第50話 北の谷
「存じません」
ロイドは、そう答えた。
峠の日は、とうに落ちていた。角灯の油は減っていて、灯りの丸は、開いたときより少しだけ小さい。その丸の中に、麻布の帳面が開いたままある。丸の外は、もう夜だった。
下の待避所には、焚き火が二つ残っている。夕方までに二十一台が下りて、残ったのは明日の朝に通る二十六台だ。人が減ると、火も減る。帰れる者が帰ったあとの峠は、二日ぶん静かだった。木の葉が鳴る音だけが、下のほうから上がってくる。
「三年前に届いて、それきりです」彼は言った。「差出人を、探しはしませんでした」
「なぜですか」
「中身が、正しかったからです」
エレノアは、顔を上げなかった。
この男は、訊かれたことに、訊かれた分だけ答える。昨日からずっとそうだ。だから、いま彼が言ったことは全部本当で、彼が言っていないことは、まだ全部そこにある。訊いていないからだ。
――訊き方が悪い。
「ロイド様。訊き方を変えます」
「はい」
「この帳面は、届いてから、どちらにありますか」
「峠の役所です」
「三年、ずっとですか」
「はい」
「毎日、開かれていますね」
「はい」ロイドは言った。「背が丸くなっております」
エレノアは、最後の頁へ戻した。
罫線もない、ただの覚書だ。短い行が、日付の順に並んでいる。彼女はいちばん上の行に指を置いて、そのまま下へ滑らせた。北の谷。東街道の南。同。西の三番。指は頁の下まで行って、そこで終わらなかった。行は、次の頁にも続いている。
彼女はめくった。めくって、いちばん下の行で、指を止めた。
――西の三番。四月。塩、届かず。二。
四月だった。
「ロイド様」
「はい」
「この帳面が届いたのは、三年前の二月ですね」
「はい」
「この行は、四月です」エレノアは言った。「今年の、四月です」
角灯が、動かなくなった。
「届いたあとに、書き足されています」
ロイドは、答えなかった。
彼は角灯を持ち直して、その頁に近づけた。近づけて、上から下まで、一度、目を通した。それから、もう一度、上から見た。この男が同じ紙を二度読むのを、エレノアは初めて見た。
「……はい」
「ご存じでしたか」
「頁が増えることは、存じておりました」
「どなたが書いているかは」
「訊きませんでした」ロイドは言った。「数が、正しかったからです」
風が、帳面の端を持ち上げた。エレノアは、掌でそれを押さえた。
「役所の方ですか」
「いいえ」
「なぜ、そう仰れますか」
「二十二人の字を、存じております」彼は言った。「この手は、おりません」
エレノアは、頁を前へ戻した。
二頁目。順位の付け替えの表。癖のある、少し急いだ、右へ流れる字。線を引くところにだけ、定規が当ててある。丁寧のやり方を知らない人間の、丁寧さだ。
「では、この帳面に触れられるのは、どなたですか」
「書記です」ロイドは言った。「掲示を書いている者です」
「役所の方ですか」
「いいえ。街道の書記は、土地の者を雇います」彼は言った。「九つの街道に、九人。役所の人間ではありません」
エレノアは、帳面から目を上げた。
掲示板は、そこにある。角灯の光は届かない。輪郭が、峠の空より少しだけ濃いだけだ。だが彼女は、今日の昼、その紙の前に立っていた。線が一本引いてあって、その下に四寸ばかりの余白が残してあった。線を引いたのはこの手だ。余白を残したのも、この手だった。
「ロイド様。この掲示を書いた手と、この帳面の手は」
ロイドは、角灯を持って、掲示板の前まで歩いた。
彼は紙に灯りを寄せた。それから戻ってきて、帳面に寄せた。もう一度、掲示板へ行った。二度で足りるはずだった。彼は三度目に行って、戻ってきた。
「同じです」
彼は、角灯を、帳面の上に戻した。
「ロイド様。先ほど、私は六年と申しました」
「はい」
「取り消します」
ロイドは、何も言わなかった。取り消しますと言われて、はい、とも言わなかった。ただ、灯りを動かさずにいた。
「この帳面が届いたのは、三年前です。写されているのは、それより前のものだけです」エレノアは言った。「私が破いた紙は、三年目の春のものです。この人間が私の執務室にいたのは、六年ではありません」
「――三年」
「三年です」
彼女は、後ろの頁をめくった。
字が変わるところがある。同じ手だが、書き方が違う。写しでなくなるところだ。そこから先に、四回、線を引いて消した行がある。五つ目が、書きかけで止まっている。
三年、写した。それから三年、ひとりで書いた。
昨日、彼女は街道の掲示の前で、誰かに教えたことはないと思った。教える相手がいなかった、と。教わる相手がいなかった人間が、この頁の中にいた。四回、自分で駄目だと決めて、自分で線を引いて、それでも五つ目を書きはじめている。三年、誰にも訊かずに。
エレノアは、最後の頁へ戻した。
覚書の行を、上から数えた。四十一行あった。彼女はもう一度、上へ戻り、行の終わりの数字を順に足していった。八。四。一。二。三。二。六。数えるのに、時間はかからない。六年、彼女は数字の並んだ紙を、こうして読んできた。
――百三十四。
「ロイド様」
「はい」
「この頁の数字を、足されたことは」
「あります」
「いくつですか」
「百三十四です」ロイドは言った。「四月に、二つ増えました」
彼は、間を置かなかった。訊かれてから足した男の答え方ではない。三年、その数を持っていた男の答え方だった。
エレノアは、指を、その頁から離さなかった。
「ロイド様。もう一つ、伺います」
「はい」
「北の谷とは、どちらですか」
ロイドは、峠の上のほうを見た。道は暗い。輪郭も見えない。
「この向こうです」彼は言った。「四十戸ばかりの村です」
風が、峠の下から吹き上がってきた。
エレノアは、動かなかった。
今日の昼、彼女はこの掲示板の前に立って、筆を持った。木材、十一日後。二番目の枠。十四台。あなたは三台目です。日に焼けた男が鍋の火を消して、土を蹴って灰をかけて、ありがとうよ、と言って帰った。彼の薪は、峠の向こうの、四十戸の村の、ひと月ぶんだった。
三年前の二月、その村に、薪は届かなかった。
――八。
角灯の光は、まだその一行の上にあった。
「ロイド様。昨日、なぜ仰らなかったのですか」
「何をでしょうか」
「北の谷が、この向こうだと」
「訊かれませんでしたので」
それだけだった。
この男は、嘘をつかない。含みも置かない。彼女が訊かなかったから、彼は言わなかった。それだけのことで、彼女は今日の昼、そこに日付を書いた。
「エレノア様」
「はい」
「訊いておられたら、変わりましたか」
エレノアは、その頁を見ていた。
穀物は三日で倍になる。木材は、ならない。二月でなければ、薪は待てる。今は夏だ。計算は、合っている。訊いていても、同じ数字を書いた。書いてから、少しだけ長く、筆を止めただけだ。
「いいえ」
「――はい」
ロイドは、それ以上を訊かなかった。
「ロイド様」
「はい」
エレノアは、帳面を閉じた。開いてから、初めて閉じた。
「この街道の書記の、お名前を」
ロイドは、懐に手を入れた。筆と、小さな墨壺と、もう一つ。手ぶらで歩く男が、それだけを持っている。薄い、綴じの粗い台帳だった。
彼は灯りに寄せて、一行を読んだ。
「ニナ、と」
エレノアは、その名を、頭の中に置いた。
置いて、探した。六年ぶんを、端から端まで。屋敷の廊下。執務室の戸。机の端に置かれる紙。替えられる灯り。一礼して下がっていく背中。三年、毎日そこにいた者の名が、どこにもないはずがなかった。
どこにも、なかった。
「……存じません」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
「――誰が、書きましたか」の答えは、この話で出ました。
二文字です。ロイドは一秒で読み上げました。
ですが、エレノアはその名を知りません。
三年、毎日、同じ部屋にいた人の名前です。
次話「消し方」では、その書記の机を見に行きます。
――机の上には、昨日の日付の紙が、五枚あります。
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