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第45話 冬で数える

「三年前」


 カティアは、そう言った。


 窓の外はもう暗い。通りの灯りだけが残っていて、机の上の紙の、ロイドの署名のあたりを斜めに照らしている。彼女は姿勢を変えないまま、机の木目を見ていた。


「三年前の、どこかしらね。はっきりした日はないの。ある日、書類が戻ってこなくなって、次の月には、私の名前が要らない紙が増えてた」彼女は指で机を叩いた。「気がついたら、そうなってたの」


「三年前は」エレノアは言った。「あなたが、こちらから引いた三年後です」


「そうよ」


 カティアは、ようやく顔を上げた。笑みは戻っていない。かわりに、面白がってもいない、素の顔があった。素の顔のこの女を見るのは、初めてだった。


「勘違いしないでね。負けたから干されたんじゃないの」彼女は言った。「うちの国、負けは怒らないのよ。商売だもの」


「では、何を怒られましたか」


「買おうとしたこと」


 エレノアは、その答えを、しばらく置いておいた。


「あなたを買おうとしたでしょ。土地も、荷も、人も、全部まとめて」カティアは肩をすくめた。「帰って報告したら、言われたの。“それは、その女がいなくなった日に終わる買い物です”って」


「どなたに」


「決まってるでしょ」


 部屋の空気が、少しだけ動いた。


「あの子、それだけ言って、何もしなかったのよ」カティアは言った。「私を責めない。役職も取らない。正しいことを一回言っただけ。そしたら、みんながあの子の紙を先に読むようになった」


 エレノアは、机の上の紙を見た。


 いちばん下の枠。乾いたインク。国の紙が下から上へ流れている。


 ――こちらが勝ったから、この男が立った。


 六年前、彼女は自分の領地を成立させた。その帰結として、隣の国では「人を買うな」が正しさになり、正しさを言った男の紙が先に読まれるようになった。彼女は一度も国境を越えたことがないのに、越えた先の役所の順番を、彼女の勝ちが決めていた。


「カティア様」


「なに」


「あの方は、明日、どこにいらっしゃいますか」


「街道よ」カティアは、そこで初めて、少しだけ笑った。「毎朝、歩いてるの。雨でも」


 夜明け前の街道は、灰色をしていた。


 まだ荷は出ていない。路面は夜のあいだに冷えて、排水の溝の底に薄く霜が残っている。空はようやく端のほうが白みはじめたところで、待避所の掲示板は、まだ字が読めない。


 男が一人、歩いていた。


 灰色の上着の背が、街道の先へ、迷いなく進んでいく。急いでもいない。散歩でもない。決めた速さで、決めた距離を歩く歩き方だった。


 エレノアは馬車を降り、その後ろについた。


 ロイドは振り返らなかった。歩調も変えなかった。三十歩ほど並んだところで、彼のほうが口を開いた。


「おはようございます」


「おはようございます」


「馬車は、置いてこられましたか」


「置いてきました」


「賢明です」ロイドは前を向いたまま言った。「この道は、乗ると見えません」


 エレノアは、路面を見た。


 言われてみれば、乗っていたときには気づかなかったものがある。溝の底に落ちた土の量が、場所によって違う。三里に一度、必ず同じ側に溜まっている。風向きだ。この街道は、決まった方角から吹く風に、決まった側だけ削られている。


 この男は、それを毎朝、六年ぶんの目で見ている。


「一つ、伺ってよろしいですか」


「はい」


「昨日、“この国のために”と仰いました」


「申しました」


「この国、とは、ルーベンシュタインですか」


「はい」


 即答だった。含みも、間もない。


「お生まれは」


「この国です」ロイドは言った。「南の、名前のない村です。今はもう地図にありません」


「なくなりましたか」


「移りました」彼は言った。「街道が北へ通りましたので、村ごと。よくあることです」


 空が、少し明るくなった。


 掲示板の字が読めるようになるころ、二人は三つ目の待避所に着いた。


 ロイドは掲示の前で足を止め、紙の四隅を確かめた。留め具がひとつ緩んでいる。彼は指でそれを押し込み、また歩き出した。書き手でも、役人でもない。この道の持ち主の手つきだった。


「ロイド様」


「はい」


「六年前、あなたは王都にいらっしゃいましたね」


 彼の歩調は、変わらなかった。


「はい」


「何をなさっていましたか」


「見ていました」ロイドは言った。「うちの国は、あの国から粉を買っていました。買っている先が、どういう仕組みで動いているかを、こちらは知りませんでした。ですので、見に行きました」


「ご覧になったものを、伺えますか」


「止まるところを、見ました」


 彼は、そこで初めて、少しだけ言葉を選んだように見えた。選んだというより、どこから話すかを決めた、という間だった。


「一人の女性が、いなくなりました」彼は言った。「それだけです」


 街道の先で、最初の荷車が動き出す音がした。


 ロイドが並べたのは、そこから先も、物の話だけだった。戦争は起きていない。飢饉でもない。麦は畑にあり、粉は倉庫にあり、船も、川も、馬も、荷を積む男の腕も、前の月とひとつも変わらずにそこにあった。なくなったものは、順番だけだ。


 三日目に、パンが昨日の倍になった。五日目に、倍の倍になった。七日目に、店の前で列が崩れた。粉はあったのだ。どの店へ、どれだけ回すかを、誰も決められなかっただけだった。


「あなたは、その列にいらっしゃいましたか」


「はい」


 エレノアは、彼の横顔を見た。


 右の耳の上に、髪の生えていない線が一本ある。昨日、灯りの下で見たときは、古い傷だとしか分からなかった。朝の光の中では、もう少しよく見える。細くて、まっすぐで、上から下へ落ちている。人の手でつけた傷ではない。倒れてきたものに当たった跡だ。


「その傷は」


「棚です」ロイドは、こともなげに言った。「店の棚が倒れました。私は運が良かったほうです。前にいた者は、起き上がりませんでした」


「そのとき、私は数えていました」


「――数える、とは」


「一日にいくつ運べば、あの列が解けるかを、です」


 粉の量は分かっていた。店の数も、道の長さも、荷車の速さも分かっていた。彼の計算は合っていた。合っていたところで、彼は隣の国の人間で、あの街の順番を決める権限をひとつも持っていなかった。だから紙に書いて、持って帰った。それだけだ。


 風が、溝の霜を削っていく。


「止まった街で、私にできたのは、それだけです」


 エレノアは、しばらく黙って歩いた。


 この男の話には、感情語がひとつもない。恨みも、悔いも、正義もない。ただ、見たものと、数えたものと、できなかったことだけが、順番どおりに並んでいる。並べ方が上手いのではない。そういう風にしか、この男は物を持っていないのだ。


 ――だから、こちらの様式が読めた。


「昨日、四千袋と仰いました」


「申しました」


「一つの州の“冬”を越させる量だ、と」


「はい」


 エレノアは、そこで足を止めた。


 ロイドも、二歩先で止まった。


「ロイド様。なぜ、“冬”なのですか」


 彼は、答えなかった。


「州の一年でも、月でも、人の頭数でもなく、冬です」エレノアは言った。「あなたは、昨日から一度も、それ以外の単位をお使いになっていません。四千袋は一つの州の冬。九つの街道は今月。監査は毎月」


「……」


「量を冬で数える人間は、冬を一度、越えられなかった人間です」


 朝の光が、街道の路面をまっすぐに走った。


 ロイド・ヴァルケンの顔から、初めて、何かが落ちた。


 崩れたわけではない。叫んだわけでも、目を伏せたわけでもない。ただ、無表情というものが、実は表情の一種であって、それを保つには力が要るのだと分かる程度に、彼の顔が緩んだ。


 一拍だけだった。


「――八つでした」


 彼は、前を向いたまま言った。


「私の村が移った冬に、越せなかった家が、八つあります」


 それきり、彼は説明をしなかった。


 説明の要らない話だった。村が街道の北へ移された冬、粉はその街道を通っていたのだ。毎日、決まった刻限に、村のすぐ前を。積んだまま、止まらずに、北へ。八つの家は、その道の脇で冬を越せなかった。荷は足りていた。足りていたものが、そこで降りない決まりになっていた。それだけのことだ。


 少年が一人、道の脇でそれを数えていた。数える以外に、できることがなかったからだ。


 エレノアは、答えなかった。


 答える材料が、その場になかったからだ。


「一つ、こちらからも伺います」


 ロイドは、また歩き出していた。


「はい」


「長雨が来て、街道が止まったら、あなたはどうなさいますか」エレノアは訊いた。「一割を潰した先で、です」


「順番を、こちらで決めます」


「どこまでを」


「全部です」


 彼は、そこで、初めて振り返った。


「そのときは、“公平”を壊します」


 エレノアは、その言い方を、聞き取った。


 聞き取ったのは、意味のほうではない。形のほうだ。この男は、自分の言葉を作るとき、必ず単位から組み立てる。四千袋。八つの家。三日目。七日目。だが今の一言だけは、単位がなく、抑揚があり、鉤括弧の中に別の誰かの声が入っていた。


「その言い方は、どなたのものですか」


 ロイドの目が、わずかに動いた。


「……あの方です」


「カティア様」


「はい」彼は言った。「三年前に、一度だけ伺いました。実行はされませんでした」


「なさらなかった」


「あの方は、面白いほうを選ばれます」ロイドは言った。「私は、そうではありません」


 彼は街道の先へ向き直った。荷車が、こちらへ近づいてくる。今日の一番だ。昨夜、軒下で帆布を締め直していた男の荷が、順番どおりに、いちばん前を走っている。


「エレノア様」


「はい」


「あなたを歓迎しているのは、本当です」ロイドは言った。「この国は、あなたの様式で回っています。私は、それを模倣しました。優れているからです」


「ですが、私の一割は預からない」


「はい」


 荷車が、二人の脇を抜けていった。車輪の音が遠ざかる。


「あなたの構造は、あなたを必要としません」


 ロイドは、こちらを見ていなかった。


「それは、あなたが、そう作ったからです」


 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


 量を冬で数える人間は、冬を一度、越えられなかった人間です。

 ロイドはエレノアの言うことに完全に同意したうえで、

 彼女が要る部分だけを切っています。


 次話「書けません」で、エレノアは反論のために、

 一割を空ける理由を紙に書こうとします。


 ――書けたことが、一度もありませんでした。


 よろしければ、ブックマークで追っていただけると嬉しいです。


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