第53話 余白に、線
エレノアは、答えなかった。
答えなかったのではない。答える言葉が、そこになかった。
畑の土の上を、風が通っていく。低い塀の向こうで、豆の葉が一枚だけ裏返って、また戻った。谷は静かだった。四十戸の村が働きに出ている時刻の、当たり前の静けさだ。
ニナは、待っていた。
急かさない。目も逸らさない。両手を前で組んだまま、こちらを見ている。この待ち方を、エレノアは知っていた。答えが返ってくると思っている人間の待ち方ではない。返ってこないことに、慣れている人間の待ち方だ。
「……ニナ」
「はい」
「私は、それを、書けません」
「はい」
彼女は、驚かなかった。
「一昨日、三時間かけました」エレノアは言った。「書けませんでした」
「はい」
「なぜ、はい、と仰いますか」
「存じておりましたので」
風が、止まった。
「前にも、一度、伺いました」ニナは言った。
エレノアの視線が、その顔で止まった。
「――いつですか」
「三年目の春です」
娘は、少しだけ、目を落とした。
「お嬢様が、五つの区分の書式を、暖炉に入れられた日の、次の日です」
エレノアは、そこを、探した。
三年目の春。二月ほど使って、駄目だと分かった書式だ。荷の区分を五つに割る書き方。その他の欄が膨らんで、膨らんだ欄は誰も読まない。彼女は破いて、暖炉に入れた。二月ぶんの仕事が、燃えるのに、さして時間はかからなかった。
その次の日のことは、何もない。
何もないところに、この娘が立っている。
「どこで、伺いましたか」
「書きました」
「――書いた」
「その日の写しを、お持ちしました」ニナは言った。「三部です。一部はテオドル様へ、一部は棚へ、一部はお嬢様の机の上へ。机の上のものの、右の余白に、書きました」
エレノアは、動かなかった。
「なんと、お書きになりましたか」
「この一割は、何のためですか、と」
――余白。
一枚の紙が、頭の中で開いた。
彼女は、それを、覚えていた。
六年、机の上に上がってくる紙の余白に、何かが書かれていたことは、一度しかない。写しの余白は白い。白いから写しだ。白くない写しが一枚、机の上にあった。だから彼女は覚えている。異例だからだ。異例なものを、彼女は忘れない。
右の余白。上から三寸ほどのところ。小さい字。癖のある、少し急いだ、右へ流れる字。
エレノアは、そのとき、何をしたか。
定規を、取った。
「私は」
「はい」
「――線を、引きました」
「はい」
ニナは、頷いた。
責める顔をしなかった。同意する顔でもなかった。ただ、そうでした、と言う顔だった。
「なぜ、引かれましたか」
「写しの余白に、字を書いてはなりません」エレノアは言った。「書けば、次に読む者が、それを本文だと思います」
「はい」
「――違います」
彼女は、そこで、口を閉じた。
違う。それは、あとから思い付いた理屈だ。
あの日、彼女は定規を当てて、その一行の真ん中に、線を引いた。引いてから、紙を裏返して、次の仕事に移った。そのあいだ、何かを考えたか。考えていない。理屈は、いま作った。
考えなかったのだ。
なぜなら、答えを持っていなかったからだ。持っていない問いが、机の上に載っていた。載せた者が誰かは、見なかった。見なくても、線は引ける。
「答えられなかったからです」
エレノアは、そう言った。
声は、いつもと同じだった。同じであることが、自分でも分かった。六年、この声で、彼女は人を切ってきた。代官を切り、三百人を切り、王都からの使者を断った。同じ声で、いま、答えられなかったと言っている。
「はい」ニナは言った。
「はい、ではありません」
「――申し訳ありません」
「謝らないでください」
言ってしまってから、エレノアは、その語気に気づいた。
六年、彼女は一度も、この言い方をしていない。
「わたしは」ニナは言った。「あの線を、写しました」
エレノアは、顔を上げた。
「線を」
「はい」
娘は、自分の右手を、少しだけ持ち上げた。指の先が墨で汚れている手だ。
「あの日から、書いて違うと思ったものには、線を引くようにしました。定規を当てて、字の真ん中に、まっすぐ。上からでも下からでもなく、真ん中を通せば、下の字が読めます」ニナは言った。「読めれば、なぜ違うのかが、あとで分かります。同じことを、二度書かずに済みます」
エレノアは、その説明を、聞いていた。
彼女が誰にも言ったことのない理屈だった。父も、兄も、そんな消し方はしなかった。テオドルもしない。サラは、そもそも書かない。六年、その線の意味を知っている人間は、この世に一人しかいなかった。
いま、二人いる。
「――ニナ」
「はい」
「あなたは、その線を、何だと思いましたか」
ニナは、答えるまでに、間を置いた。
「駄目だ、という意味だと思いました」
「はい」
「ですが、破いてはいらっしゃいませんでした」彼女は言った。「暖炉にも、入れておられません。その紙は、棚へ行きました。わたしが、運びました」
エレノアは、息を止めた。
「線を引いて、残しておられました」ニナは言った。「駄目なら、破くはずです。破かなかったということは、駄目ではなかったということです。駄目ではないのに、答えていただけないということは――」
娘は、そこで、区切った。
「――訊いてはならない、ということだと思いました」
豆の葉が、また一枚、裏返った。
エレノアは、その音を、聞いていた。
棚へ回したのは、写しだからだ。写しは棚へ行く。それだけだ。彼女は線を引いて、紙を裏返して、次の仕事に移った。破く理由がなかったから破かなかった。ただ、それだけのことだった。
その、それだけのことを、この娘は三年、抱えて歩いた。
一昨日、彼女は白い紙の前で、こう思った。書けば規則になる。規則には条件が付く。条件が外れた日に外される。だから書けない。それを、六年、誰も指摘しなかった、と思った。指摘できるほど近くにいた人間が、三人しかいなかったからだ、と。
三人ではなかった。
四人目がいた。三年目の春に、余白に書いて、指摘していた。エレノアは定規を当てて、その真ん中に線を引き、答えないまま棚へ回した。
――誰も指摘しなかったのではない。
彼女は、一人だけいた者を、消していた。
「ニナ」
「はい」
「あなたは、あれを、止めようとしましたか」
「三年、しております」
「どうやってですか」
「歩いております」
娘は、道の先を見た。まだ三十軒以上ある。石を積んだ塀の間に、板葺きの屋根が散っている。
「峠の掲示には、例外の欄がありません。線が引いてあります。線が引いてあれば、御者は帰れません」ニナは言った。「ですので、御者に代わって、わたしが参ります。次がいつかを、お伝えすれば、家の者は待てます。待てれば、火を消せます」
「書けば、済みます」
「書く場所が、ございません」
「作れば、済みます」
「――はい」
ニナは、少しだけ、うつむいた。
「作り方が、分かりませんでした」
エレノアは、答えなかった。
「ニナ。書いて、やめさせるという手があります」彼女は言った。「あの様式を作った者が、違うと書けば、九つの街道は止まります」
「はい」
「なぜ、なさいませんでしたか」
ニナは、顔を上げた。
「わたしのものでは、ないからです」
風が、峠のほうから下りてきた。
「――何がですか」
「あの帳面です」娘は言った。「表紙に、書きました」
エレノアは、峠の上を見た。道は、木の間を折れながら、上へ続いている。
「なんと、お書きになりましたか」
「ヴァルディエ侯爵領 様式、と」
ニナは、当たり前のことのように、そう言った。
「わたしが考えたものでは、ありませんので」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
六年で一度だけ、写しの余白に字が書かれていました。
エレノアはそれを覚えています。異例だからです。
ですが、誰が書いたのかは、見ませんでした。
見なくても、線は引けます。
一昨日、彼女はこう思いました。「それを、六年、誰も指摘しなかった。指摘できるほど近くにいた人間が、三人しかいなかったからだ」と。
三人ではありませんでした。
一人だけいた者を、彼女は消していました。
次話「止めます」では、それを止めに行きます。
――帳面の表紙には、彼女の家の名前が書いてあります。
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