第52話 羨ましかっただけです
峠の上から、道は下りだった。
馬車は使えない。一列の道が、向こう側では細くなって、岩の間を折れながら落ちていく。エレノアは歩いた。ロイドが先を歩き、荷改めの角灯は、もう要らなかった。日はとうに上がっている。
四半刻ほど下ったところで、木が切れた。
谷が、下にあった。
畑がある。石を積んだ低い塀で仕切られていて、その間に家が散っている。数えるまでもなかった。四十戸だ。屋根はどれも板葺きで、板の上に石が載せてある。風の強い土地の屋根の作り方だ。煙は、二つしか上がっていない。
夏だからだ、とエレノアは思った。
夏だから、火を焚く家が少ない。二月なら、四十戸のうち四十戸から煙が上がる。上がらない家があれば、それは薪が尽きた家だ。この谷では、それがひと目で分かる。誰かが上から見ていれば、だが。
彼女は下りた。
村の道は、荷車が一台通る幅しかなかった。両側の塀は腰の高さで、畑の土は乾いている。人がいない。畑にも、道にも。この時刻に人がいないのは、皆どこかで働いているからだ。
声が、聞こえた。
道の先の、三軒目あたりの戸口だ。
「――木材は、十一日後です」
エレノアは、足を止めた。
「二番目の枠です。十四台。三台目まで入ります」
若い娘の声だった。高くはない。速くもない。区切って、数字のところで一度置いて、それから次へ行く。読み上げているのではない。相手が聞き取れる速さに落として言っている。
「峠の下に、置いてあります。帆布はかけました。石も載せました」
「そうかい」
戸口の中から、年寄りの声がした。
「十一日だな」
「十一日です」
娘は、そう答えた。
エレノアは、動けなかった。
昨日の昼、彼女は峠の掲示板の前に立って、筆を借りて、線の下の余白に書いた。木材、十一日後。二番目の枠。十四台。あなたは三台目です。日に焼けた男が、十一日だな、と二度訊いて、鍋の火を消して帰った。
いま、その言葉が、この谷の戸口で鳴っている。
娘が、戸口から離れた。
次の家へ歩いていく。小柄だ。髪を後ろできつく結わえている。荷は持っていない。紙も持っていない。手ぶらで、次の戸を叩いた。
「木材は、十一日後です」
同じ言葉だった。数字も、順番も、区切る場所も、寸分違わない。
エレノアは、その姿を、道の端から見ていた。
四十戸ある。
――これを、四十回。
彼女は、掲示板に書いた。書けば、後回しにされた者は帰る。次があると書いてあるから、今日を降りられる。そう設計した。設計して、それで済んだつもりでいた。
だが、この谷には、掲示板がない。
峠の掲示は峠にある。峠まで来られる者は御者だけだ。四十戸の家にいる者は、自分の家の薪がいつ来るのかを、峠まで登らなければ知れない。知れないまま、待つ。待つ場所は、家しかない。
だから、この娘は歩いている。
三年、毎月、峠を越えて、四十の戸を叩いて、同じ文言を四十回言っている。書けば一枚で済むものを、書ける場所がないから、足でやっている。
例外の扱いを、この人間は、人力でやっていた。
娘は、七軒目の戸を叩いた。返事がなかった。彼女は少し待って、それから、戸の脇の柱に手を伸ばした。指で、そこに何かを触れた。触れて、頷いて、次へ行った。
エレノアは、その柱を見た。
木に、細い刻みが並んでいた。
留守の家に、いつ来たかを刻んである。書く紙がないから、柱に刻んである。刻んであれば、帰ってきた者が数えられる。
娘が、道の先で、振り返った。
目が合った。
彼女は、驚かなかった。逃げもしなかった。ただ、そこに立って、こちらを見ていた。それから、道の端に寄って、両手を前で組んだ。
道を空けたのだ、とエレノアは気づいた。
この娘は、通してくれるつもりでいる。
エレノアは、歩いた。近づいて、正面に立った。
顔を見た。
若い。二十くらいだ。日に焼けている。目も、鼻も、口も、これといって言うことがない。街で百人とすれ違えば、百人ぶんの中に紛れる顔だ。特徴がない。覚えるところがない。
覚えるところがなければ、覚えなくていいのか。
エレノアは、視線を下ろした。
手が、前で組まれている。
右手の指の先が、墨で汚れていた。爪の際まで入っている。一日や二日ではない。左の親指の腹に、硬い胼胝が一つあった。丸くて、平たい。筆の軸を押さえる場所だ。それから、右の中指の第一関節にも一つ。こちらのほうが大きい。
六年、字を書いた手だ。
――読める。
封蝋の縁で、書いた者の性格が読める。旗竿の根元の土で、昨日が読める。この手も、同じだ。何年、何を、どのくらいの速さで書いてきたかが、そこに全部ある。読むのに、三秒もかからない。
三年、この手は、彼女の机の上に紙を置いた。置いて、一礼して、下がった。
三秒だ。
三年で、一度も。
「お嬢様」
娘が、そう言った。
エレノアの息が、一度、止まった。
この国で、誰も彼女をそうは呼ばない。カティアはあなたと呼び、ロイドはエレノア様と呼び、御者は奥様と呼んだ。お嬢様と呼ぶ声は、峠の向こうの、十一日の道の先にしかない。
「……はい」
答えてから、彼女は、自分が答えたことに気づいた。
「ニナと申します」娘は言った。「六年前から三年前まで、お屋敷におりました」
「――存じております」
「いいえ」
ニナは、そう言った。
否定ではなかった。訂正でもなかった。ただ、事実を置いた。エレノアが六年、そうしてきたのと同じやり方で。
「昨日、お名前を伺いました」エレノアは言った。「一昨日までは、存じませんでした」
「はい」
「三年、私の執務室におりましたね」
「はい」
「あなたのお顔を、私は覚えておりません」
「はい」
ニナは、それを、当たり前のことのように受けた。怒りも、恨みも、そこになかった。四十戸の家の煙の数と同じで、ただ、そうなっている、というだけの顔だった。
その顔が、いちばん、堪えた。
「あの帳面を、あなたが書きましたか」
「はい」
「三年前、ロイド様の役所へ送ったのは」
「わたしです」
「なぜですか」
ニナは、少し、考えた。
考えるところを、隠さなかった。エレノアの周りにいる人間は皆、考え終わってから口を開く。この娘は、考えているところを、そのまま見せた。
「二月に、ここで、八人が亡くなりました」彼女は言った。「わたしは、峠の下で止まっておりました。三日、動きませんでした。動いたときには、終わっておりました」
「それで」
「お屋敷では、そういうことは、起きませんでした」ニナは言った。「起きないように、なっておりました。……なぜ起きないのかを、わたしは、全部、写しておりましたので」
風が、畑の土を、少しだけ動かした。
「持っていても、しかたがありませんでした」
「なぜ、私に送らなかったのですか」
「お嬢様は、数えません」
エレノアは、答えなかった。
「お嬢様は、決められます」ニナは言った。「決める方に送っても、届かなかったところの数は、要りません。数える人に送れば、数えていただけると思いました」
彼女は、そこで、初めて目を伏せた。
「間違っておりました」
「――何がですか」
「送れば、届くと思っておりました」ニナは言った。「様式だけが届きました。あとから、増えました。あの、数のほうが」
エレノアは、その言葉を、聞いていた。
百三十四。ロイドは間を置かずに答えた。三年、その数を持っていた男の答え方だった。数えていたのは、この娘だ。ロイドは足しただけだ。
「ニナ」
「はい」
「あなたは、私の真似をしましたか」
「はい」
「悪いことをしたと、思っておりますか」
「思っております」
「では、なぜ、なさいましたか」
ニナは、顔を上げた。
「羨ましかっただけです」
エレノアの、指が、止まった。
六年前、灯りの多い部屋で、彼女は同じことを言った。あなたのお言葉はいつも正しいのですね、と言って、皮肉のつもりか、と訊かれて、いいえ、と答えた。羨ましいだけです、と。あのとき、誰一人、それを本気だとは思わなかった。婚約者も、その場にいた三十人も、皆、当てこすりだと聞いた。
六年、彼女はその一言を、誰にも訂正していない。
いま、同じ言葉が、正面から返ってきた。
「わたしは、決められません」ニナは言った。「四回書いて、四回とも、自分で消しました。昨日、もう一度書いて、それも消しました」
「――五枚目は、理由ではありませんでした」
「はい」
娘は、両手を、前で組み直した。
「お嬢様。一つ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
ニナは、まっすぐに、こちらを見た。
「この一割は、何のためですか」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
例外の欄がある。書いてあれば、後回しにされた人は帰れる。
エレノアはそう設計しました。
ですが、この谷には掲示板がありません。
だから彼女は、三年、毎月、峠を越えて、四十の戸を叩いて、同じ文言を四十回言っていました。
書けば一枚で済むものを、書く場所がないから、足でやっていました。
そして、六年前にエレノアが一度だけ口にして、誰にも本気だと思われなかった言葉が、
いま、正面から返ってきました。
次話「余白に、線」では、その問いに答えようとします。
――彼女は、その問いを、前にも一度、受け取っています。
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