第5話 奪ったのではなく、守った
翌朝。
王都は、何事もなかったかのように目を覚ました。
市場は開き、パン屋は煙を上げ、通りにはいつも通りの喧騒が戻っている。昨夜の夜会で何があったのか、知っている者は多くとも、それが今日の生活に影響するとは、まだ誰も思っていない。
――まだ。
「遅い」
その一言が、倉庫の中に響いた。
粗末な木机の前で、男が書簡を叩きつける。
南方商会の代表、ラングフォード。
商売において時間を何より重んじる男は、朝一番から機嫌が悪かった。
「王家からの正式な返答は、まだ来ていないのか」
「は、はい……ただいま確認を――」
「確認ではない。結果を持ってこいと言っている」
怒声が飛ぶ。
若い事務員が顔を青くし、慌てて走り去る。
倉庫には積み上げられた穀物袋。だがその量は、例年より明らかに少ない。
それに気づいている者は、まだ少ない。
だがラングフォードは違う。
「……遅すぎる」
低く呟く。
本来であれば、昨夜のうちに話はまとまっているはずだった。王都の倉庫使用権、運送路の優先順位、価格の調整。すべては夜会の裏で動く。
それが、この国のやり方だ。
だが――
「誰が担当していた」
苛立ちを抑えきれず、側近に問う。
「ええと……従来であれば、ヴァルディエ侯爵令嬢が」
その名を聞いた瞬間、ラングフォードの顔が歪んだ。
「……あの女か」
「はい」
「ならば話は早い」
そう言いながらも、声にはわずかな違和感が混じる。
「今朝の段階で連絡がないのは、おかしいな」
「と、申しますと?」
「あの女は、遅れない」
断言だった。
「約束を違えるくらいなら、最初から契約しない。そういうやり方だ」
それは称賛ではない。
だが、信用ではあった。
商人にとって、何より重要なのはそこだ。
「……だが、昨夜の件がございます」
側近が言いづらそうに口を開く。
「夜会で、婚約解消と……追放が」
ラングフォードは一瞬、言葉を失った。
「……は?」
「エレノア様は、既に王都を離れたと」
沈黙。
次の瞬間。
「馬鹿か」
吐き捨てるような声だった。
「何を考えている、王家は」
側近は何も言えない。
言えるはずがない。
だが、ラングフォードの苛立ちは止まらなかった。
「あの女が握っていた契約がいくつあると思っている。流通の半分は、実質あいつの手の内だぞ」
「し、しかし……」
「しかしではない」
机を叩く。
「代わりは誰だ」
「……まだ、正式には」
「いないのか」
その一言に、空気が凍る。
ラングフォードは、ゆっくりと息を吐いた。
「……なるほどな」
低く、納得するように。
「そういうことか」
「と、申しますと」
「崩れる」
短く言った。
「このままでは、確実に」
その言葉は重かった。
だが、その意味を理解できる者は、まだ少ない。
王都の別の場所。
王城の一室。
「報告は以上です」
文官が頭を下げる。
机の向こうで、アレクシスは書類に目を通していた。
眉間に皺が寄る。
「……なぜ、こんなことになっている」
低い声。
だがそこには、昨夜とは違う種類の苛立ちがあった。
「南方商会が交渉を保留。北部の運送組合も条件の再提示を要求しております」
「一晩で、か」
「はい」
文官は続ける。
「さらに、西部の製粉業者が価格の見直しを――」
「待て」
アレクシスが手を上げた。
「なぜ連鎖している」
問い。
だが、それに答えられる者はいない。
文官は一瞬言葉に詰まり、それでも口を開く。
「……おそらく、昨夜の件が影響しているかと」
「婚約解消が?」
「いえ」
わずかな間。
「エレノア様の……不在が」
その言葉に、アレクシスは顔を上げた。
「……どういう意味だ」
「これまでの交渉は、多くがエレノア様を通して行われていたようで」
「それは知っている」
「ですが、その範囲が……想定以上に広く」
歯切れが悪い。
だが、それが現実だった。
アレクシスは、机の上の書類を見下ろした。
数字。
契約。
名前。
どれも理解できる。
だが、繋がらない。
なぜこれが、今の事態に直結するのか。
その構造が見えない。
「……クラリスはどうしている」
ふと、別の名を出す。
「お部屋にて、お休みになっております。昨夜の件で、お疲れのご様子で」
「そうか」
短く答える。
そして、再び書類へと目を落とす。
だが、集中できない。
頭の中に浮かぶのは、昨夜の光景だった。
エレノアの沈黙。
あの、何も語らなかった目。
「……申し上げてもよろしいでしょうか」
文官が恐る恐る口を開く。
「何だ」
「エレノア様は……奪っていたのではなく」
言葉を選ぶ。
「守っていたのではないか、と」
静かな一言だった。
だが、その意味は重い。
アレクシスは顔を上げた。
「何を根拠に」
「現在の状況が、その証左かと」
文官は続ける。
「彼女がいなくなった途端に、これだけの歪みが表に出ている。つまり――」
そこまで言って、言葉を飲み込む。
王太子の前で言うには、あまりにも不敬な結論だった。
だが。
「……つまり」
アレクシスが、代わりに言った。
「彼女が、それを抑えていたと」
文官は、深く頭を下げた。
「その可能性が高いかと」
沈黙。
長い沈黙。
アレクシスは、ゆっくりと椅子にもたれた。
天井を見上げる。
昨夜の言葉が、頭の中で反響する。
――申し上げる必要がございませんので。
あのとき。
彼女は何を見ていたのか。
何を知っていたのか。
そして――
なぜ、何も言わなかったのか。
「……違う」
小さく呟く。
だがその言葉は、自分に言い聞かせるようだった。
「正しさは、変わらない」
だが、その確信は。
昨夜より、わずかに揺らいでいた。
窓の外。
王都の空は、変わらず穏やかだ。
人々は日常を送り、何も知らない。
だがその足元で。
確実に、歯車は噛み合わなくなり始めていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
エレノアがいなくなったことで、
“何が回らなくなったのか”が見え始めてきました。
まだこれは序章です。
次話ではさらに具体的に、
王都の歪みがはっきりと形になっていきます。
「本当に悪だったのは誰なのか」
少しでも気になっていただけたら、
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