第57話 名簿
峠の役所に、馬が着いたのは、日の落ちるころだった。
エレノアは、東街道の南から三日かけて戻っていた。掲示板の下の欄には、彼女の書いた行がある。木材、十一日後。二番目の枠。十四台。あと二日だ。
役所の外で、馬が鼻を鳴らした。
入ってきたのは、サラ・グレイだった。
外套は着ていない。旅装ですらない。領地で見るのと同じ、襟元だけ几帳面な格好で、そのまま四日、馬の上にいた顔をしている。癖のある黒髪が、束ねたところから半分ほど落ちていた。それを直そうともしない。
「……サラ」
「なんで来たか、訊かないの?」
「伺います」
「最後の一行でしょ」
サラは、机の縁に腰を預けた。いつもの立ち方だ。壁がないところでは、机の縁になる。
「名簿を調べろ。役職を調べろ。いつ入っていつ出たか。採ったのが誰か」彼女は指を折った。「ここまでは、紙で足りるわ。四日で走らせれば済む」
彼女は、指を一本、余らせた。
「顔を、覚えている者がおりましたら」サラは言った。「――これ、紙で返せる?」
エレノアは、答えなかった。
領地は、どうしているのか、と彼女は思った。
思ってから、訊かなかった。訊くまでもない。この女が四日、馬の上にいたということは、四日、領地に読む人間がいなかったということだ。それでも、この女はここにいる。回らなくなるなら、来ない。三割は、そういう値段だ。
「テオドルよ」サラが言った。「訊く前に言っとくわ」
「――持ちますか」
「持つわよ」彼女は言った。「三年、あなたの決めた順番どおりに紙を動かしてきた人だもの。四日くらい、目をつぶってても回るわ。あなた、そう作ったんでしょ」
エレノアは、答えなかった。
そう作った。二十一日、彼女は領地にいない。領地は、動いている。動いていることを、彼女は毎日 忘れている。忘れていられるように作ったからだ。
サラは、懐から折った紙を出して、机に置いた。
「六年前の四月に入ってる」
エレノアは、それを開いた。
テオドルの字だ。細くて、間隔が正確で、余白の取り方が几帳面だ。三年、彼女の決めた順番どおりに紙を動かしてきた男の字だった。
――ニナ。六年前 四月。屋敷。下働き。
――同年 九月。執務室付。写しを取る者。
――三年前 一月。退く。
三行だ。六年のうちの三年が、三行で終わっている。
「役職、見た?」
「写しを取る者、と」
「そう」サラは言った。「あなたの机の上のものを、三部に写して、一部をテオドルに、一部を棚に、一部をあなたに戻す。それが仕事」
「はい」
「三年、毎日ね」
エレノアは、その紙の、下のほうを見た。
行が、もう一つあった。テオドルの字だが、書き方が違う。名簿の行ではない。添え書きだ。
――三年目の春、写しを取る者を一人、お引き合わせしようと存じたことがございます。よく写す娘でございましたので。
――お嬢様は、必要ありません、と仰いました。
――私は、そのとおりだと存じました。
エレノアは、その三行を、二度読んだ。
覚えていない。
誰かが何かを言おうとして、彼女が必要ありませんと答えた場面は、六年で数え切れない。テオドルは言おうとしてやめる男だ。半分は言わなくてよいことだと学んでいる。学ばせたのは、彼女だ。
――必要ありません。
その言葉を、彼女は六年、使ってきた。証拠は必要ありません。弁明は必要ありません。理解は必要ありません。短くて、正確で、相手を責めない。持っている言葉の中で、いちばん角の立たないものだった。
角が立たないのは、そこで話が終わるからだ。
終わらせるための言葉を、彼女は六年、いちばん角の立たない言葉だと思って使ってきた。使われた側の紙は、棚へ行った。棚へ行ったものを、彼女は一度も見返していない。
三年目の春。
余白に線を引いた季節と、同じだった。
「テオドル、それ書くのに一刻かかったわよ」サラが言った。「私、横で見てたの。書いては消して、書いては消して。最後に、三行だけ残した」
「――消しましたか」
「消したわ。破いてはいない」サラは言った。「棚に入れてた。私が引っ張り出したの」
エレノアは、紙を置いた。
「サラ」
「なあに」
「顔を覚えている者は、おりましたか」
サラは、少し、黙った。
この女が黙るのを、エレノアは六年で数えるほどしか見ていない。
「いたわよ」
「何人ですか」
「全員」
役所の窓の外で、風が鳴った。
「厨の女中も、門番も、庭師も、洗濯場の婆さんも、みんな覚えてたわ。名前も、顔も、どこの生まれかも」サラは言った。「小柄で、髪をきつく結わえてて、朝は必ず挨拶する。字がやたら綺麗な子だった、って。厨の女中なんか、あの子が出てった日のこと、まだ怒ってたわよ。挨拶もなしに、って」
「……全員、ですか」
「全員」
サラは、机の縁から、体を起こした。
「あなたと、私を除いて」
エレノアは、顔を上げた。
サラは、笑っていなかった。肩もすくめなかった。この女がそのどちらもしないのを、エレノアは初めて見た。
「私も、覚えてないの」サラは言った。「三年、同じ部屋にいたのに。壁際に立ってたのは私で、あの子は、私の後ろで紙を運んでたのよ。私、一度も振り返ってない」
「サラ」
「読むだけの人間でいたかったのよ、私」彼女は言った。「三割は、その値段。そう言ったわよね」
「はい」
「読むだけの人間はね、紙しか見ないの」
彼女は、机の上の名簿を、指の腹で押さえた。
「あなたと私は、同じものが欠けてるのよ。あなたは書けなくて、私は読めるだけ。でも、そこじゃなかった」サラは言った。「二人とも、紙の向こうにいる人間を見ないの。紙は、いくら読んでも、誰が運んできたかを書いてないから」
エレノアは、答えなかった。
「エレノア」
「はい」
「あなた、ずっと前に言われたこと、覚えてる?」サラは言った。「あなた、負けるときは派手に負けるでしょって」
エレノアは、その言葉を、覚えていた。
六年前だ。五割を蹴った女が、三割据え置きで、こっち、と言った日。そのあとに、ついでのように付け足された一言だった。それ、見逃すのもったいない、と。
「あれ、取り消すわ」
「――なぜですか」
「こういうのは、見たくなかったわ」
サラは、そう言って、窓のほうを向いた。
「派手に負けるってのはね、私が思ってたのは、こう、あなたが盤ごとひっくり返して、大損して、それでも平気な顔してるやつよ。面白いでしょ、そういうの」彼女は言った。「これは、面白くないの。あなた、何も失ってないもの。領地は回ってるし、契約は生きてるし、あなたは今日も飯を食える」
「はい」
「死んでるのは、あなたが顔も知らない人たちよ」サラは言った。「それは、負けじゃないわ」
「では、何ですか」
サラは、答えなかった。
道の上から、足音がした。
ニナが、峠を越えて下りてきていた。日は、もう半分沈んでいる。彼女は役所の戸口で足を止めて、中を見て、それから、少し下がった。また、道を空けようとした。
サラが、その娘を見た。
見て、動かなくなった。
「ニナ」エレノアは言った。「入ってください」
娘は、入ってきた。壁際に、立った。
サラの、指が、机の縁で止まった。
彼女は、その立ち方を見ていた。戸口から二歩。壁に背を預けず、手を前で組んで、部屋の全部が見えるところ。声を立てずに入って、誰にも気づかれずにそこにいる立ち方だ。
六年、サラ・グレイが立ってきた場所だった。
「……そこ」
サラが、そう言った。
ニナは、動かなかった。何を言われたのか分からない顔をしていた。
「そこに、立ってたのね」
「はい」
サラは、それから、何も言わなかった。
この女は、六年、部屋に入る音を立てなかった。いつからそこにいたのかを、執務室の誰も確かめられなかった。気配が薄い、だが存在感はある——それが、サラ・グレイという人間の記号だった。壁際にいる女。振り返ると、いつのまにかいる女。
薄い気配の後ろに、もっと薄い気配が、三年、立っていた。
紙を運び、灯りを替え、写しを取って、一礼して下がる音。壁際の女は、それを毎日 背中で聞いていた。聞いて、一度も振り返らなかった。振り返る理由が、なかったからだ。
エレノアは、掲示板のほうを見た。役所の窓から、その紙の端が見える。木材、十一日後。二番目の枠。十四台。
明後日だ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
紙で返せるものは、四日で走らせれば返ってきます。
役職も、入った日も、出た日も、採った人の名前も。
「顔を、覚えている者がおりましたら」——これだけが、紙で返せませんでした。
だからサラは、自分で馬に乗ってきました。
答えは、全員でした。
厨の女中も、門番も、庭師も、洗濯場の婆さんも。
――あなたと、私を除いて。
次話「私が、殺しました」は、木材の日です。
――十一日後、と書いたのは、彼女です。
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