第59話 撒いた人
カティアは、翌日の昼に、峠へ登ってきた。
馬ではなかった。馬車で来て、峠の肩で降りた。外套の裾に土が跳ねていない。急いでいない女の来方だった。
エレノアは、役所の外で待っていた。
机の上の紙は、そのままにしてある。四十一行。三十七と、九十七。区分の列に、木材と薪が二十四。ロイドは中にいて、サラは戸口の脇にいて、ニナは道の端に立っていた。
「東街道の南、止まってるわよ」
カティアは、そう言った。挨拶の代わりだった。
「はい」
「三日で倍になったわ」彼女は言った。「明後日、倍の倍ね」
「はい」
「あなた、何を書いたの」
「本当のことを」
カティアは、笑わなかった。
彼女は峠の下を見た。道は動いている。第七街道は、いま、九つのうちでいちばん静かに回っている。
「カティア様。伺います」
「どうぞ」
「樫の坂に、この様式が立ったのは一年前です。二番目の橋の先は、半年前です」エレノアは言った。「灰色の川の対岸は、ロイド様がご存じありません」
「そうね」
「九つの街道の書記は、この帳面を写します」彼女は言った。「写した紙は、この役所から出ません。書記は九人で、九人とも、この国の街道におります」
カティアは、答えなかった。
「他領の三つに、どなたが持って行かれましたか」
風が、峠の下から吹き上がってきた。
カティアは、少しのあいだ、道のほうを見ていた。それから、こちらを向いた。
「私よ」
それだけだった。
前も、後ろも、付けなかった。この女は、六年前も、そうだった。負けたと言うときに、負けた、とだけ言った。今回は引く、と。認める。それが、この女の強さだった。
「いつからですか」
「一年前が最初」
「その前は」
「その前は、置いといたの」カティアは言った。「三年、うちの街道で回してみて、悪くなかったから、外へ出したのよ。試してから出すでしょ、普通」
「私に書簡が届いたのは、二十五日前です」
「そうね」
「一年前に外へ出されて、二十五日前に、私に一緒にやらないかと」
「そうよ」
エレノアは、その返事を、聞いていた。
――先手を打つ女だ。
六年前、この女は初対面で、もっと早く潰すべきでした、と言った。あのときも同じだった。この女は、話をしに来るときには、もう済ませている。済ませてから、条件を訊きに来る。訊きに来られた側は、条件を出す以外にできることがない。
「買いませんか、と仰いました」
「訊いたわ」
「私は、売りません、貸します、と申しました」
「言ったわね」
「あのとき、あなたは、もうお持ちでした」
「持ってたわ」カティアは言った。「持ってるものを、買いませんかって訊いたの。安いほうが得でしょ」
エレノアは、答えなかった。
あの平屋で、彼女は主導権を取ったつもりでいた。売らないと言い、貸すと言い、期限はこちらが切ると言った。あの一手を、彼女は自分の六年でいちばん綺麗な返しだと思っていた。
貸すという言葉が成り立つのは、相手が持っていないときだけだ。
「カティア様。もう一つ、伺います」
「どうぞ」
エレノアは、道の端のほうを、見なかった。見ずに、訊いた。
「あなたは、ニナをご存じでしたか」
カティアの目が、初めて、動いた。
「知ってるわよ」
「いつからですか」
「三年前」
役所の戸口で、サラが顔を上げた。
「あの子が来た月に、ロイドが妙な帳面が届いたって言うから、見に行ったの」カティアは言った。「中身が良かったわ。誰が書いたか調べさせたら、峠に書記の口を探しに来てる娘がいるって。字が正確だからって、ロイドが雇うって言うし」
「――ご存じで、置いておかれましたか」
「置いといたわ」
「なぜですか」
カティアは、肩をすくめた。
「毎月、峠を越えて、四十軒に喋って回るのよ。三年よ」彼女は言った。「あの子がいるあいだ、第七街道だけは死人が出ないの。他は出るのに。便利じゃない」
エレノアは、動かなかった。
――便利じゃない。
この女は、三年、それを見ていた。八つの街道で人が死に、一つの街道で死なないことを、見ていた。その一つに、歩いている娘がいることも、見ていた。見ていて、何もしなかった。何もしないのが、いちばん安いからだ。
一昨日、この峠でこの女は、道の端に立っている娘を、一度も見なかった。見る必要がなかったのだ。
知っていたからだ。
「若い子でも写せる、と仰いました」エレノアは言った。「平屋で」
「言ったわね」
「あれは、たとえ話ではありませんでしたか」
「違うわよ」カティアは言った。「あなたが訊かなかっただけ」
エレノアは、目を閉じた。
閉じて、それから、開いた。
「カティア様。あの三年で、いくつですか」
「九十七でしょ」
彼女は、間を置かなかった。
「知ってるわよ、そのくらい。ロイドが毎月 掲示に出してるもの」カティアは言った。「読んでる人間が少ないだけ」
サラが、戸口から一歩、出た。
エレノアは、手を上げて、止めた。
「エレノア」
「はい」
「あなた、東街道の南に、他所で買えって書いたでしょ」
「書きました」
「倍の値で」
「はい」
「三割しか買えないわよ」
「三割です」
「残りの七割は、道に立ってる」カティアは言った。「明日は倍の倍。明後日は、道に立つのもやめるわ」
彼女は、峠の下を、顎で示した。
「あなた、壊すほうに回ったわね」
エレノアは、答えなかった。
「私が壊すのは、利益が出るときよ」カティアは言った。「あなたが壊すのは、気が済むときでしょ」
風が、掲示の紙を、少しだけめくった。
「そっちのほうが、高くつくの」
彼女は、外套の襟を、指で直した。
「六年前、あなたに言ったわね。私は利益が出るなら壊れてもいいと思ってる、でもあなたは、壊れないことを優先するって」カティアは言った。「あれ、逆になってるわよ。今」
「――はい」
「認めるのね」
「事実ですので」
カティアは、そこで、初めて笑った。
短い笑いだった。楽しそうではなかった。
「エレノア・ヴァルディエ」
「はい」
「契約を、こちらから切ります」
役所の中で、ロイドが動いた気配がした。それだけだった。誰も、何も言わなかった。
「理由を、伺っても」
「この盤で、この壊し方をするのは、あなただけよ」
エレノアの、指が、止まった。
六年前、彼女は代官の前に立って、同じ形の言葉を置いた。証拠は。ありません。必要ありません。この構造で、この規模の抜きができるのは、あなただけです、と。あのとき、代官は口を開いて、何も言えずに、部屋を出ていった。反論する場所がなかったからだ。構造は、犯人を一人しか許さない。
昨日、彼女は同じ言葉を自分に使った。
今日、同じ言葉が、正面から来た。
「カティア様」
「なあに」
「切って、何が変わりますか」
カティアは、少し、考えた。
考えるところを、隠さなかった。この女がそうするのを、エレノアは初めて見た。
「何も」
「はい」
「九つの街道は、明日も回るわ。他領の三つも。掲示は下ろさない。書記も替えない」カティアは言った。「あなたの名前も、そのままよ。表紙に書いてあるもの」
彼女は、馬車のほうへ歩きかけて、足を止めた。
「これ、あなたが六年前に、三百人にやったことでしょ」
エレノアは、答えなかった。
北側の小規模商会を、全部切った日だ。証拠も、猶予も、説明もなかった。切ってから二日で、北側は安定した。切られた者が三百人いたことを、彼女は数字で知っている。顔は、一人も知らない。
あのとき、切られた側は、何が変わったのか。
何も変わらなかった。彼らがいなくなっても、流通は回った。回ったから、正しかった。彼女は、そう読んだ。
――そうか。
切るというのは、これだったのだ。
相手を潰すことではない。相手がいてもいなくても同じだと、盤の上で証明することだ。証明されたほうは、反論できない。反論する場所が、盤の上に用意されていないからだ。
カティアは、馬車に乗った。
馬車は、峠の道を下りていった。車輪の音が、木の間で二度折れて、それから聞こえなくなった。
エレノアは、しばらく、動かなかった。
掲示板の紙が、風で少しめくれている。左に日付。右に区分。下に、例外の扱い。木材、十一日後。十一日目に、荷は通った。ぴったりだ、と男は言った。
紙の、いちばん上には、何も書いていない。
この峠の掲示にだけ、表題がない。書いたのが、表題を書く必要のない人間だったからだ。彼女は、その紙を、ずっと見ていた。
「エレノア様」
ロイドが、役所から出てきていた。
手ぶらだった。筆と、小さな墨壺と、薄い台帳だけを懐に入れて、この男はいつもそうやって街道を歩く。
「はい」
「一つ、伺います」
彼は、峠の下を見た。道は動いている。九つの街道は、明日も回る。
「“公平”を、壊してもよろしいですか」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
撒いたのは、ニナではありませんでした。
あの娘が送ったのは、ロイドの役所への一冊だけです。
三年、うちの街道で回してみて、悪くなかったから外へ出した。
試してから出すでしょ、普通——カティアは、そう言いました。
そして「一緒にやらないか」の書簡が届いたのは、その一年あとです。
貸すという言葉が成り立つのは、相手が持っていないときだけでした。
切るというのは、相手を潰すことではありません。
相手がいてもいなくても同じだと、盤の上で証明することです。
六年前、エレノアは三百人にそれをしました。
次話から、第6章に入ります。
ロイドが、六年前にカティアが言い出して、実行しなかったことをやります。
――あの峠の掲示にだけ、表題がありません。書いたのが、表題を書く必要のない人間だったからです。
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