第47話 四十秒
峠は、半日の距離にあった。
道は登るにつれて細くなり、両側の木が高くなる。宿場町の平らな明るさが消えて、空が枝の隙間だけになった。ここまで来ると、荷車は一列でしか進めない。すれ違うには、待避所に寄るしかない。だから待避所があり、だから、そこが埋まれば道は終わる。
エレノアは、峠の肩で馬車を降りた。
下が見えた。
道が、動いていなかった。
荷車の列が、峠の下から二番目の待避所まで、途切れずに繋がっている。数えるまでもない。四十台か、五十台か。先頭は止まっていて、最後尾はまだ登ってくる。登ってきた荷車は、止まっている列の後ろに着く。着くしかない。この道は、引き返す幅もない。
待避所は、四つとも埋まっていた。
荷車が縁まで詰まり、馬が外され、御者たちが車輪の脇に座り込んでいる。焚き火が二つ。木材の荷が、帆布もかけずに晒されている。二日、ここにある荷だ。
声は、大きくなかった。
揉めてはいない。怒鳴っている者もいない。ただ、全員が同じほうを見ていた。
待避所の端に、掲示板が立っている。
その前に、人が並んでいた。
十人ほどが、順番に前へ出て、紙を見て、下がる。下がった者は、道の脇へ戻る。そしてまた、しばらくすると、列の後ろへ並び直す。同じ人間が、同じ紙を、何度も読みに来ている。
エレノアは、その列の動きを、しばらく見ていた。
――読んでも、何も書いていないからだ。
彼女は列の脇を通って、掲示板の前に立った。
左に日付。右に区分。上から、穀物、木材、鉄。時間帯まで書いてある。彼女の様式だ。若い手の字だ。街道の掲示板と、同じ形をしている。
下の欄には、線が引いてあった。
――例外なし。
エレノアは、その線を見た。
彼女の様式では、そこに書く。今日、誰を後回しにするか。後回しにされた者が、次にいつ通れるか。日付と、時間と、区分で。
この欄があるから、後回しにされた者は帰る。帰って、次の日に来る。帰るというのは、諦めることではない。次があると書いてあるから、今日を降りられるのだ。
線が引いてあれば、帰れない。
次がないのではない。次が書いていないだけだ。だが、書いていないものを、人は待つしかない。待つ場所は、この道には一つしかない。待避所だ。だから待避所が埋まる。埋まれば、荷が入れない。入れなければ、道が止まる。
止めたのは、線一本だった。
「奥様」
御者の一人が、こちらを見上げていた。四十がらみの、日に焼けた男だ。手に木の匙を持っている。焚き火の鍋をかき回していたらしい。
「あんた、役所の人かい」
「いいえ」
「そうかい」男は匙を鍋に戻した。「役所の人なら、訊きたいことがあったんだが」
「伺います」
「いつ動くんだ」
エレノアは、答えなかった。
男は怒らなかった。怒るところまで行っていない。彼はもう二日ここにいて、二日ぶん、同じことを誰かに訊いている。
「わしのは薪でな」彼は言った。「下の村の。今月ぶんの」
「――今月ぶん」
「もう半月ぶん遅れとる」男は肩をすくめた。「まあ、まだ寒くはない」
「下の村は、どちらですか」
「峠の向こうだ。四十戸ばかりの」
「薪は、その五台で、ひと月ぶんですか」
「うちのが三台。あとは他所のが二台」男は指で数えた。「そうさな、五台でひと月だ」
「ひと月ぶんが、二日、ここにあります」
「二日ならいいさ」男は笑った。「半月だよ、奥様。先月も遅れた。先々月も遅れた」
エレノアの視線が、その顔で止まった。
「先月も、ですか」
「ああ」
「どちらが長うございましたか。先月と、先々月では」
「そりゃ、先月だな」男は少し考えた。「先々月は三日だ。先月は八日。今月は――まあ、これだ」
三日。八日。半月。
増えている。倍にはならない。だが、確実に、前の月より長い。
「いつからですか」
「さあなあ」男は首をひねって、それから掲示板を顎で示した。「あれが新しくなってからだな。そういえば」
エレノアは、掲示板のほうを見た。
穀物、木材、鉄。三つしか区分がない。薪は、木材に入るのだろう。木材の枠は、朝と夕に一度ずつある。
まだ寒くはない。
彼女は、その言葉を、頭の中に置いた。置いて、動かさないようにした。
彼女は待避所を歩いた。
四つある。峠の下から順に、一、二、三、四。埋まっているのは全部だ。だが、埋まり方が違った。
一番目は、上りの荷で埋まっている。二番目も、三番目も、四番目も、同じだ。全部、上りだった。下りの荷は、一台もない。
――下りが来ていない。
彼女は峠の上を見た。道は空いている。向こう側からは、何も来ていない。
次に、彼女は一番目の待避所の、いちばん奥に停まっている荷車を見た。荷は穀物。帆布は乾いている。昨日の朝から、ここにある。
二番目の待避所の、いちばん奥も、穀物だった。
三番目も。
――全部、朝の便だ。
朝の便が、四つの待避所の奥に、同時に入っている。同時に入るというのは、同時に遅れたということだ。道の途中で遅れたなら、遅れ方はばらける。坂で遅れる者、車輪を壊す者、順番に散る。四つとも同じ深さで埋まっているなら、散っていない。
散っていないものは、途中で遅れていない。
出るときに、遅れている。
「関所ですね」
声は、待避所の入口からした。
ロイド・ヴァルケンが、道を登ってきていた。歩いてだ。馬にも乗っていない。上着の裾に、峠の土が跳ねている。半日の道を、この男は歩いてきた。
「いつからいらっしゃいましたか」
「一番目からです」ロイドは言った。「あなたが、荷車の奥を覗いておられるところから」
「では、お分かりですね」
「はい」
彼は掲示板の前まで来て、その紙を見た。見て、それから、待避所の奥のほうを見た。彼の目は、エレノアが辿ったのと同じ順で動いた。一番目の奥。二番目の奥。三番目。
二人とも、同じものを見ていた。
「昨日の朝、関所で何が変わりましたか」エレノアは訊いた。
「数え始めました」
「一台につき、どれだけかかりますか」
ロイドは、答えなかった。
答えなかったのではない。彼はその場で、計算をしていた。目が動かない。この男が、初めて、その場で数を組み立てていた。
「……四十秒です」
「朝の便は、何台通りますか」
「百二十台」
「百二十台の四十秒は」
「――一時間、二十分です」
風が、待避所の焚き火の煙を、横へ流した。
「朝の枠は、何時間ありますか」エレノアは訊いた。
「三時間です」
「その三時間に、空きは」
「ありません」ロイドは言った。「十割です」
彼は、そこで、口を閉じた。
エレノアは、彼が最後まで数え終わるのを待った。待つ必要はなかった。この男は、もう終わっていた。
「一時間二十分ぶんの荷が、朝の枠から溢れます」ロイドは言った。声は変わらない。「溢れた分は、昼へ送られます。昼も十割です。夕へ送られます。夕も十割です」
「翌朝へ送られます」
「はい」
「翌朝には、翌朝の百二十台が来ます」
「はい」
彼は掲示板から手を離した。
「二日で、四つの待避所が埋まる計算になります」ロイドは言った。「合っています」
エレノアは、彼の横顔を見ていた。
「計算に入れておいででしたか」
ロイドは、少しの間も置かなかった。
「いいえ」
それだけだった。
言い訳をしなかった。事情も、条件も、含みも置かなかった。ただ、いいえ、と言った。
「数えるだけだと申しました」彼は言った。「数えるのに時間がかかることを、私は数えておりませんでした」
彼は待避所の外へ向き直り、道を下りかけて、足を止めた。
「監査は、今日で止めます」
「お待ちください」
「はい」
「止めても、動きません」
ロイドが、振り返った。
エレノアは、四つの待避所を順に見た。一番目から、四番目まで。埋まっている。四十台か、五十台。二日ぶん。
「溜まった分は、消えません」彼女は言った。「明日、数えるのをやめても、明日の枠は十割です。溜まった二日ぶんが入る場所は、どこにもありません」
ロイドは、答えなかった。
答える材料が、その場になかったからだ。
焚き火の脇で、日に焼けた男が、鍋を火から下ろしていた。今日の三度目の飯だった。彼の薪は、この峠から動かない。
まだ、寒くはなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
ロイドは、数えることの正確さを疑いませんでした。
ただ、数えるのに時間がかかることを、数えていませんでした。
ですが、原因が分かっても、溜まった二日は消えません。
次話「例外の扱い」では、荷を一台も動かさずに場所を空けます。
線は消しません。書き足すだけです。
――例外の扱いは、書けます。書けないのは、一割のほうだけです。
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