第58話 私が、殺しました
十一日目の朝は、晴れていた。
峠の下の待避所は、二番目まで埋まっている。上りの荷が並んで、先頭から順に、関所の紙を見せて登っていく。二番目の枠は、朝の二つ目だ。穀物のあとに、木材が入る。
エレノアは、掲示板の脇に立っていた。
紙の下の欄には、十一日前に彼女が書いた行が、まだある。木材、十一日後。二番目の枠。十四台。あなたは、三台目です。字は、少し薄くなっていた。十一日、雨に二度当たっている。
荷車が、上がってきた。
一台目。二台目。
三台目に、薪が積んであった。
日に焼けた男が、手綱を持っている。四十がらみの、あの男だ。彼は道の脇で帆布を外して、石をどけて、三台ぶんの薪をまた積み直したのだろう。積み方が丁寧だった。十一日、そこに置いておいた荷を、また積む手つきに、迷いがない。
男は、掲示板の前を通るときに、紙を見た。
見て、それから、脇に立っている女に気づいた。
「――ああ」
彼は、手綱を引いて、荷車を止めた。
「あんたか」
「はい」
「十一日だったな」
「はい」
男は、掲示板を、もう一度見た。それから、頷いた。
「ぴったりだ」
エレノアは、答えなかった。
男は、手綱を鳴らして、荷車を進めた。車輪が石を踏んで、一度跳ねて、それから峠のほうへ登っていった。四台目が、そのあとに続いた。
道は、動いていた。
十一日前に書いた日付に、荷が通った。書いたとおりだった。一日も、ずれていない。
エレノアは、その背中を、見えなくなるまで見ていた。
「エレノア様」
「はい」
「合っております」ロイドが言った。
「はい」
彼女は、役所のほうへ歩いた。
机の上に、麻布の帳面がある。彼女は、それを開いた。
最後の頁。覚書。四十一行。
「ロイド様。伺います」
「はい」
「九つの街道は、それぞれ、いつからこの様式ですか」
ロイドは、答えた。
間を置かなかった。九つを、順に言った。いちばん古いのが二年半前。次が二年前。それから一年半、一年、半年。三月前に、この第七街道。今月に、三つ。
「他領の三つは」
「樫の坂が、一年前。二番目の橋の先が、半年前」ロイドは言った。「灰色の川の対岸は、存じません」
「では、二つで結構です」
エレノアは、筆を借りた。
紙を一枚、机に広げる。彼女は、覚書の四十一行を、上から順に書き写した。場所と、月と、区分と、数を。写しながら、右の端に、もう一つ書いた。その場所に、その月、様式が立っていたかどうかを。
立っていない行に、印を付けた。
十二行あった。
立っていた行が、二十九行だった。
彼女は、それぞれの数を足した。十二行のほうは、三十七。二十九行のほうは、九十七。
三十七と、九十七。
「ロイド様。ご覧ください」
ロイドが、紙を覗き込んだ。
「様式の立つ前が、三十七です」エレノアは言った。「立ったあとが、九十七です」
「はい」
「増えております」
「はい」
彼女は、指を、右の列に置いた。
区分の列だ。
「立つ前の十二行を、ご覧ください」
粉。薪。塩。粉。粉。薪。麦。塩。ばらけている。届かないものは、その年に足りなかったものだ。理由は年ごとに違う。長雨の年は粉が来ず、寒い年は薪が来ず、道が崩れた年は何も来ない。
「立ったあとの、二十九行を」
ロイドが、そこで、動かなくなった。
木材。薪。木材。薪。薪。木材。薪。木材。薪。薪。
二十九行のうち、二十四行が、木材か薪だった。
エレノアは、その列を、上から下まで見ていた。
――私の規則だ。
穀物は三日で倍になる。木材は、ならない。だから、詰まったときは木材を後ろへ送る。六年前に、彼女がそう決めた。決めて、様式に書いた。書かなかったのは理由のほうで、規則のほうは、はっきりと書いた。誰でも読める。若い子でも写せる。
そして、正しい。
穀物は、三日で倍になる。木材は、ならない。この一行に、嘘はない。九つの街道の書記は、全員これを読んで、そのとおりにしている。彼らは間違えていない。一人も。
書いていないものが、一つある。
「ロイド様」
「はい」
「この様式に、月を書く欄はございますか」
ロイドは、答えるまでに、一度だけ掲示板のほうを見た。頭の中でその紙を開いたのだろう。開くまでもなかったはずだ。
「ありません」
「日付は」
「あります」
「何日か、は書けます」エレノアは言った。「何月か、は、どこが決めますか」
「――区分の欄です」
「はい」
「穀物が先で、木材が後ろです」ロイドは言った。「二月でも、七月でも」
「二月の木材は、何ですか」
ロイドは、答えなかった。
訊く必要のない問いだった。この男は、冬を一度、越えられなかった家を持っている。答えは、彼の中に、六年ある。
「……薪です」
薪は、三日で倍にはならない。値は、動かない。市場の紙の上では、何も起きない。何も起きないまま、峠の向こうの家で、火が消える。三日目に消えて、五日目に、年寄りから動かなくなる。
値が動かないものは、彼女の規則では、後ろへ行く。
――全部、合っている。
十一日前、彼女はこの掲示板の前で筆を持って、木材を十一日後に置いた。合っていた。今日、荷は通った。誰も死んでいない。夏だからだ。
夏かどうかを、様式は、知らない。
彼女が、知っていた。だから、置けた。置いても平気だと、その場で分かった。分かったのは、彼女が六年、そういうことを頭の中でやってきたからだ。頭の中でやってきたものは、紙に載らない。載らないものは、写らない。
写した者は、写せるものを全部写した。
「ニナ」
娘は、役所の戸口に立っていた。
「はい」
エレノアは、紙から顔を上げなかった。
「あなたが、この帳面を送られたのは、三年前の二月です」
「はい」
「北の谷の八人は、その月です」
「はい」
「様式は、まだ立っておりません」
ニナが、答えなかった。
「三年前の二月、この街道に、掲示板はありませんでした。あなたが送られた紙は、まだロイド様の役所の中にありました」エレノアは言った。「あの八人は、様式の前です」
「――お嬢様」
「あなたは、一人も殺しておりません」
役所の中が、静かになった。
サラが、壁際で、動かなかった。
「わたしが、送りました」
ニナの声だった。
小さくもなく、大きくもない。三年、峠の掲示を書いてきた声だ。数字のところで一度置いて、それから次へ行く声。
「送らなければ、九十七人は――」
「送ったものは」エレノアは言った。「正しく写されておりました」
彼女は、紙の上の二十九行を、指で押さえた。
「写した者は、正しく回しました。九つの街道の書記は、一人も間違えておりません。回した先で、木材が後ろへ行きました。行ったのは、木材は三日で倍にならないからです」
「はい」
「それを決めたのは、あなたではありません」
ニナは、答えなかった。
エレノアは、顔を上げた。
六年前、彼女は代官の前に立って、こう言った。証拠は。ありません。必要ありません。この構造で、この規模の抜きができるのは、あなただけです、と。あのとき、彼女は紙を一枚も持っていなかった。持つ必要がなかった。構造が、犯人を一人しか許さなかったからだ。
いま、机の上に紙がある。四十一行。三十七と、九十七。区分の列。
構造は、同じことを言っていた。
「ロイド様」
「はい」
「この様式で、この壊れ方ができるのは、何人ですか」
ロイドは、紙を見た。
彼は、数えた。数えるのに、時間がかからなかった。この男は、たぶん、峠で覚書を開いた夜から、ずっと数えていた。
「――一人です」
「はい」
エレノアは、筆を置いた。
「私が、殺しました」
風が、役所の窓を鳴らした。
彼女は、その音を、聞いていた。
六年、彼女は主語を自分に置いたことがなかった。切ったのは構造で、潰れたのは商会で、失業したのは三百人で、削られたのは医療費だった。全部、正確だ。誰かが誰かをどうこうしたのではない。仕組みがそうなっていた。仕組みを作った人間は、仕組みの外にいる。
――弁明とは、理解される前提で行うものです。
六年前、彼女はそう言って、王城の執事に背を向けた。あのとき、その前提はどこにもなかった。だから彼女は何も言わなかった。言わないことを、彼女は正確さだと思っていた。
言わなければ、主語は要らない。
「エレノア様」
「はい」
「九十七のうち、いくつが、あなたのものですか」
ロイドが、そう訊いた。
この男が、訊いた。訊いたことしか答えない男が、初めて、訊くほうに回った。
エレノアは、紙を見た。
九十七。二十九行。区分の列に、木材と薪が二十四。分けられる。長雨の年と、そうでない年。橋が落ちた月と、そうでない月。書記の腕。荷主の喧嘩。分ければ、彼女の取り分は、九十七より小さくなる。たぶん、ずっと小さくなる。
六年、彼女はそうやって数字を作ってきた。
「――全部です」
「根拠を、伺っても」
「ありません」エレノアは言った。「必要ありません」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
十一日前に書いた日付に、荷は通りました。一日もずれていません。
御者は「ぴったりだ」と言って、峠を登っていきました。
覚書は四十一行。様式が立つ前が三十七人、立ったあとが九十七人。
そして立ったあとの二十九行のうち、二十四行が、木材か薪でした。
――穀物は三日で倍になる。木材は、ならない。
嘘は一つもありません。九つの街道の書記は、一人も間違えていません。
ただ、この様式には、月を書く欄がありません。
二月の木材は、薪です。
次話「撒いた人」で、第5章はひと区切りです。
――書いた人と、撒いた人は、同じではありません。
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