第54話 止めます
峠の掲示板は、その日のうちに書き換えられていた。
字が、違った。
太い。角が丸い。線を引くのに定規を使っていない。ヨナスの字だ。書記が来ないので、役所の男が代わりに書いたのだろう。上の欄だけが新しくなっていて、下の欄には手が入っていない。線が一本あって、その下に、昨日エレノアが書いた行がそのまま残っている。木材、十一日後。二番目の枠。十四台。
消せなかったのだ、とエレノアは思った。
代わりに書けと言われた男は、上の欄なら書ける。日付と区分は、毎日 変わるものだからだ。だが下の欄は、誰かが誰かを後回しにした記録だ。書いた者以外には、消せない。
彼女は、その紙の前に立っていた。
道は、動いていた。
夕の便が二番目の待避所へ入っていく。下りの荷が一台、峠から降りてきて、それとすれ違う。すれ違えるのは、そこに場所があるからだ。昨日の朝、この道は止まっていた。焚き火が二つ、帆布のかかっていない木材、同じ紙を何度も読みに来る男たち。いま、その紙の前に立っているのは、彼女一人だった。
「ロイド様」
「はい」
「九つの街道の掲示を、下ろしていただけますか」
ロイドは、少しの間も置かなかった。
「下ろします」
風が、峠の下から吹き上がってきた。
エレノアは、この男の顔を見た。無表情だった。昨日も、一昨日も、同じ顔だった。この男は、いま、六年ぶんの様式を一息で捨てると言った。捨てると言うのに、息の一つも変えていない。
「――理由を、お訊きになりませんか」
「伺います」
「壊れているからです」
「はい」ロイドは言った。「では、下ろします」
彼は、掲示板の留め具に手をかけた。
「お待ちください」
ロイドの手が、止まった。
「下ろせば、どうなりますか」
「三年前に戻ります」
エレノアは、峠の下を見た。
二十六台が朝に下りて、待避所には夕の便が入っている。荷改めの声が、下のほうから途切れずに上がってくる。一昨日の朝、この道は止まった。昨日の昼まで、四つの待避所は全部埋まっていた。
その前は、どうだったのか。
「ロイド様。三年前、この街道では、月にどれだけ遅れておりましたか」
「存じません」
「先々月は三日、先月は八日、今月は半月でした」エレノアは言った。「三年前は」
「存じません」
「――お数えになっていませんでしたか」
「はい」ロイドは言った。「数えておりませんでした」
エレノアは、答えなかった。
この男は、数える人だ。四十秒を数え、百二十台を数え、二十二人の名前を数える。その男が、三年前を持っていない。
「では、いつから数えられましたか」
「あの帳面が届いてからです」
エレノアは、その返事を、聞いていた。
覚書の最初の行は、三年前の二月だ。北の谷。薪、届かず。八。あれが最初の一行なのは、八人が最初に死んだからではない。誰かが数えはじめたのが、その月だったからだ。
その前の数は、この世にない。
下ろせば三年前に戻る。三年前がどうだったかは、誰も知らない。彼女の様式は、この街道で人を殺している。殺しているが、殺す前より多いのか少ないのかを、確かめる紙が、どこにもない。
――比べられない。
六年、彼女は数字で決めてきた。数字がなければ決めない。決めるときは、必ず二つの数字を並べて、大きいほうを取ってきた。並べるものが片方しかない盤面に、彼女は座ったことがなかった。
「エレノア様」
「はい」
「下ろしますか」
「……お待ちください」
ロイドは、手を離した。彼は何も訊かなかった。
道の下から、馬の足音がした。
登ってくる。一頭だ。速い。峠の道を、この速さで登れる馬は多くない。
カティア・ルーベンシュタインが、馬を止めて、下りた。
外套の裾に土が跳ねている。彼女は掲示板のほうを一度見て、それから、峠の上を見て、最後にエレノアを見た。順番が、そうだった。
「面白いことになってるって聞いたから」
「どなたからですか」
「あなたのところの早馬が、うちの前を通ったのよ」カティアは言った。「四日で領地まで走る馬が、朝から出てるの。何かないほうがおかしいでしょ」
彼女は掲示板に近づいて、下の欄を、指の腹でなぞった。
「これ、あなたの字ね」
「はい」
「へえ」
カティアは、それだけ言った。褒めなかった。面白がりもしなかった。
「カティア様」
「なあに」
「貸与を、引き上げます」
カティアは、掲示板から手を離した。
それから、笑った。声を出して笑った。峠の木が鳴るほどの声ではない。短い、乾いた笑い方だった。
「引き上げる」
「はい」
「どこから」
エレノアは、答えかけて、そこで止まった。
「九つの街道です」
「それで?」
「それで、止まります」
「九つはね」カティアは言った。「他領は?」
風が、掲示の紙を、少しだけめくった。
「樫の坂。二番目の橋の先。灰色の川の対岸」彼女は、指を三本立てた。「あなた、そこに何か権利がある?」
「ありません」
「私にもないわ」カティアは肩をすくめた。「じゃあ、九つ止めても、三つは回るわね。あなたの様式で。あなたの名前で」
エレノアは、動かなかった。
「カティア様。あの三つは、いつからですか」
「知らない」
「――お調べいただけますか」
「調べるのは、こっちの仕事じゃないでしょ」カティアは言った。「あなた、貸すって言ったのよ。買いませんかって訊いたのに、売りませんって言って、貸しますって言ったのは、あなた」
「はい」
「貸したものは、貸した人のものよ。だから引き上げられる。そうよね」
「はい」
「じゃあ、訊くけど」
カティアは、掲示板に背を預けた。
「あの三つは、あなたが貸したの?」
エレノアは、答えなかった。
貸してはいない。契約は九つの街道のためのものだ。他領の三つには、紙が一枚もない。誰も借りていない。誰も返さない。引き上げるという言葉が、そもそも成り立たない。
貸したものは引き上げられる。貸していないものは、引き上げられない。
「便利なのよ、貸すって言葉」カティアは言った。「持ってるうちは、ね」
彼女は、掲示板の紙を、顎で示した。
「あなた、これ、書けばいいだけでしょ」
「はい」
「一行よ。枠の一割を空けろ。理由はこれこれ。それだけ書いた紙を、九つの街道と、他領の三つに送れば、明日から直るわ」カティアは言った。「送りなさいよ」
「――書けません」
「知ってる」
カティアは、そこで、笑うのをやめた。
「三時間、外で数えてたって言ったでしょ」
道の上から、足音がした。
ニナが、峠を越えて下りてきていた。
日は、もう半分沈んでいる。四十戸を回って、帰ってきたところだ。彼女は道の途中で足を止めて、三人を見た。それから、道の端に寄って、両手を前で組んだ。また、道を空けた。
カティアは、その娘を、一度も見なかった。
馬の手綱を取って、鞍に手をかけて、それから、思い出したように振り返った。
「エレノア」
「はい」
「あなた、いま何を止めようとしてるの?」
エレノアは、その問いを、聞いた。
カティアは返事を待たずに馬に乗って、道を下りていった。蹄の音が、木の間で二度折れて、それから聞こえなくなった。
「ロイド様」
「はい」
「あの方は、なぜ、峠まで登られましたか」
「早馬をご覧になったからです」
「それだけで、ですか」
「はい」ロイドは言った。「あの方は、紙より先に、人の動きをご覧になります」
エレノアは、道の端の娘を見た。
あの女は、掲示板を見て、峠の上を見て、こちらを見た。三つ見て、馬に乗って帰った。道の端に人が一人立っていたことを、あの目は拾わなかった。人の動きを見る女が、動かずに立っている者だけは見ない。
六年、彼女もそうだった。
「ニナ」
「はい」
娘は、道の端から動かなかった。
「あなたは、この街道を歩いておられます」
「はい」
「他の街道は、どなたが歩いておられますか」
ニナは、少し、間を置いた。
「おりません」
エレノアは、掲示板を見た。
九つある。この峠の一つだけが、一日で直った。直ったのは、彼女が日付を書いたからではない。書いた日付を、四十の戸まで運ぶ足が、この街道にだけあったからだ。
「では、東街道の南の、四人は」
「数えただけです」ニナは言った。「歩けませんでしたので」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
下ろせば、三年前に戻ります。
三年前がどうだったかは、誰も知りません。数えはじめたのが、その帳面が届いた月だからです。
エレノアは六年、二つの数字を並べて、大きいほうを取ってきました。
並べるものが片方しかない盤面に、彼女は座ったことがありませんでした。
貸したものは引き上げられます。
貸していないものは、引き上げられません。
次話「東街道の南」では、二つ目の街道へ行きます。
――そこには、歩く人がおりません。
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