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第51話 消し方

 夜明けの峠は、灰色をしていた。


 空が先に明るくなって、道はまだ暗い。木の間から光が下りてくるまでに、まだ少しかかる。待避所では、二十六台の荷車がもう馬を繋ぎ終えていて、御者たちが手綱を持ったまま、掲示板のほうを見ていた。今日は誰も、列に並び直していない。


 掲示板の紙は、昨日のままだった。


 エレノアは、その前に立っていた。


 左に日付。右に区分。下の欄に線が一本、そしてその下に、彼女の字がある。木材、十一日後。二番目の枠。十四台。昨日の昼、彼女がこの紙に足したものが、そのまま、夜を越して残っていた。


「ロイド様」


「はい」


 ロイドは、少し離れたところに立っていた。この男が一晩どこで寝たのかを、エレノアは訊いていない。上着の裾の土は、昨日と同じ場所についている。


「掲示は、毎朝、書き換えますか」


「はい」


「どなたが」


「書記です」


「何時に参りますか」


「夜明けです」


 エレノアは、空を見た。


 もう、夜明けだった。


 峠の役所は、道の脇の小屋だった。


 石を積んだ土台に板を渡しただけの、荷改めの詰所と変わらない造りだ。中は狭い。壁際に棚があって、束にした紙が積んである。窓は一つ。その下に、机が一つ置いてあった。


 男が一人、竈の前にいた。三十くらいの、背の低い男だ。


「ヨナス」ロイドが言った。


 男は振り返って、すぐに背筋を伸ばした。


 エレノアは、その一瞬を見ていた。呼ばれた男が振り返るまでの、短さだ。ヨナス、と呼ばれて、ヨナスが返事をする。この国の役所では、それが当たり前に起きている。


「書記は」ロイドが訊いた。


「来ておりません」


「いつからですか」


「昨日からです」ヨナスは言った。「昨日は、朝には掲示を書いておりました。それきりです」


 エレノアは、窓の下の机を見た。


「こちらの机ですか」


「はい」


「拝見しても」


 ヨナスはロイドを見た。ロイドは、頷きも、首を振りもしなかった。ただ、机のほうへ一歩、場所を空けた。


 エレノアは、机の前に立った。


 紙が、そのまま置いてある。片付けられていない。だが、散らかってもいない。上から順に、日付の新しいものが置いてある。誰かが読みに来ることを、この机は待っていた。


「ロイド様。この者を雇われたのは、どなたですか」


「私です」


「いつですか」


「三年前の三月です」


 三年前の二月に、帳面が届いた。その翌月だった。


「どちらから参りましたか」


「存じません」


「紹介状は」


「ありません」


「では、なぜお雇いになりましたか」


 ロイドは、少しの間も置かなかった。


「字が、正確でしたので」


 エレノアは、机の上の紙に手を伸ばした。


 いちばん上の一枚を取る。日付が入っている。昨日だ。左の上の隅に、小さく。書式のとおりの場所に。


 紙の真ん中に、一行だけ書いてあった。


 ――理由。長雨、橋の普請、代官の病、荷主の喧嘩。いずれも一日ずれる。


 その上に、線が引いてあった。


 エレノアの手が、止まった。


 彼女は次の一枚を取った。同じ日付だ。


 ――理由。遅れの連鎖を吸うため。


 線。


 三枚目。


 ――理由。次に何が来るか、分からないため。


 線。


 四枚目には、二文字しか書いていなかった。理由、とだけ。そのあとに何もない。それにも、線が引いてある。書いていないものに、線が引いてある。


 エレノアは、その四枚を、机の上に並べた。


 昨日の日付だ。彼女がこの峠の掲示板に日付を書き足した日の、夜のうちに、この机で、四回。一度目は言葉が多く、二度目は正しく、三度目で本当のことに手が届いて、四度目には何も出なかった。


「ロイド様」


「はい」


「一昨日、私は平屋で、白い紙を三時間、見ておりました」


「伺っております」


「何を書こうとしていたか、ご存じですか」


「いいえ」


「一割の理由です」エレノアは言った。「一度目に、長雨に備えるためと書きました。嘘ですので、消しました。二度目に、遅れの連鎖を吸うためと書きました」


「それは、正しいはずです」


「正しいので、消しました」


 ロイドが、こちらを見た。


「あなたはそれをご存じでした。ご存じのうえで、潰されました」彼女は言った。「正しいだけの理由は、渡せません。渡しても、紙の上で何も動きません」


「三度目は」


「書き出しで、止まりました」


 ロイドは、机の上の四枚を、順に見た。一枚目から、四枚目まで。彼は数えなかった。数えるものが、そこになかったからだ。


「……同じ順です」


「はい」


 三年、誰にも訊かずにいた手が、彼女と同じ壁に、同じ順で、突き当たっていた。


「エレノア様」


 ロイドが、机の反対側に立っていた。


「五枚あります」


 エレノアは、四枚目の下を見た。


 もう一枚あった。


 彼女はそれを取った。同じ日付。同じ手。書いてあるのは、理由ではなかった。


 ――この一割は、何のためですか。


 線が、引いてあった。


 定規を当てて、まっすぐに。字の真ん中を、一本。上からでも下からでもなく、真ん中を通してある。線の下の字は、全部、読める。


 エレノアは、その線を、しばらく見ていた。


「ロイド様」


「はい」


「この線の引き方を、どう思われますか」


 ロイドは、その紙を覗き込んだ。


「消えておりません」


「はい」


「消すつもりがない、ということでしょうか」


「消すつもりはあります」エレノアは言った。「読めるようにしてあるだけです」


 彼女は紙を置いた。指を離すのに、少し時間がかかった。


 書き損じは、破いて暖炉に入れる。駄目な設計も、暖炉だ。だが、考えて、考えて、それでも違うと分かったものには、線を引く。破かない。あとで、なぜそれが違うのかを、もう一度読めるようにしておく。そうしないと、同じことを二度書く。


 六年、彼女はそうしてきた。誰に教わったのでもない。父も、兄も、そんな消し方はしなかった。


 この机の上の五枚は、全部、その消し方で消してある。


 ――写された。


 紙でも、様式でもない。彼女が机の上で、誰にも見せずに、一人でやっていた手つきだ。定規を当てて、字の真ん中に一本。それを、この人間は覚えた。覚えて、昨日の夜、自分の書いた問いに、そのとおりに引いた。


 自分で訊いて、自分で消したのだ。


「ヨナス様」


 男は、竈の前で固まっていた。奥様、と呼ぼうとして、ロイドの顔を見て、やめた顔をしていた。


「その者は、どのような方ですか」


「どのような、と申されますと」


「お見かけを」


「若い娘です」ヨナスは言った。「小柄で、髪は後ろで結わえて。二十くらいでしょうか。よく喋るほうではありませんが、朝は必ず挨拶をします。指が、いつも墨で汚れております」


 彼は、それを、考えずに言った。


「お名前で、お呼びになりますか」


「そりゃ、呼びます」男は妙な顔をした。「三年、隣におりますので」


 エレノアは、その返事を聞いた。


 三年、隣にいれば、名前で呼ぶ。この男は今、それを、当たり前のことのように言った。当たり前のことだからだ。


「昨日の昼、掲示板の前に、人が並んでおりました」


「……はい」


「十人ほどが、順に前へ出て、紙を見て、下がりました」エレノアは言った。「四人目は、下がりませんでした」


 ヨナスは、答えなかった。


 エレノアは、答えを待っていなかった。


 彼女は昨日、その列の脇に立っていた。最初の男が二度読んで、待避所へ戻った。二人目が下がった。三人目が下がった。四人目は、まだ読んでいた。読んでいるのを、エレノアは見ていた。見て、そのまま、次のことを考えていた。


 紙を、読んでいたのではない。誰が書いたのかを、読んでいた。


「――ロイド様。早馬を、お借りできますか」


「はい」


「私の領地までです。四日で参ります」


「行きます」


 エレノアは、机の紙を一枚、裏返した。裏は白い。彼女はヨナスから筆を借りて、その裏に書いた。


 ニナという名の者が、六年前から三年前まで、屋敷におりました。名簿を、お調べください。役職と、いつ入って、いつ出たか。それから、その者を採ったのが誰かを。


 書いてから、彼女は一行、足した。


 ――顔を、覚えている者がおりましたら。


 折って、渡した。宛名は書かなかった。この紙は、サラのところへ行く。サラのところへ行けば、それで足りる。


「ヨナス様。もう一つ、伺います」


「はい」


「その者は、どちらへ行きましたか」


 男は、窓の外を見た。


 峠の上のほうだ。道は、もう明るくなっている。


「北の谷です」


 エレノアは、動かなかった。


「毎月、参ります」ヨナスは言った。「掲示を書いたあとに。三年、ずっとです」


 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


 机の上に、昨日の日付の紙が五枚ありました。

 一度目は言葉が多く、二度目は正しく、三度目で本当のことに手が届いて、四度目には何も出ませんでした。


 エレノアが一昨日、白い紙の前で三時間かけて辿った順と、同じでした。

 三年、誰にも訊かずにいた手が、同じ壁に、同じ順で突き当たっていました。


 そして五枚目には、理由ではなく、問いが書いてありました。

 その問いにも、線が引いてあります。定規を当てて、まっすぐに。


 次話「羨ましかっただけです」で、エレノアは峠を越えます。


 ――向こうには、四十戸の村があります。


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