↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
59/83

第58話 私が、殺しました

 十一日目の朝は、晴れていた。


 峠の下の待避所は、二番目まで埋まっている。上りの荷が並んで、先頭から順に、関所の紙を見せて登っていく。二番目の枠は、朝の二つ目だ。穀物のあとに、木材が入る。


 エレノアは、掲示板の脇に立っていた。


 紙の下の欄には、十一日前に彼女が書いた行が、まだある。木材、十一日後。二番目の枠。十四台。あなたは、三台目です。字は、少し薄くなっていた。十一日、雨に二度当たっている。


 荷車が、上がってきた。


 一台目。二台目。


 三台目に、薪が積んであった。


 日に焼けた男が、手綱を持っている。四十がらみの、あの男だ。彼は道の脇で帆布を外して、石をどけて、三台ぶんの薪をまた積み直したのだろう。積み方が丁寧だった。十一日、そこに置いておいた荷を、また積む手つきに、迷いがない。


 男は、掲示板の前を通るときに、紙を見た。


 見て、それから、脇に立っている女に気づいた。


「――ああ」


 彼は、手綱を引いて、荷車を止めた。


「あんたか」


「はい」


「十一日だったな」


「はい」


 男は、掲示板を、もう一度見た。それから、頷いた。


「ぴったりだ」


 エレノアは、答えなかった。


 男は、手綱を鳴らして、荷車を進めた。車輪が石を踏んで、一度跳ねて、それから峠のほうへ登っていった。四台目が、そのあとに続いた。


 道は、動いていた。


 十一日前に書いた日付に、荷が通った。書いたとおりだった。一日も、ずれていない。


 エレノアは、その背中を、見えなくなるまで見ていた。


「エレノア様」


「はい」


「合っております」ロイドが言った。


「はい」


 彼女は、役所のほうへ歩いた。


 机の上に、麻布の帳面がある。彼女は、それを開いた。


 最後の頁。覚書。四十一行。


「ロイド様。伺います」


「はい」


「九つの街道は、それぞれ、いつからこの様式ですか」


 ロイドは、答えた。


 間を置かなかった。九つを、順に言った。いちばん古いのが二年半前。次が二年前。それから一年半、一年、半年。三月前に、この第七街道。今月に、三つ。


「他領の三つは」


「樫の坂が、一年前。二番目の橋の先が、半年前」ロイドは言った。「灰色の川の対岸は、存じません」


「では、二つで結構です」


 エレノアは、筆を借りた。


 紙を一枚、机に広げる。彼女は、覚書の四十一行を、上から順に書き写した。場所と、月と、区分と、数を。写しながら、右の端に、もう一つ書いた。その場所に、その月、様式が立っていたかどうかを。


 立っていない行に、印を付けた。


 十二行あった。


 立っていた行が、二十九行だった。


 彼女は、それぞれの数を足した。十二行のほうは、三十七。二十九行のほうは、九十七。


 三十七と、九十七。


「ロイド様。ご覧ください」


 ロイドが、紙を覗き込んだ。


「様式の立つ前が、三十七です」エレノアは言った。「立ったあとが、九十七です」


「はい」


「増えております」


「はい」


 彼女は、指を、右の列に置いた。


 区分の列だ。


「立つ前の十二行を、ご覧ください」


 粉。薪。塩。粉。粉。薪。麦。塩。ばらけている。届かないものは、その年に足りなかったものだ。理由は年ごとに違う。長雨の年は粉が来ず、寒い年は薪が来ず、道が崩れた年は何も来ない。


「立ったあとの、二十九行を」


 ロイドが、そこで、動かなくなった。


 木材。薪。木材。薪。薪。木材。薪。木材。薪。薪。


 二十九行のうち、二十四行が、木材か薪だった。


 エレノアは、その列を、上から下まで見ていた。


 ――私の規則だ。


 穀物は三日で倍になる。木材は、ならない。だから、詰まったときは木材を後ろへ送る。六年前に、彼女がそう決めた。決めて、様式に書いた。書かなかったのは理由のほうで、規則のほうは、はっきりと書いた。誰でも読める。若い子でも写せる。


 そして、正しい。


 穀物は、三日で倍になる。木材は、ならない。この一行に、嘘はない。九つの街道の書記は、全員これを読んで、そのとおりにしている。彼らは間違えていない。一人も。


 書いていないものが、一つある。


「ロイド様」


「はい」


「この様式に、月を書く欄はございますか」


 ロイドは、答えるまでに、一度だけ掲示板のほうを見た。頭の中でその紙を開いたのだろう。開くまでもなかったはずだ。


「ありません」


「日付は」


「あります」


「何日か、は書けます」エレノアは言った。「何月か、は、どこが決めますか」


「――区分の欄です」


「はい」


「穀物が先で、木材が後ろです」ロイドは言った。「二月でも、七月でも」


「二月の木材は、何ですか」


 ロイドは、答えなかった。


 訊く必要のない問いだった。この男は、冬を一度、越えられなかった家を持っている。答えは、彼の中に、六年ある。


「……薪です」


 薪は、三日で倍にはならない。値は、動かない。市場の紙の上では、何も起きない。何も起きないまま、峠の向こうの家で、火が消える。三日目に消えて、五日目に、年寄りから動かなくなる。


 値が動かないものは、彼女の規則では、後ろへ行く。


 ――全部、合っている。


 十一日前、彼女はこの掲示板の前で筆を持って、木材を十一日後に置いた。合っていた。今日、荷は通った。誰も死んでいない。夏だからだ。


 夏かどうかを、様式は、知らない。


 彼女が、知っていた。だから、置けた。置いても平気だと、その場で分かった。分かったのは、彼女が六年、そういうことを頭の中でやってきたからだ。頭の中でやってきたものは、紙に載らない。載らないものは、写らない。


 写した者は、写せるものを全部写した。


「ニナ」


 娘は、役所の戸口に立っていた。


「はい」


 エレノアは、紙から顔を上げなかった。


「あなたが、この帳面を送られたのは、三年前の二月です」


「はい」


「北の谷の八人は、その月です」


「はい」


「様式は、まだ立っておりません」


 ニナが、答えなかった。


「三年前の二月、この街道に、掲示板はありませんでした。あなたが送られた紙は、まだロイド様の役所の中にありました」エレノアは言った。「あの八人は、様式の前です」


「――お嬢様」


「あなたは、一人も殺しておりません」


 役所の中が、静かになった。


 サラが、壁際で、動かなかった。


「わたしが、送りました」


 ニナの声だった。


 小さくもなく、大きくもない。三年、峠の掲示を書いてきた声だ。数字のところで一度置いて、それから次へ行く声。


「送らなければ、九十七人は――」


「送ったものは」エレノアは言った。「正しく写されておりました」


 彼女は、紙の上の二十九行を、指で押さえた。


「写した者は、正しく回しました。九つの街道の書記は、一人も間違えておりません。回した先で、木材が後ろへ行きました。行ったのは、木材は三日で倍にならないからです」


「はい」


「それを決めたのは、あなたではありません」


 ニナは、答えなかった。


 エレノアは、顔を上げた。


 六年前、彼女は代官の前に立って、こう言った。証拠は。ありません。必要ありません。この構造で、この規模の抜きができるのは、あなただけです、と。あのとき、彼女は紙を一枚も持っていなかった。持つ必要がなかった。構造が、犯人を一人しか許さなかったからだ。


 いま、机の上に紙がある。四十一行。三十七と、九十七。区分の列。


 構造は、同じことを言っていた。


「ロイド様」


「はい」


「この様式で、この壊れ方ができるのは、何人ですか」


 ロイドは、紙を見た。


 彼は、数えた。数えるのに、時間がかからなかった。この男は、たぶん、峠で覚書を開いた夜から、ずっと数えていた。


「――一人です」


「はい」


 エレノアは、筆を置いた。


「私が、殺しました」


 風が、役所の窓を鳴らした。


 彼女は、その音を、聞いていた。


 六年、彼女は主語を自分に置いたことがなかった。切ったのは構造で、潰れたのは商会で、失業したのは三百人で、削られたのは医療費だった。全部、正確だ。誰かが誰かをどうこうしたのではない。仕組みがそうなっていた。仕組みを作った人間は、仕組みの外にいる。


 ――弁明とは、理解される前提で行うものです。


 六年前、彼女はそう言って、王城の執事に背を向けた。あのとき、その前提はどこにもなかった。だから彼女は何も言わなかった。言わないことを、彼女は正確さだと思っていた。


 言わなければ、主語は要らない。


「エレノア様」


「はい」


「九十七のうち、いくつが、あなたのものですか」


 ロイドが、そう訊いた。


 この男が、訊いた。訊いたことしか答えない男が、初めて、訊くほうに回った。


 エレノアは、紙を見た。


 九十七。二十九行。区分の列に、木材と薪が二十四。分けられる。長雨の年と、そうでない年。橋が落ちた月と、そうでない月。書記の腕。荷主の喧嘩。分ければ、彼女の取り分は、九十七より小さくなる。たぶん、ずっと小さくなる。


 六年、彼女はそうやって数字を作ってきた。


「――全部です」


「根拠を、伺っても」


「ありません」エレノアは言った。「必要ありません」

 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


 十一日前に書いた日付に、荷は通りました。一日もずれていません。

 御者は「ぴったりだ」と言って、峠を登っていきました。


 覚書は四十一行。様式が立つ前が三十七人、立ったあとが九十七人。

 そして立ったあとの二十九行のうち、二十四行が、木材か薪でした。


 ――穀物は三日で倍になる。木材は、ならない。

 嘘は一つもありません。九つの街道の書記は、一人も間違えていません。


 ただ、この様式には、月を書く欄がありません。

 二月の木材は、薪です。


 次話「撒いた人」で、第5章はひと区切りです。


 ――書いた人と、撒いた人は、同じではありません。


 よろしければ、ブックマークで追っていただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。