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第56話 消してください

「消します」


 ロイドは、そう言って、掲示板に手をかけた。


 訊かなかった。理由も、条件も、期日も。この男は、峠でも同じことをした。九つの街道の掲示を下ろせと言われて、下ろしますと言った。彼は、言われたことをする。言われたことの中身を、自分では量らない。


「お待ちください」


 声は、後ろからした。


 エレノアが、振り返った。


 ニナが、道の端から、二歩、前へ出ていた。両手は、まだ前で組んでいる。組んだまま、そこに立っていた。


 この娘が、道を空けなかったのを、エレノアは初めて見た。


「――ニナ」


「はい」


「なぜですか」


 ニナは、答えるまでに、間を置いた。長かった。三年、誰にも何も言わずにいた人間が、口を開くまでの長さだった。


「消せば、みなさん、帰れません」


「はい」


「帰れなければ、待ちます」彼女は言った。「待つには、場所が要ります。この道には、待避所がありません」


 エレノアは、道を見た。


 平らだ。両側は麦畑で、塀もない。荷車が二台すれ違える幅がある。待避所が要らない道だ。待つ者は、道の上に立つ。立てば、荷が通れない。


「はい」エレノアは言った。「塞ぎます」


 ニナの目が、動いた。


「塞いで、いただきます」


「エレノア様」


 ロイドが、掲示板から手を離した。


「塞げば、明日から粉が入りません」


「はい」


「三日で倍になります」彼は言った。「倍の倍まで、五日です」


「存じております」


「五日目に、何人ですか」


 エレノアは、答えなかった。


 この男は、六年前に王都でそれを見ている。三日目にパンが倍になり、五日目に倍の倍になり、七日目に列が崩れた。彼はそれを、列の中から見た。棚が倒れて、右の耳の上に傷が残った。


「ロイド様。いま、この街道では、何人ですか」


「五人です」


「三年で、五人ですか」


「はい」


「その五人は、どこにおられましたか」


「――家です」


 風が、麦畑を渡っていった。


「見えませんでした」エレノアは言った。「三年、誰にも見えませんでした。道が綺麗でしたので」


「はい」


「塞げば、見えます」彼女は言った。「見えれば、数えられます。数えられれば、直せます」


 ロイドは、少しの間も置かなかった。


「三年、数えております」


 エレノアの、指が、止まった。


「百三十四です」ロイドは言った。「毎月、数えて、掲示に出しております。直っておりません」


 彼は、掲示板のほうを見た。


「数えれば直るのであれば、私は、三年前に直しております」


 エレノアは、答えなかった。


 答える材料が、その場になかった。


 この男は、数える人だ。数えることを疑ったことがない。その男が、いま、数えても直らなかったと言った。三年ぶんの数字を持ったまま、直せなかったと言った。


 見えれば直る、というのは、彼女の思い込みだった。


 六年、彼女は見えれば直してきた。だがそれは、彼女が見て、彼女が直してきたからだ。見えることと、直ることのあいだには、直す人間が一人要る。その一人がいる場所でしか、あの理屈は成り立たない。


 ここに、その一人はいない。


 彼女は、掲示板を見た。


 例外の扱い。穀物、三日後。二番目の枠。八台。その上に、彼女の家の名前。


 消せば、人が道に立つ。立てば、粉が来ない。三日で倍。五日で倍の倍。


 消さなければ、人は帰る。帰って、家で待つ。三年で、五人。


 ――どちらでも、死ぬ。


 並べるものが、二つある。二つあるのに、大きいほうを取れない。取れないのは、どちらの数字も、彼女が作ったものだからだ。


「ニナ」


「はい」


 エレノアは、その娘のほうを向いた。


「あなたなら、どうなさいますか」


 ニナの顔から、表情が消えた。


 驚いたのでも、怯えたのでもない。そこに入るはずのものが、何も用意されていない顔だった。三年、峠に立って、誰にも訊かれなかった人間の顔だ。


「――わたしは」


「はい」


「わたしは、決められません」


「存じております」エレノアは言った。「訊いております」


 沈黙が、麦畑の音で埋まった。


 ニナは、掲示板を見た。それから、道の脇の帆布の列を見た。関所の先から、麦畑が切れるところまで。彼女は、それを端から端まで見て、それから、エレノアのほうへ戻ってきた。


「……消さないでください」


「理由を」


「消せば、あの日付は、なくなります」ニナは言った。「なくなったものは、直せません」


 エレノアは、その言葉を、聞いた。


「書き足して、いただけませんか」


「――何をですか」


「本当のことを」


 娘は、掲示板の下のほうを、指した。


「線は、消さないでください」彼女は言った。「峠で、そうなさいました。線を消さずに、下に書き足されました。あれを、わたしは見ておりました」


 ――四人目。


 列の中で、まだ読んでいた者がいた。二日、同じ場所で三度飯を炊いた男たちが順に下がっていくあいだ、一人だけ、紙の前から動かなかった。


「あの日、なぜ消されなかったのですか」


「消せば、書いた者の顔が潰れます」エレノアは言った。「潰す必要が、ありませんでした」


「はい」ニナは言った。「わたしの顔でした」


 エレノアは、答えなかった。


 彼女は、掲示板の前に立った。


「ロイド様」


「はい」


「この街に、粉はございますか」


「あります」


 即答だった。この男は、関所の男と二言 三言 話しただけだ。話しながら、数えていた。


「どちらに」


「街の南の倉に、十二袋」ロイドは言った。「明後日、荷を開けます。値は、倍です」


「倍で、買える者は」


「三割ほどかと」


「残りの七割は」


「待ちます」


 エレノアは、頷いた。


 三割が買い、七割が待つ。買った三割は、七割ぶんの分を食わない。その七割ぶんが、三日後の八台に回る。八台は、三日後には来ない。だが、来ないと分かっていれば、七割の中の何人かは、明日、別のことをする。


 全部は、救えない。


 六年前から、彼女はそう言ってきた。言うたびに、誰かが顔を歪めた。


「筆を、お借りできますか」


 ロイドは、懐から筆と、小さな墨壺を出した。


 エレノアは、下の欄の、その行の下を見た。空きが、二寸ばかりある。書記は、律儀にそこを残していた。ここでもだ。九つの街道の書記は、全員、この元本を写している。余白の残し方まで、写している。


 彼女は、筆を下ろした。


 ――この三日後は、ひと月のあいだ、三日後のままです。


 書いて、彼女は筆を止めなかった。止めれば書けなくなると、峠で分かっている。次の行に、続けた。


 ――待つか、他所で買うか、お選びください。粉は、明後日、街の南の倉に十二袋あります。値は、倍です。


「エレノア様」


「はい」


「それは、掲示の様式ではありません」


「はい」エレノアは言った。「様式には、選ばせる欄がありません」


 彼女は、筆を返した。


 列が、動いていた。


 前から三人目の女が、紙の前に出た。彼女は紙を見て、それから、隣の男を見た。男が読み上げた。声が、後ろへ回っていく。七人の頭が、順に上がった。


 誰も、帰らなかった。


「あんた」


 女が、こちらを見ていた。籠を提げたまま、掲示板と、エレノアを、二度見比べた。


「あんた、誰だい」


 エレノアは、その顔を見た。


 六年、彼女は名乗ってこなかった。名乗る必要がなかったからだ。ヴァルディエ侯爵領で、彼女はお嬢様であり、隣国でエレノア様であり、峠で奥様だった。名前は、紙の上にあれば足りた。


 いま、その紙が、この女の頭の上にある。


「エレノア・ヴァルディエと申します」


「そうかい」


 女は、頷いた。それだけだった。


 彼女は、掲示板を、もう一度見た。読めない紙を、もう一度見た。それから、籠を持ち直した。


「粉、来るのかい」


 エレノアは、答えなかった。


 答えは、書いてある。彼女がいま、自分の手で書いた。ひと月のあいだ、三日後のままだ、と。倍の値で、明後日、南の倉に十二袋ある、と。


 この女は、それを読めない。


「――来ません」


 エレノアは、そう言った。


 六年で、初めてだった。

 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


 「見えれば、数えられる。数えられれば、直せる」——エレノアはそう言いました。

 ロイドは「三年、数えております。百三十四です。直っておりません」と答えました。


 見えることと、直ることのあいだには、直す人間が一人要ります。

 六年、その一人は、いつも彼女でした。


 そして彼女は、六年で初めて、人に訊きました。

 「あなたなら、どうなさいますか」


 答えたのは、決められないと言い続けてきた娘でした。

 ――線は、消さないでください。峠で、そうなさいました。


 次話「名簿」では、領地から早馬の返事が届きます。


 ――走ってきたのは、紙だけではありません。


 よろしければ、ブックマークで追っていただけると嬉しいです。

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