第61話 冬に備えるため
カティアは、署名した。
紙は、宿場町の平屋の机の上にあった。九つの街道の枠を、明日から一割空ける。理由の欄が一行。下から三つ目の枠に、監査官の署名がある。その上の枠が、彼女のものだ。
彼女は、読んだ。三行しかない紙を、思ったより長く読んでいた。
「これ、あの子の字ね」
「はい」ロイドが言った。
「理由、書いたのね」
「書きました」
カティアは、筆を取った。取ってから、こちらを一度見た。エレノアは、机から二歩離れたところに立っている。もうこの紙に、彼女の書く場所はない。契約は切れた。彼女は、ただ、そこにいた。
「六ヶ月でしょ?」
「はい」
「見てるわ」
彼女は、署名した。
迷わなかった。止めもしなかった。エレノアは、その手つきを見ていた。この女は、潰したいものを潰す。潰さないものは、放っておく。放っておくのは、放っておいたほうが安いときだ。
署名の入った紙は、その日のうちに、九つの街道へ出た。
三日、エレノアには、することがなかった。
平屋の机は、カティアのものだ。峠の役所は、ロイドのものだ。掲示板は、書記のものだ。この国で、彼女が触ってよい紙は、一枚もない。切られるというのは、そういうことだった。
朝、彼女は宿場町の通りに出て、荷改めの声を聞いた。荷車が関所へ入って、出ていく。車輪が石を叩く音。値を言い合う二人。遅れを詫びる声。六年、彼女は執務室の窓を開けたまま、この音を背中で聞いてきた。音だけで、街がどこまで回っているかが分かる。
回っていた。
二日目に、彼女は関所の前に立って、朝の便を数えた。百二十台に、四台足りなかった。四台は、昨日の夕に入った分が押しているせいだ。三日目には十割で、押しは消えていた。
数えて、それから、書く紙がないことに気づいた。
三日目には、数えるのをやめた。
掲示は、その朝に立った。
――枠の一割は、空けておく。冬に備えるため。
九つの街道の書記が、全員、それを写した。字は九通りだが、文言は一つだ。ロイド・ヴァルケンの言葉である。彼はそれを、自分の名で出した。
三日目の昼に、男が役所へ来た。
峠の役所ではない。宿場町の、関所の裏の部屋だ。エレノアはそこにいた。行く場所が、ほかになかった。ロイドは机の向こうにいて、ヨナスが戸口にいた。
入ってきたのは、四十くらいの男だった。
上着が厚い。指が太い。商人の手だ。荷を触る商人の手をしている。彼は帽子を取って、机の前に立った。
「ヴァルケン様」
「はい」
「一台、減りました」
「減りました」
「うちは、四台でした」男は言った。「今朝、三台でした」
「はい」
男は、怒鳴らなかった。
エレノアは、その立ち方を見ていた。怒鳴る男は、二日ここにいてから怒鳴る。この男は、今朝 減って、昼に来ている。まだ、話が通じると思っている。
「紙を、読みました」
「はい」
「冬に備えるため、と」
「はい」
「冬は、まだです」
部屋が、静かになった。
男は、それだけ言った。理屈も、脅しも付けなかった。それで足りると思っているからだ。
「五ヶ月先です」彼は言った。「五ヶ月先のために、今日、一台ですか」
ロイドは、答えなかった。
「二月に要るなら、一月に空けてください」男は言った。「一月なら、うちは出します。冬に備えるためと書いてありますので、冬に出します。当たり前でしょう」
エレノアは、目を閉じた。
閉じて、それから、開いた。
正しい。この男は、正しい。紙に冬と書いてあれば、冬に出す。それが紙の読み方だ。紙は、書いてあることしか言わない。
「――違います」
彼女は、そう言った。
男が、こちらを見た。
「あんたは」
「エレノアと申します」
「そうかい」
男は、それだけだった。名前は、何も動かさなかった。
「一月に空けても、間に合いません」エレノアは言った。「遅れは、遅れてから吸うことができません。遅れる前に空いていなければ、吸えないのです」
「どういうことです」
「一月に一割空けたとします」彼女は言った。「二月に、峠で雪が降ります。一日、荷が止まります。止まった一日ぶんは、翌日の枠へ送られます。翌日の枠は、一割空いています。一割は十二台です。送られたのは百二十台です」
「――入りませんな」
「入りません」
「じゃあ、いつ空けるんです」
「いつも、です」
男の眉が、動いた。
「いつも、というのは」
「毎日です」エレノアは言った。「一月も、二月も、八月も。ずっとです」
「八月にも、ですか」
「はい」
「八月に、何が来るんです」
エレノアは、答えなかった。
答えは、持っている。六年前から、彼女の中にある。長雨かもしれない。橋かもしれない。誰かの病かもしれない。三年前に一度もなかったことが、明日あるかもしれない。一割は、その置き場だ。
「――分かりません」
男は、しばらく、彼女を見ていた。
「分からない」
「はい」
「分からないもんのために、うちが、毎日 一台出すんですか」
「はい」
男は、帽子を、両手で持ち直した。
彼は、怒鳴らなかった。怒鳴るところまで行かなかった。彼はエレノアの顔を見て、それからロイドの顔を見て、それから、机の上の紙を見た。三行の紙だ。監査官の署名が入っている。
「ヴァルケン様」
「はい」
「これ、あんたが書いたんですね」
「はい」
「冬に備えるため、と」
「はい」
「この方は、八月にも空けろと仰る」
ロイドは、答えなかった。
「どっちです」
部屋の窓の外で、荷車が一台、関所へ向かっていった。車輪が石を踏む音が、二度した。
ロイドは、答えなかった。
答える材料が、その場になかったからだ。彼の紙には、冬と書いてある。冬は五ヶ月先だ。五ヶ月先のことを、今日 書くには、今日 出させる理由が要る。その理由を、彼は持っていない。持っている人間は、机から二歩離れたところに立っていて、分かりません、と言った。
男は、頷いた。
それだけだった。彼は帽子をかぶって、部屋を出ていった。戸を、静かに閉めた。乱暴に閉めなかった。乱暴に閉める価値もないと思ったからだ。
部屋が、静かになった。
「あの人、正しかったわね」
サラの声だった。戸口の脇の壁に、いつからか背を預けている。
「はい」エレノアは言った。
「あなたも、正しかったわ」サラは言った。「遅れは、遅れてから吸えない。それ、本当でしょ」
「本当です」
「二人とも正しくて、片方が帽子をかぶって帰った」
彼女は、壁から背を離さなかった。
「正しさって、通貨じゃないのよ」サラは言った。「持ってても、何も買えないの。渡そうとすると、受け取り方が分からないって言われる」
エレノアは、答えなかった。
六年前、彼女は同じことを、別の言い方で覚えた。弁明とは、理解される前提で行うものです。今夜の場に、その前提はございませんでした——そう言って、彼女は王城の執事に背を向けた。
あのとき、彼女は、渡せないものを持っていた。
いまも、持っている。
「ロイド様」
「はい」
「あの方は、明日、どうされますか」
「三十のうちの、二十九に話します」ロイドは言った。「明後日、二十九が来ます」
「来られたら」
「同じことになります」
彼は、机の上の紙を見ていた。
「エレノア様」
「はい」
「外します」
エレノアは、答えなかった。
「私が書いた紙です。私が外します」ロイドは言った。「冬に備えるためと書きました。冬は、まだです。書いたことが、その日には本当でありませんでした。本当でない紙を貼り続けるのは、掲示ではありません」
彼は、立ち上がった。
「ロイド様」
「はい」
「一つ、伺います」
エレノアは、その紙を見ていた。三行。署名が二つ。三日前に、この男が生まれて初めて書いた理由だ。
「六ヶ月と、仰いました」
「はい」
「何日でしたか」
ロイドは、動きを止めた。
それから、答えた。この男は、訊かれたことに、訊かれた分だけ答える。
「三日です」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
ロイドは「六ヶ月です。六ヶ月で、二月が来ます」と言いました。
三日でした。
紙に冬と書いてあれば、冬に出す。それが紙の読み方です。
あの商人は、何も間違えていません。
――遅れは、遅れてから吸うことができません。
――では、いつ空けるんです。
――いつも、です。
――八月に、何が来るんです。
――分かりません。
書けば規則になる。規則には条件が付く。条件が外れた日に外される。
一昨日、エレノアが三時間かけて辿り着いた行き止まりに、今日、三人目が着きました。
次話「一割を、売ります」で、四人目が来ます。
――その人は、書けない理由を、書かずに済ませます。
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