第4話 悪女の帳簿
夜会が終わる頃、王城の外はすでに冷えていた。
春の終わりとはいえ、石造りの壁に囲まれた城は夜になると温度を落とす。吐く息がわずかに白くなるほどではないが、ドレス一枚では肌に冷たさを感じる程度には。
だがエレノアは、それを気にする様子もなかった。
王城の回廊を、迷いなく進む。
護衛も侍女もいない。既にその権利は剥奪されている。だが歩き方に変化はない。足音は静かで、姿勢は崩れず、視線は常に前を向いている。
まるで、まだ自分が侯爵令嬢であるかのように。
――否。
彼女にとって、それは肩書ではない。
役割だ。
回廊を抜け、控えの間へと入る。
そこには、彼女のために用意された荷物が、既にまとめられていた。
数は少ない。
追放者に持ち出しを許されるものなど、たかが知れている。
だがその中に、ひとつだけ。
場違いなものがあった。
分厚い帳簿。
革装丁の、持ち運びには不向きなほど重い一冊。
エレノアは迷わずそれを手に取った。
埃ひとつない表紙を指先でなぞる。
そして、ゆっくりと開く。
中には、整然とした文字と数字が並んでいた。
収支。
取引。
流通。
貸借。
それらが日付ごとに、細かく、狂いなく記されている。
王都の、裏側の数字。
「……持っていくのですね」
背後から声がした。
振り返ると、年配の執事が立っていた。
ヴァルディエ家の者ではない。王城付きの古参だ。長年仕えてきた経験から、この場に必要な人間が誰かを理解している顔をしている。
「処分されると思っておりましたが」
「されるでしょうね」
エレノアはあっさりと答えた。
「だからこそ、持ち出します」
執事はわずかに眉を動かした。
「それは、王家の管理下に置かれるべきものでは」
「王家は、この中身を理解できません」
淡々とした断言だった。
傲慢にも聞こえる。
だが、その場にいる者には否定できない響きがあった。
執事はしばらく黙り、やがて小さく息を吐いた。
「……今夜の件、驚きました」
「そうでしょうね」
「弁明なさらなかったのは、なぜですか」
エレノアは帳簿を閉じた。
問いにはすぐに答えない。
代わりに、窓の外へと視線を向けた。
王都の灯りが、遠くに瞬いている。
まだ、穏やかに見える。
何も変わっていないように。
「弁明とは、理解される前提で行うものです」
ようやく、口を開いた。
「今夜の場に、その前提はございませんでした」
執事は言葉を失った。
確かにそうだ。
あの場は、真実を確かめる場ではなかった。
結論を宣言するための場だった。
「では……あの罪状は」
「事実です」
即答だった。
執事は思わず息を呑む。
「ですが」
エレノアは続けた。
「“意味”が抜けている」
その言葉に、わずかな重みが乗る。
「徴税は過度でした。使用人への罰も、過酷でした。孤児院への支援も削減しました」
一つ一つ、確認するように言う。
「ですが、それをしなければ、三年以内に侯爵領は破綻しておりました」
静かな声だった。
だが、その内容は重い。
執事は、思わず帳簿に視線を落とした。
「……本当に、そこまで」
「ええ」
エレノアは迷わず答える。
「前侯爵――父は、財政を理解しておりませんでした。兄は、理解する気がありませんでした」
淡々としている。
家族を責める口調ではない。
ただ、事実を述べているだけだ。
「流通は歪み、穀物の備蓄は偏り、商会との契約は不利なまま放置されていた。あのままでは、いずれ領民が飢えます」
「……だから、削ったと」
「ええ」
「孤児院も?」
「はい」
即答。
そこに一切の躊躇はなかった。
「まず生きるべきは、働ける者です。生産を維持しなければ、支援そのものが消えます」
残酷な理屈。
だが、反論できない現実。
執事は何も言えなくなった。
「嫌われることは、承知しておりました」
エレノアは続ける。
「ですが、好かれて領地が潰れるよりは、遥かにましです」
その言葉は、どこまでも冷静で。
どこまでも、正しいように聞こえる。
だからこそ。
誰もが、それを受け入れたくなかったのだ。
「……殿下は、そのことをご存じで」
「いいえ」
即答だった。
「申し上げておりません」
執事は驚いた顔をした。
「なぜです」
「必要がないからです」
あまりにもあっさりとした答え。
「殿下は、正しい方です」
エレノアは言った。
「正しさで世界を測るお方です。であれば、私のやり方は受け入れられません」
それは非難ではなかった。
ただの理解だった。
「正しい方には、正しい世界がございます。そこに、私のような存在は不要です」
窓の外を見ながら、静かに言う。
「ですから、申し上げる意味がない」
執事は、ようやく理解した。
この女は、最初から。
理解されることを、諦めていたのだと。
「……それでも」
思わず言葉が漏れる。
「それでも、あのような形で断罪される必要があったのですか」
エレノアは、少しだけ考えるように目を細めた。
「必要はございません」
だが、すぐに答える。
「ただ――」
一瞬だけ、言葉が止まる。
「都合が良い」
その一言に、執事は息を止めた。
「都合、が?」
「はい」
エレノアは帳簿を抱え直した。
「王都の調整は、すでに限界に近かった。いずれどこかで歪みが表に出ます」
その声は、まるで未来を知っているかのように落ち着いている。
「であれば、今の形で私が外れる方が、まだ制御可能です」
「……制御?」
「ええ」
彼女は、わずかに口元を動かした。
それは、笑みと呼ぶにはあまりにも薄い。
「壊れるなら、まだ壊し方を選べるうちに」
執事は、何も言えなかった。
この女は――
どこまで見えているのか。
「馬車の準備が整っております」
沈黙の後、ようやく言う。
「……そう」
エレノアは短く答えた。
帳簿を持ち、扉へと向かう。
歩みは変わらない。
迷いもない。
ただ一歩ずつ、確実に進む。
扉の前で、ふと足を止める。
振り返りはしない。
だが、言葉だけが残された。
「三日後」
執事が顔を上げる。
「南方の商会が、契約を見直します」
「……」
「七日後には、北部の運送が滞ります」
淡々とした予測。
いや、断定。
「そして十日後」
わずかな間。
「王都の穀物価格が、跳ね上がる」
その言葉は、静かだった。
あまりにも静かで。
だからこそ、重かった。
エレノアはそのまま、扉を開けた。
夜の冷気が流れ込む。
振り返らない。
そのまま、歩き出す。
誰にも止められず。
誰にも理解されず。
ただ、ひとりで。
――悪女は、王都を去った。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
エレノアが何をしていたのか、
少しずつ見えてきたのではないでしょうか。
ただ、まだこれは一部に過ぎません。
本当に恐ろしいのは「彼女がいなくなった後」です。
次話では、王都側の視点から
“違和感”がはっきりと形になっていきます。
この先どう崩れていくのか、
ぜひブックマークして追っていただけると嬉しいです。




