第60話 四千袋
「もう一度、伺います」
エレノアは、そう言った。
馬車の音は、もう聞こえない。峠の道は、木の間で二度折れて、その先は谷だ。カティア・ルーベンシュタインは下りていった。契約は、切られた。この国で、彼女の名で動く紙は、一枚もなくなった。
誰も、追ってこなかった。
切られるというのは、こういうことだった。追う必要がないから、誰も追わない。明日の朝も、荷は峠を登る。三十の商会が四台ずつ通り、書記が掲示を書き、御者が紙を読んで帰る。彼女がいてもいなくても、同じだ。同じであることを盤の上で証明された者に、できることは何もない。
サラが役所の戸口にいて、ニナが道の端に立っている。二人とも、動かなかった。
ロイドは、掲示板の前に立っている。
「“公平”を、壊す、と仰いましたか」
「はい」
「何をですか」
「一割です」
風が、峠の下から吹き上がってきた。
エレノアは、動かなかった。
「九つの街道の枠に、一割の空きを戻します」ロイドは言った。「誰にも割り当てません。空けたままにします」
「――それが、公平を壊すことですか」
「はい」
彼は、掲示板の紙を見ていた。
「エレノア様。この街道を、三十の商会が使います」ロイドは言った。「枠は、朝が三時間。百二十台。三十で割ります。四台ずつです」
「はい」
「一割を空ければ、百八台です。三十で割ると、三台と、少しです」
「はい」
「一台ぶん、減ります」彼は言った。「三十の商会が、一台ずつ出します。出した先は、どこにもありません」
エレノアは、峠の下の待避所を見た。
二十六台が並んでいる。荷を積み終えて、馬を繋いで、朝の枠を待っている。あの中の何台かは、明日から入れない。入れなかった者は、掲示を読んで、帰る。帰って、次の日にまた来る。
怒る先が、ない。
誰かの取り分になったのなら、その誰かを恨める。恨む相手がいれば、話は済む。だが一割は、空きだ。空きに向かって、人は怒れない。怒れないものは、そのうち、無くなる。
エレノアは、その言葉を、聞いていた。
「誰が使いますか」
「誰も使いません」
「では、なぜ出させますか」
「――そこが、書けません」
ロイドは、そこで、口を閉じた。
エレノアは、峠の下を見た。
道は動いている。二十六台が朝に下りて、夕の便が二番目の待避所に入っている。三十の商会が、四台ずつ使っている道だ。四台が三台になれば、三十の荷主が、一人ずつ怒る。
――そうか。
六年、彼女はそれを一度も言葉にしなかった。
一割は、非道ではない。非道であれば、まだ楽だった。誰かの取り分を、誰かに回すのなら、それは政治だ。回された側が喜び、回された理由を書けばいい。
一割は、そうではない。
三十人から一台ずつ取って、誰にも渡さない。渡す先がない。空けておくだけだ。何のためかと訊かれて、何が来るか分からないからです、としか言えない。三十人は、見えないもののために、一台ずつ払う。
均等に配れば、公平だ。
空けておくのは、公平ではない。
「ロイド様」
「はい」
「あなたは、六年前に王都でこれを潰されましたか」
「いいえ」ロイドは言った。「私がこれを潰したのは、この国です。三年前です」
「――理由を」
「四十倍の国では、一割は四千袋です」彼は言った。「一つの州の、冬です」
エレノアは、彼の横顔を見た。
この男は、越せなかった家を持っている。街道が北へ通って、村ごと移された冬だ。少年の彼にできたのは、道を数えることだけだった。その男が、四千袋を見て、一割を消した。
消したほうが、多く生きる。その計算は、合っている。
「合っております」エレノアは言った。
「はい」
「では、なぜ、戻されますか」
ロイドは、答えるまでに、間を置いた。
この男が、答えるまでに間を置くのを、エレノアは三度しか見ていない。四十秒を数えたとき。他領の三つの地名を訊かれたとき。そして、いまだ。
「昨日、あなたが仕分けられた紙です」彼は言った。「二十九行のうち、二十四行が、木材か薪でした」
「はい」
「四千袋の穀物が、二月の薪の代わりになりますか」
「――なりません」
「はい」
彼は、掲示板から目を離さなかった。
「私は、袋で数えておりました」ロイドは言った。「四千袋と、一割を天秤にかけて、四千袋を取りました。天秤は、正しかったのです。ただ、片方の皿に載っていたものが、袋ではありませんでした」
エレノアは、答えなかった。
「九十七人です」
風が、掲示の紙を、少しだけめくった。
「戻します」ロイドは言った。「三十の商会が、一台ずつ怒ります。私は、それを聞きます。聞くのは、私の仕事です」
「はい」
「ですが、一つ、足りません」
彼は、そこで、初めてこちらを向いた。
「なぜ空けるのかを、掲示に書かねばなりません」
エレノアは、その言葉を、聞いた。
「書かなければ、明日には外れます」ロイドは言った。「私が今日、口で言って、三十人が今日は納得したとします。私が来月、この街道におりません。別の者が来ます。その者に、三十人のうちの一人が訊きます。あの一割は、何ですか、と」
「はい」
「その者は、紙を読みます」
「紙には、何も書いておりません」
「はい」ロイドは言った。「では、外します」
エレノアは、目を閉じた。
閉じて、それから、開いた。
この男は、六年前の彼女と、同じ場所に立っている。同じ紙の前で、同じ一行を書こうとして、同じところで止まっている。三年前にニナが止まった場所でもある。四回、線を引いて消した娘が、五つ目で止まった場所だ。
三人だ。
三人が、別々の年に、別々の場所で、同じ一行の前に立って、書けずにいる。六年前の執務室。三年前の峠の机。一昨日の平屋。机の上には、いつも白い紙が一枚あって、その上に一行だけ書いてある。枠の一割を、次の遅れのために空ける。その下が、白い。
三人とも、答えは持っていた。持っていて、書けなかった。書けば規則になり、規則には条件が付き、条件が外れた日に外される。そこまでは、三人とも辿り着いている。
辿り着いた先が、行き止まりだった。
「ロイド様」
「はい」
「なぜ、私に伺われますか」
「理由が要ります」ロイドは言った。「私は、私の理由しか持っておりません」
「あなたの理由は、何ですか」
「冬です」
エレノアは、答えなかった。
この男の中には、六年ぶんの冬がある。八つの家。列の中から見た王都。棚が倒れて、右の耳の上に残った傷。量を数えるときに、必ず冬で数える癖。
書けば、そのとおりに書くだろう。冬に備えるため、と。
嘘ではない。
「――外れます」エレノアは言った。
「はい」
「いま、八月です」
「はい」
「あなたが冬と書けば、三十人のうちの誰かが、来月、こう言います。今年は暖かい、と」
「言います」
「そのときに、紙は、反論しません」
「はい」ロイドは言った。「紙は、書いてあることしか言いません」
彼は、掲示板の留め具に、手をかけた。
「ですので、伺っております」
エレノアは、その手を、見ていた。
この男は、言われたことをする男だ。訊かれたことに、訊かれた分だけ答える。その男が、いま、二度目の問いを立てている。彼は、答えを持っていない。持っていないことを、隠していない。
「書けません」
エレノアは、そう言った。
「存じております」
「一昨日から、ご存じでしたか」
「一昨日の、三時間からです」
彼は、手を離した。
「エレノア様。あなたが書けないのであれば、私が書きます」
「――何とですか」
「冬に備えるため、と」
「外れます」
「はい」ロイドは言った。「外れるまでは、一割があります」
エレノアは、動かなかった。
「何ヶ月ですか」
「二月までです」彼は言った。「二月に、一度でも薪が届けば、そのあとは、私が言わなくても残ります」
「残りませんでした」エレノアは言った。「三年、残っておりません」
「三年、書いてありませんでした」
ロイドは、峠の下を見た。
道は動いている。三十の商会が、四台ずつ。明日から、三台と少しになる。三十人が、一台ずつ、見えないもののために出す。
「六ヶ月です」彼は言った。「六ヶ月で、二月が来ます」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
「“公平”を壊す」の中身は、一割を戻すことでした。
三十の商会から一台ずつ取って、誰にも渡さない。渡す先がありません。
何のためかと訊かれて、「何が来るか分からないからです」としか言えません。
均等に配れば、公平です。
空けておくのは、公平ではありません。
ロイドが三年前にそれを潰したのは、非道だからではありませんでした。
四十倍の国では、一割は四千袋——一つの州の冬だからです。天秤は正しかった。
ただ、片方の皿に載っていたものが、袋ではありませんでした。
次話「冬に備えるため」で、ロイドが自分の理由で書きます。
――いま、八月です。
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