第49話 私の字ではない
麻布の表紙は、手に取ると、思ったより重かった。
峠の日は落ちかけていて、掲示板の脇にはもう影が伸びている。ロイドが、燭台ではなく、荷改めの角灯を持ってきた。灯りが紙の上に丸く落ちる。その丸の中だけが、まだ昼だった。
エレノアは、表紙を開いた。
最初の頁は、区分だった。
穀物、木材、鉄。三つの区分と、それぞれの通行の枠。時間帯の切り方。列の取り方。
彼女の設計だった。
字は、若い手だ。掲示のものと同じ。癖のある、少し急いだ、右へ流れる字。線を引くときだけ、定規を当てている。丁寧のやり方を知らない人間の、丁寧さだった。
二頁目。順位の付け替えの表。
エレノアの指が、そこで止まった。
これは、掲示に出るものではない。
掲示に出るのは結果だけだ。その結果を出すために、彼女は机の上で表を組む。組んだら結果だけを書き写して、表のほうは引き出しへ戻す。
六年、その表を見た人間は、三人しかいない。
三頁目。区分の切り方の、覚書。四頁目。川の水位と、荷の重さの対応。
エレノアは、同じ速さで、一枚ずつ、めくっていった。
十七頁目で、彼女の手が止まった。
そこにあったのは、古い書式だった。
彼女が三年目にやめたものだ。荷の区分を五つに割る書き方。穀物、粉、木材、鉄、その他。
「ロイド様」
「はい」
「この頁を、ご覧になったことは」
「あります」ロイドは言った。「区分を五つに割る書式です。使っておりません」
「なぜですか」
「その他の欄が膨らみます」彼は言った。「膨らんだ欄は、誰も読みません」
「――そのとおりです」
エレノアは、その頁に、指を置いた。
「これは、私が破いたものです」
角灯が、動かなくなった。
「破いた」
「三年目の春に。二月ほど使って、駄目だと分かりました」彼女は言った。「破いて、暖炉に入れました」
ロイドは、答えなかった。
「掲示に出したことはありません。文官長にも渡していません。写しも取っていません」エレノアは言った。「組んで、使って、破きました。それだけです」
「では、なぜ、ここにありますか」
「伺いたいのは、こちらです」
次の頁には、三つに割った書式。その次には、五つを三つにするときに、どの欄をどこへ寄せたかの手順が、順番どおりに並んでいた。彼女が執務室の机の上で、一人でやったことだ。
エレノアは、角灯の丸い光の中を、見ていた。
――外から写したのではない。
完成したものを見て真似したのではなかった。この帳面は、彼女が作っていく途中を、順番どおりに写している。やめたものも、直したものも、暖炉に入れた頁まで。
この人間は、外にいなかった。中にいた。六年、彼女の机の、見えるところに。
「ロイド様」
「はい」
「これを書いた人間は、私の執務室にいました」
角灯が、止まった。
「六年です」エレノアは言った。「私が破いた紙が載っています。破いた日に、そこにいなければ、載りません」
「……お心当たりは」
「ありません」
「ご領地の、どなたかでは」
「そう申し上げています」
ロイドは、答えなかった。
「エレノア様」
ロイドの声がした。角灯が、少し傾いた。
「はい」
「手が」
帳面の縁を掴んでいる。指の先が白い。彼女は指をほどき、膝の上で組み直して、また頁に戻した。
「失礼しました」
「いいえ」
ロイドは、角灯の位置を戻した。何も訊かなかった。
「ロイド様。一つ、伺います」
「はい」
「あなたの役所には、何人いらっしゃいますか」
「二十二人です」
「そのうち、お名前を仰れるのは」
「二十二人です」ロイドは言った。「数える人間の名前は、数えます」
エレノアは、頁をめくった。
――誰かに教えたことはない。
昨日、街道の掲示の前で、彼女はそう思った。教える相手がいなかった、と。決めるのは自分で、動かすのはテオドルで、読むのはサラだった。三人で足りていた。
だが、執務室には、いつも人がいた。紙を運ぶ者。灯りを替える者。写しを取る者。届いたものを机の端へ置いて、一礼して下がる者。エレノアは、その顔を一つも覚えていない。覚える必要がなかったからだ。彼らは机の上のものを触らない。触らないから、見ていないのだと思っていた。
見ていた。
六年、いちばん近くで、彼女が何を書いて、何を破いて、何を暖炉に入れるかを、ずっと。
後ろのほうの頁は、字が変わっていた。
同じ手だ。だが、書き方が違う。前のほうは写しだった。ここからは、写しではない。この人間が、自分で考えて書いている。
そして、何度も消してある。書いて、線を引いて、次の行にまた書いて、また線を引いて。頁の端まで行って、次の頁でもう一度。
エレノアは、その消された行を読んだ。
最初は「通行の枠、九割五分」だった。上から線が引いてある。次の行は「通行の枠、九割。ただし雨季を除く」で、これにも線。その次が「通行の枠、九割。ただし、遅れが三日を超えた月の翌月」。同じように、線。三つとも、書いた本人が引いていた。定規を当てて、まっすぐに。
四つ目の行は、こうだった。
――枠の一割を、次の遅れのために空ける。理由――
そこで、行が終わっていた。
線は引かれていない。書きかけのまま、終わっている。次の頁は、別の話になっていた。
エレノアは、その一行を、しばらく見ていた。
「ロイド様。ここを、ご覧ください」
角灯が、近づいた。
「書きかけです」
「はい」
「消してありません」エレノアは言った。「前の四行は、全部、線が引いてあります。この行だけ、引いていません」
ロイドは、その頁を見た。
「――途中で、やめただけでは」
「いいえ」
彼女は、次の頁をめくって、また戻した。
「やめた人間は、消します」エレノアは言った。「この人は、四回消しています。四回とも、自分で駄目だと分かって、自分で線を引いています。書くより先に、消し方を覚えた手です」
「ですが、この行は消していない」
「はい」
「――駄目だと、分からなかったからですか」
「違います」
エレノアは、角灯の光の中の、その一行を見ていた。
理由、と書いて、止まっている。線はない。
「まだ、書き終わっていないからです」
風が、頁の端を、少しだけ持ち上げた。
四回の線は、全部、この人間が自分で引いたものだ。条件を付ければ、条件が外れた日に外される――昨日エレノアが白い紙の前で三時間かけて辿り着いたその場所に、この手は三年前から立っていた。立って、そこから動いていない。
エレノアは、そこで初めて、息を、深く吸った。
この人間は、まだ、諦めていない。
最後の頁は、書式ではなかった。
罫線もない。ただの覚書だ。短い行が、日付順に並んでいる。
――北の谷。二月。薪、届かず。八。
――東街道の南。二月。粉、届かず。四。
――同。三月。粉、届かず。一。
――西の三番。四月。塩、届かず。二。
数字が、何なのかは書いていない。
エレノアは、その行を、上から下まで読んだ。
読みながら、彼女は分かっていた。分かっていたが、確かめるまでは分かっていないことにしておきたかった。そういう手続きを、彼女は六年、一度も自分に許したことがない。
「ロイド様」
「はい」
「この数字は、何ですか」
ロイドは、角灯を、少しだけ近づけた。
彼は一度だけ、その頁に目を落とした。一度で足りた。
「……人です」
風が、峠の下から吹き上がってきた。
「どうして、そう読めますか」
「単位がないからです」ロイドは言った。「袋なら、袋と書きます。台なら、台と。書かずに済ませるのは、書かなくても分かるものだけです」
「書きたくなかった、とは考えませんか」
「同じことです」
彼は、角灯を持ち直した。
「私も、書きません」ロイドは言った。「八つ、と申し上げました。家の数です」
エレノアは、頁の上のほうへ、指を戻した。
――北の谷。二月。薪、届かず。八。
薪だった。
彼女は、今日の昼、この掲示板に日付を書いた。木材、十一日後、と。峠の向こうの、四十戸の村の、ひと月ぶんの薪を、いちばん後ろに置いた。
穀物は三日で倍になる。木材は、ならない。
その計算は、合っている。
合っている、とエレノアは思った。今日は、合っている。
彼女は、帳面を閉じなかった。
開いたまま、最後の頁の日付を、もう一度上から数えた。三年前の二月から始まっている。この帳面がロイドの役所に届いた年だ。数えていくと、途中で場所が変わる。北の谷。東街道。西の三番。そこまでは、この国の地名だった。
途中から、知らない地名になった。
――樫の坂。二番目の橋の先。灰色の川の対岸。
「ロイド様。この三つは、どちらですか」
彼は覗き込み、そして、初めて、答えるまでに間を置いた。
「……この国では、ありません」
エレノアの領地でもなかった。
他領だ。
サラの手紙が、頭の中で開いた。他領から三件。様式をください、と。一件は、もう使っている。断る先がもうない――のではない。断る先は、最初から、彼女の執務室の中にいた。
――奪われる。
彼女が自分で並べた三つのうちの、二つ目だ。
こういうことだったのだ、とエレノアは思った。取られたのは紙でも様式でもない。彼女が机の上で六年かけて考えた道筋が、そっくり、知らない場所へ行き、知らない手で回され、そこで届かなかったものの数を、誰かが数えている。
彼女は、それを、今日まで一度も数えていなかった。
――一緒にやらないか。
あの封の一行が、頭の隅から戻ってきた。条件次第です、と彼女は答えた。それきり、条件を書いていない。
書かないうちに、様式のほうが先に歩いていた。知らない場所で、知らない手に回されて。
角灯の油が、少し減っていた。
峠の下に、二十一台の荷車は、もう見えない。十一日後に、また来る。
エレノアは、帳面の、若い手の字を見ていた。
線を引くところだけ、定規を当てている。誰にも教わっていないのだ。この人間も。
「ロイド様」
「はい」
エレノアは、顔を上げなかった。
「三年前、これが届いたとき、包みは」
「麻の袋です」ロイドは言った。「差出人はありません。宛名だけです」
「宛名は、あなたのお名前でしたか」
「いいえ」彼は言った。「“数える人へ”と」
エレノアは、目を閉じた。
閉じて、それから、開いた。
帳面の上に、角灯の光が、丸く落ちている。若い手の字が、その中にある。彼女の設計だ。彼女の六年だ。彼女の、破いて暖炉に入れたはずの十七頁目だ。
全部、そこにある。
彼女の字では、なかった。
「――誰が、書きましたか」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
十七頁目にあったのは、彼女が三年目に破いて、暖炉に入れた書式でした。
破いた日にその場にいなければ、載りません。
この人間は、外にはいませんでした。
彼女の机の、見えるところにいました。
そしてエレノアは、その顔を一つも覚えていません。
次話から、第5章に入ります。
「――誰が、書きましたか」の答えを、彼女は探しに行くことになります。
――その人はまだ、諦めていません。
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