第48話 例外の扱い
「筆を、お借りできますか」
ロイドは、それを聞いて、一度だけ動きを止めた。
それから懐へ手を入れ、筆と、小さな墨壺を出した。手ぶらで歩く男が、それだけは持っていた。掲示の留め具を押し込む男だ。字の道具を持たずに街道を歩くはずがなかった。
「掲示を、書き換えられますか」
「書き換えません」エレノアは言った。「足します」
彼女は掲示板の前に立った。
紙の下のほう。線が一本、引いてある。例外なし。その線の下に、空きが四寸ばかり残っていた。若い手は、線を引いたあと、律儀にその余白を残していた。書く場所だけは、残してあった。
「ロイド様」
「はい」
「峠の下の待避所に、いま何台ありますか」
「四十七台です」
即答だった。この男は、登ってくる道すがら、数えていた。
「区分は」
「穀物が二十六。木材が十四。鉄が七です」
「明日の朝の枠は、何台入りますか」
「百二十台」
「そのうち、明日出る荷は」
「百二十台です」ロイドは言った。「十割ですので」
エレノアは、頷いた。
二人は、掲示板の前に並んで立っていた。
妙な立ち方だった。昨日、机を挟んで向かい合っていた二人が、今日は同じ紙のほうを向いて、肩を並べている。エレノアが問い、ロイドが数を置く。置かれた数を、彼女が組む。組んだものを、彼が確かめる。
速かった。
この男は、訊いたことしか答えない。訊いていないことを喋らない。喋らないから、こちらの頭が止まらない。六年、これができる人間は、彼女の周りに一人しかいなかった。その一人は、いま領地で留守を預かっている。
「穀物を、明日の朝に入れます」エレノアは言った。「二十六台」
「明日の朝は、埋まっています」
「明日の朝の荷を、明後日へ送ります」
「――同じことになります」ロイドは言った。「送った先も十割です」
「なりません」
彼女は紙の余白を指した。
「送った荷に、日付を書きます」
ロイドが、こちらを見た。
「明後日の朝、と書きます。区分と、台数と、順番も」エレノアは言った。「書いてあれば、その者は帰ります」
「――帰る」
「はい」
彼は、まだ分かっていない顔をしていた。この男が分かっていない顔をするのを、エレノアは初めて見た。
「ロイド様。ここに四十七台あります。そのうち、今日この場所を空けなければならないのは、何台ですか」
「四十七台です」
「いいえ」
エレノアは、待避所のほうを見た。
荷車。馬。焚き火。車輪の脇に座り込んだ男たち。二日、ここにいる。
「荷は、四十七台です。ですが、道を塞いでいるのは荷ではありません」彼女は言った。「帰らない人間です」
ロイドの目が、動いた。
「荷は、置いておけます。木材は、雨に濡れても値が三分落ちるだけです。鉄は濡れても構いません。ですが、人は置いておけません」エレノアは続けた。「人は、待つ場所を要ります。待つ場所が、この道では待避所しかありません」
「……人が、待避所を埋めている」
「はい」
「荷ではなく」
「荷は、人が待つから、そこにあります」
風が、掲示の紙をめくった。
「帰る人間は、荷を置いていきます。置いていった荷は、道の脇へ寄せられます。寄せた荷は、道を塞ぎません」エレノアは言った。「四十七台のうち、明日の朝に通す二十六台を残して、あとは帰します。帰した二十一台ぶんの場所が、今日の夕に空きます」
「夕の便が、入れます」
「入ります」
「入れば、明日の朝の列が、短くなります」
「なります」
ロイドは、掲示板を見ていた。
彼はもう、数え終わっていた。数え終わってから、しばらく、黙っていた。
「……四十七台ぶんの場所を作るのに、荷を一台も動かさない」
「はい」
「あなたは、人を動かしている」
「いいえ」エレノアは筆を取った。「日付を書いているだけです」
彼女は、線を消さなかった。
消せば、この掲示を書いた人間の顔が潰れる。潰す必要はない。彼女は線の下の余白に、筆を下ろした。
例外の扱い、と書いた。
書きながら、彼女は決めていった。
穀物、二十六台。明日の朝。この二十六台は、下の三つの町の今日と明日のパンだ。止めれば、三日目に倍になる。倍の倍まで、五日しかない。ここは動かせない。
鉄、七台。明後日の朝。鉄は待てる。待てるが、七台は少ない。少ないものは早く抜いたほうが、あとの列が綺麗になる。
木材、十四台。
筆が、そこで止まった。
十四台のうち、五台が薪だ。峠の向こうの、四十戸の村の、ひと月ぶん。先々月から三日、八日、半月と遅れている。
彼女は、穀物と鉄の後ろに書ける数字を、頭の中で並べた。明後日の朝は鉄で埋まる。明後日の夕は、明日溢れた穀物が入る。三日目の朝も。四日目の朝には、この二日で溜まった分が、ようやく片付く。
木材が入るのは、そこから先だ。
彼女は、日付を書いた。
――木材、十一日後。
書いてから、彼女は筆を止めなかった。止めれば、書けなくなると分かっていた。次の行に、台数と、順番を書いた。書式のとおりに。左に日付。右に区分。下に、例外の扱い。
六年前に決めた様式のとおりだった。
「エレノア様」
ロイドが、紙を見ていた。
「木材が、いちばん後ろです」
「はい」
「理由を、伺っても」
「穀物は三日で倍になります。木材は、なりません」
ロイドは、それ以上を訊かなかった。
彼にも分かる。彼はその計算で、一割を潰した男だ。
人が、掲示板の前に集まってきた。
列は、さっきと同じ形だった。十人ほどが、順番に前へ出て、紙を見る。だが、下がり方が違った。
最初の男が、紙を二度読んで、それから待避所のほうへ戻っていく。歩き方が違う。彼は自分の荷車のところへ行って、馬を繋ぎ直しはじめた。
二人目が下がった。三人目が下がった。四人目は、まだ読んでいる。
「奥様」
日に焼けた男が、木の匙を持ったまま、そこに立っていた。彼は掲示を見て、それから、エレノアを見た。
「十一日か」
「はい」
男は、掲示を、もう一度見た。
「十一日だな」
「十一日です」エレノアは言った。「その日の朝、二番目の枠です。十四台。あなたは、三台目です」
男は、しばらく黙っていた。
それから、鍋を持ち上げて、火を消した。土を蹴って、灰にかける。慣れた手つきだった。彼は二日、この場所で三度、同じことをしていたのだろう。
「じゃあ、帰るわ」
「はい」
「ありがとうよ」
エレノアは、答えなかった。
男は荷車のところへ歩いていき、薪を降ろしはじめた。三台ぶんだ。道の脇へ寄せて、上に帆布をかけて、石を置く。十一日、そこに置いておく用意だった。手際がいい。この男は、置いていくことに慣れている。
待避所の奥から、一台目の荷車が出ていった。
夕方までに、二十一台が下りた。
道は、まだ止まっている。だが、待避所には空きができていた。夕の便が峠を登ってきて、二番目の待避所に入る。入るところがあったから、入れた。
エレノアは、それを掲示板の脇から見ていた。
押し返しただけだ、と思った。
一割は、まだない。この街道は明日も十割で回り、明後日も十割で回る。次のずれは、来月か、再来月か、長雨の日に来る。そのときも彼女がここにいるとは限らない。彼女がやったのは、線一本の下に、日付を書き足したことだけだった。
書けたのだ、とも思った。
例外の扱いは、書けた。誰を後回しにして、その者が次にいつ通れるかは、紙に書ける。書けば規則にならない。日付は、その日で終わるからだ。
書けないのは、一割のほうだけだ。
「エレノア様」
ロイドが、峠の役所のほうから戻ってきた。
彼は、何かを持っていた。手ぶらで歩く男が、両手で抱えている。
帳面だった。厚い。革の装丁ではない。麻布を巻いただけの、実用の綴じ方だ。角が擦り切れて、背が丸くなっている。毎日、開かれている本の形だった。
「これが、この街道の元です」
「元、とは」
「掲示を書いている書記が、これを見て写しています」ロイドは言った。「九つの街道の書記が、全員、これの写しを持っています」
エレノアは、その厚みを見た。
掲示の紙は、一枚だ。日付と、区分と、例外の扱い。それだけなら、こんな厚さにはならない。
「これは、掲示の様式ではありませんね」
「はい」
ロイドは、それを、掲示板の縁に置いた。
「私も、これを写しました」彼は言った。「六年前、王都から持ち帰ったのは、私の手帳です。これではありません」
「では、これは」
「存じません」
彼は、初めて、そう言った。
「三年前、私の役所に届きました」ロイドは言った。「差出人はありません。中身は、正しい。私が王都で数えたものより、正確です」
風が、麻布の表紙を、少しだけ持ち上げた。
エレノアは、その帳面に手を伸ばした。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
例外の欄がある。ただそれだけで、後回しにされた人は帰れます。
次があると、書いてあるからです。
そして峠の下で、ロイドが一冊の帳面を出しました。
三年前、差出人のないまま彼の役所へ届いたものです。
次話「私の字ではない」で、エレノアはそれを開きます。
――中にあるのは、彼女の設計です。彼女の字では、ありません。
よろしければ、ブックマークで追っていただけると嬉しいです。




