよいのかを、私は教わっておりません。
六年前、灯りの多い部屋で、彼女は「羨ましいだけです」と言いました。
三十人が、当てこすりだと聞きました。その日のうちに、彼女は王都を出ました。
今日、二人目に言いました。二人目は、天井を見ていました。
次話「四十軒」で、その村へ行きます。
――あなた方は、外です、と。四十軒、一軒ずつ。
よろしければ、ブックマークで追っていただけると嬉しいです。




