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第62話 一割を、売ります

「外したんですって?」


 カティアは、戸を開けるなり、そう言った。


 平屋の窓は、開いている。昼を過ぎて、通りの音がいちばん多い時間だ。机の上には、外した紙が一枚 載っている。三行。署名が二つ。三日 生きていた紙だ。


「はい」ロイドが言った。


「三日ね」


「三日です」


 カティアは、机の向かいに腰を下ろした。


 彼女は、紙を引き寄せもしない。ただ、その一行を、面白がる目で眺めている。冬に備えるため。ロイド・ヴァルケンが、生まれて初めて紙に書いた理由だ。


「ロイド」


「はい」


「あんた、これ、何日 立つと思ってたの」


「六ヶ月です」


「六ヶ月」カティアは声を出して笑った。「かわいいわね」


 エレノアは、壁際に立っていた。


 サラの隣だ。この平屋に、彼女の椅子はない。契約は切れた。カティアは彼女を追い出しもしないが、座らせもしない。追い出す価値も、座らせる価値も、この盤の上にないからだ。


 ニナは、いない。


 峠にいる。今朝も夜明けに掲示を書いて、今日ぶんの日付と区分を入れたはずだ。三年、あの娘の仕事は何一つ変わっていない。誰が切られようと、誰が署名しようと、夜明けには紙が要る。要るから、書く。


 変わらないものが、この国に一つだけあった。


「エレノア」


「はい」


「あなた、あの商人に何て言ったの」


「分かりません、と」


「そう」


 カティアは、頬杖をついた。


「それで、通ると思った?」


「思っておりません」


「じゃあ、なんで言ったの」


「事実ですので」


 カティアは、しばらく、彼女を見ていた。


 それから、机の木目を、指の腹でなぞった。この女は、話の向きを変えるときに、そうする。


「あなたたち、二人とも同じことやってるのよ」彼女は言った。「書けないものを、書こうとしてる。だから止まるの」


「――ほかに、道がありません」


「あるわよ」


 カティアは、顔を上げた。


「書かなくていいの」


 窓の外で、荷車が一台、関所へ向かっていった。


「一割を、売るのよ」


 エレノアの、指が、止まった。


「聞く?」


「――伺います」


 カティアは、筆を取った。ロイドの筆だ。彼女は紙を裏返して、白いほうに、四角を一つ描いた。


「枠は百二十台。三十の商会が、四台ずつ。ここまでは、いいわね」


「はい」


「明日から、こうするの」彼女は言った。「四台を、三台と、六分にする者を募る。強制じゃないわ。出したい者だけ」


 彼女は、四角の隅を、少し削った。


「出した者の四分が、集まる。三十人 全員が出せば、十二台。二十人なら、八台」


「はい」


「その八台は、誰の枠でもない」カティアは言った。「空いてるの」


 エレノアは、その四角を、見ていた。


「誰が使いますか」


「出した者よ」


 風が、窓の紙を、少しだけめくった。


「遅れたときにね」カティアは言った。「峠で雪が降った。橋が落ちた。何でもいいわ。あなたの荷が、今日の枠に入れなかった。そのとき、出してる者は、この八台に入れる。出してない者は、入れない」


「――出していない者は」


「明日へ送られるわ。今までどおり」彼女は言った。「明日は十割。明後日も十割。三日後も三日後」


 エレノアは、答えなかった。


 彼女は、その四角を、三秒 見ていた。


 ――成立する。


 六年、彼女は紙の上の仕組みを読んできた。読むのに、時間はかからない。この四角は、成立する。


 出す理由が、要らない。書かなくていい。何が来るか分からないからです、と説明する必要がない。説明する代わりに、こう言えばいい。あなたは、去年 何日 遅れましたか、と。


 誰でも、遅れている。長雨で、橋で、病で、喧嘩で。三十の商会のうち、去年 一度も遅れなかった者は、いない。遅れた日に、翌日の枠が十割だったことを、全員が体で知っている。


 四分の一台を出せば、その日に入れる。


 得だ。


 得だから、出す。得でなくなれば、出さない。出さない者が増えれば、八台が四台になり、四台では吸えなくなり、吸えなくなれば、誰も出さなくなる。だから、みんな出す。出すほうが得だと、全員が知っているからだ。


 条件が、ない。


 冬に備えるため、と書かなくていい。八月に何が来るんですか、と訊かれなくていい。分かりません、と答えなくていい。この仕組みは、理由を一行も持たずに、勝手に立っている。


「ロイド様」


「はい」


「二十人が出せば、八台ですね」


「はい」


「八台あれば、あの日の峠は、止まりませんでしたか」


 ロイドは、その場で数えた。目が動かない。この男が数を組み立てるのを、エレノアはもう三度 見ている。


「――止まります」


「止まりますか」


「あの朝、溢れたのは一時間二十分ぶんです」彼は言った。「三十二台です。八台では、入りません」


「では、意味がありませんか」


「あります」ロイドは言った。「三十二台のうち、八台が入ります。残りは二十四台です。翌朝、また八台。四日で片付きます」


「四つの待避所は」


「二つで済みます」


 エレノアは、答えなかった。


 四十七台には、ならない。


 ならなければ、伝令は平屋へ走ってこない。走ってこなければ、彼女は峠へ登らない。登らなければ、あの掲示板の前で筆を借りていない。木材、十一日後、と書いていない。


 八台では、足りない。足りないが、四十七台を二十四台にする。


 六年、彼女はそういう数字で決めてきた。全部は救えない。救えないから、減らす。減らせるだけ減らして、残った分を、彼女は勘定に入れない。入れないことを、正確さだと思っていた。


「あなたのやり方でしょ」


 カティアが、そう言った。


 エレノアは、顔を上げた。


「強制ではありません。選ばせるのです」彼女は言った。「こちらに乗れば利益が出る。乗らなければ出ない。そういう構造を作ります――六年前に、あなた、そう言ったのよね」


「――どちらで、お聞きになりましたか」


「ロイドよ。王都で、あなたの文官が喋ったのを、あの子が数えて帰ってきたの」


 カティアは、筆を置いた。


「私は、六年、これを待ってたのよ」彼女は言った。「あなたのやり方は、面白いの。人を動かさないで、動きたくさせる。ただ、あなた、自分の一割にだけ、それを使わなかったでしょ」


 エレノアは、答えなかった。


 使わなかった。


 六年前、彼女は流通の全部を「選ばせる」で組んだ。商会も、値も、優先順位も。乗れば得、乗らなければ損。全部、そうした。


 一割だけ、そうしなかった。


 一割は、彼女が黙って空けた。誰にも訊かず、誰にも説明せず、選ばせもしなかった。あれは、彼女が一人で決めて、一人で持っていた。渡さなかったのではない。渡し方を、考えたことすらなかった。


 ――渡せないものを、真ん中に置いた。


 置いたのは彼女だ。真ん中に置いたまま、六年、その周りだけを綺麗に組んだ。


「ロイド」


「はい」


「明日から、募りなさい」カティアは言った。「あなたの署名でいいわ。私が二つ目に押す」


「はい」


「三十のうち、いくつ出ると思う?」


 ロイドは、少しの間も置かなかった。


「二十六です」


「私は二十四」カティアは笑った。「賭ける?」


 エレノアは、壁際から、動かなかった。


 二十四でも、二十六でも、成立する。八台あれば、峠のあの日は吸えた。四十七台は溜まらなかった。溜まらなければ、彼女は峠へ登っていない。登っていなければ、あの掲示板の前で筆を持っていない。


 木材、十一日後、と書いていない。


「カティア様」


「なあに」


 エレノアは、机の上の四角を見ていた。四つの角のうち、一つが削ってある。


「一つ、伺います」


「どうぞ」


「峠の向こうに、四十戸の村があります」


 カティアの指が、木目の上で、止まった。


「薪が、ひと月に五台です」エレノアは言った。「三台が、あの御者のものです。残りの二台は、他所の者です」


「それで?」


「あの村は、一割を出せますか」

 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


 書けないものを書こうとするから、止まる。

 書かなくていい——カティアは、そう言いました。


 一割を売る。出したい者だけが出す。出した者だけが、遅れた日に使える。

 理由が、一行も要りません。得だから出す。それだけです。


 これはエレノアのやり方です。

 「強制ではありません」「選ばせるのです」——六年前に、彼女がそう言いました。


 ただ、彼女は、自分の一割にだけ、それを使いませんでした。

 一割は、誰にも訊かず、誰にも説明せず、選ばせもせずに、黙って空けていました。


 次話「同じ卓の反対側」で、二人は向かい合って座ります。


 ――峠の向こうに、四十戸の村があります。


 よろしければ、ブックマークで追っていただけると嬉しいです。

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