第55話 東街道の南
東街道の南までは、二日かかった。
道は平らだ。峠がない。両側が麦畑で、この時期はもう穂が出ている。荷車は二台がすれ違える幅があり、待避所は要らない。ここは、そういう道だった。第七街道の峠を歩いたあとでは、同じ国の道とは思えない。
馬車の中で、ニナは一度も外を見なかった。
膝の上で手を組んで、そのまま座っている。エレノアは、二日、その手を見ていた。
「ニナ」
「はい」
「東街道の南へは、行かれたことがありますか」
「ございません」
エレノアは、その返事を、聞いた。
覚書には、四行ある。東街道の南。二月。粉、届かず。四。同。三月。粉、届かず。一。この娘は、行ったことのない場所の、五人を数えていた。
「どうやって、数えられましたか」
「御者に伺いました」ニナは言った。「峠を通る方に、どこから来られたかを伺って、それから、そちらで何か届かなかったものはありますか、と」
「三年、ですか」
「三年です」
馬車が、麦畑の間で、少し傾いた。
「訊いて、教えていただけますか」
「たいてい、教えていただけます」彼女は言った。「みなさん、覚えておられますので」
昼過ぎに、街が見えた。
街というより、道の膨らみだ。関所があって、その先に宿と、倉と、家が並んでいる。エレノアは馬車を降りた。ロイドが先に降りて、関所の男に何か言い、男は背筋を伸ばして、掲示板のほうを指した。
道は、動いていた。
速い。列がない。荷車が関所を抜けて、止まらずに進んでいく。エレノアは、その流れを、しばらく見ていた。
――綺麗だ。
六年、彼女はこういう道を作ろうとしてきた。詰まらない。滞らない。荷が、着くべきところへ、着くべき日に着く。この道は、それが出来ている。峠の四十七台とは、比べものにならない。
掲示板は、関所の脇にあった。
人が、並んでいた。
十人ほどだ。順番に前へ出て、紙を見て、下がる。下がった者は、道の脇へは行かない。街のほうへ帰っていく。誰も、二度並ばない。
エレノアは、列の脇を通って、紙の前に立った。
左に日付。右に区分。上から、穀物、木材、鉄。時間帯まで書いてある。彼女の様式だ。若い手ではない。もっと整った、書き慣れた字だった。
紙の、いちばん上に、二行あった。
――ヴァルディエ侯爵領 様式
エレノアは、そこで、動かなくなった。
文字は、大きくない。飾ってもいない。表題の書き方だ。この紙が何であるかを、いちばん上に書いてある。それだけのことだった。
彼女は、下の欄を見た。
例外の扱い、と書いてある。
その下に、行があった。
――穀物、三日後。二番目の枠。八台。
書いてある。日付も、枠も、台数も、順番も。エレノアが六年前に決めた様式のとおりに、一つも欠けずに書いてある。
「ロイド様」
「はい」
「この掲示の、前のものは、残っておりますか」
「役所にあります」ロイドは言った。「控えを取ります。毎日です」
「拝見できますか」
束は、思ったより厚かった。
エレノアは、関所の机の上で、それを日付の逆順に繰った。昨日。一昨日。その前。その前。
――穀物、三日後。二番目の枠。八台。
――穀物、三日後。二番目の枠。八台。
――穀物、三日後。二番目の枠。八台。
彼女の手が、止まらなかった。繰るのをやめられなかった。十枚。二十枚。ひと月ぶん。全部、同じ行だった。
三日後。毎日、三日後。
昨日の紙にも、三日後と書いてある。三日前の紙にも、三日後と書いてある。三日前の三日後は、昨日だ。昨日、その八台は通っていない。通っていないから、昨日の紙にも、三日後と書いてある。
嘘は、一つもなかった。
その日その日に、書記は正しく計算している。明日の枠は十割。明後日も十割。三日目に、少しだけ空く。だから三日後と書く。書いた日には、それは本当だ。三日後になると、その三日のあいだに新しい荷が来ていて、また十割になっている。だから、また三日後と書く。
一割が、ないからだ。
エレノアは、束を置いた。
置いて、外へ出た。
道の脇を、見た。
帆布が、あった。
一つではない。関所の先から、麦畑が切れるところまで、道の左側に、ずっと。帆布をかけて、上に石を置いた荷が、並んでいる。十や二十ではなかった。数えようとして、彼女は数えるのをやめた。
置いていったのだ。
全部、書いてあったからだ。次がいつかが、紙に書いてあった。書いてあれば、後回しにされた者は帰る。帰るというのは、諦めることではない。次があると書いてあるから、今日を降りられる。彼女が、そう設計した。
降りた者は、道を塞がない。
だから、この道は綺麗なのだ。
エレノアは、いちばん近い帆布に近づいた。石をどけて、帆布の端を上げた。
麻袋だった。粉だ。
袋は、破れていない。だが、下のほうが黒く変わっていて、そこから草が生えていた。袋の中で湿って、袋の中で芽が出て、袋の中で枯れている。ひと月やふた月では、こうならない。
彼女は、帆布を戻した。石を、元の場所に置いた。
列は、まだ動いていた。
エレノアは、その最後尾へ歩いた。並んでいるのは、荷主ではない。街の者だ。前から三人目に、年配の女がいた。籠を提げて、掲示板のほうを見ている。
「失礼いたします」
女が、振り返った。
「いつから、並んでおられますか」
「今日はさっきからだよ」
「そうではなく――」エレノアは言い直した。「この列に、いつから並んでおられますか」
「ああ」女は、少し考えた。「ふた月ばかりかね」
「毎日、ですか」
「毎日じゃないよ。三日に一度さ」女は言った。「三日後って書いてあるからね。三日後に来るんだ」
「三日後に来ると、どうなりますか」
「また三日後って書いてある」
エレノアは、その返事を、聞いた。
「――お怒りには、なりませんか」
「怒る?」
女は、妙な顔をした。それから、掲示板のほうを顎で示した。
「書いてあるじゃないか」
列が、一つ進んだ。
「役所に、行っておられませんか」
「なんで行くんだい。書いてあるのに」女は言った。「書いてないなら行くよ。前はそうだった。前は何にも書いてなかったから、みんな役所に行った。押しかけて、怒鳴って、それでも粉は来なかったけどね」
「――今は」
「今は書いてあるから、行かない」
彼女は、籠を持ち直した。
「あんた、字が読めるのかい」
エレノアの、指が、止まった。
「……読めます」
「じゃあ、読んどくれよ」女は言った。「わたしゃ読めない。並んで、前の人に読んでもらうのさ。みんなそうだよ。読める人が、二人か三人。その人らが、順番に読んで、後ろへ声で回すんだ」
エレノアは、列を見た。
十人。前から三人が、紙の前にいる。後ろの七人は、紙を見ていない。前を見ている。声を待っている。
「ニナ」
「はい」
娘は、少し離れたところに立っていた。帆布の列を、端から端まで見ていた。三年、数えていた場所の実物を、この人間はいま初めて見ている。
「二月の四人は、どこで亡くなりましたか」
ニナは、答えるまでに、間を置いた。
「家です」
「――家」
「はい」ニナは言った。「みなさん、家におられます。掲示に、書いてありますので」
風が、麦畑を、端から端まで撫でていった。
エレノアは、道を見た。
止まっていない。詰まっていない。列は十人で、みんな静かに読んで、静かに帰る。怒鳴る者はいない。役所に押しかける者もいない。この街道は、九つのうちで、いちばんよく回っている。
止まった道は、見える。
四十七台が待避所を埋めれば、誰でも分かる。焚き火が二つ上がって、御者が座り込んで、同じ紙を何度も読みに来る。あれは、見える。見えるから、彼女は半日で峠へ登った。
家の中は、見えない。
――ここが、いちばん綺麗だ。
彼女は、六年、道を綺麗にしてきた。詰まりを取り、滞りを取り、待つ者が待たなくて済むようにしてきた。その仕事の、いちばん上手くいった形が、これだった。
誰も並ばない。誰も怒らない。誰も、道にいない。
「ロイド様」
「はい」
エレノアは、掲示板のほうへ戻った。
例外の扱い。穀物、三日後。二番目の枠。八台。彼女の字ではない。彼女の様式だ。その上に、彼女の家の名前が書いてある。
「この欄を、消してください」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
東街道の南は、九つの街道でいちばんよく回っています。
列は短く、誰も怒らず、道は詰まっていません。
控えを繰ると、ひと月ぶん、同じ行が書いてありました。
――穀物、三日後。
嘘は一つもありません。書いた日には、それは本当です。
次があると書いてあるから、人は今日を降りられる。
降りた者は、道を塞ぎません。だから、この道は綺麗です。
止まった道は、見えます。
家の中は、見えません。
次話「消してください」では、その欄を消そうとします。
――止めるのは、ロイドではありません。
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