第44話 数えるだけです
宿場町の夕方は、音が減っていくことで分かる。
日が傾くと関所の列が短くなり、荷改めの役人が小屋の戸を半分だけ閉める。それでも通りの灯りは並んだままで、遅れて着いた荷車が二台、三台と、諦めた顔で軒下へ寄せられていった。明日の一番に回してもらうためだ。順番が決まっている街では、遅れた者は怒鳴らない。次があると知っているからだ。
エレノアは平屋の窓から、その二台を見ていた。
軒下の御者が帆布を締め直している。苛立ってはいない。文句も言っていない。彼は明日の朝に自分がどこへ入るかを知っていて、知っているというだけで、一晩を待つことができる。
――ここまでは、回っている。
早馬は、日が落ちる前に着いた。
領地から四日。北回りの定期便なら十一日かかる道を、書状一通だけなら四日で越える。差し出しはサラ・グレイ。封は蝋ではなく、糸で綴じてあった。蝋を溶かす時間すら惜しんだのか、単に面倒だったのか、この女の場合は後者だとエレノアは思った。
紙は二枚。一枚目は、領地の報告だった。
――西の水路、予定どおり。ラザールが定期便に樽を四つ余計に押し込もうとしたので止めた。あの人、あなたがいないと必ず一回試すのね。二回目はなかったわ。
文字は大きく、行の終わりが下がっていく。急いで書いた字だ。エレノアは二枚目をめくった。
――こっちが本題。他領から三件、来てる。「様式をください」って。
――一件は、もう使ってる。
エレノアの指が、紙の縁で止まった。
――使ってから、言ってきたのよ。順番が逆でしょ。断る先が、もうないの。
窓の外で、軒下の荷車が一台、位置を変えた。車輪が石を噛む音がして、また静かになる。
六年前、彼女は高台の屋敷でそれを口にした。あれはもう領地経営ではないと。あれは形だ、と。そして形になったものは三つの目に遭う、と。
真似される。奪われる。狙われる。
真似されるのは、もう見た。今日の昼、街道の掲示板の前で、彼女の様式を見知らぬ若い手が写しているのを見た。
二つ目が、どこから来るのかを、彼女はまだ知らなかった。
机の上には、紙が一枚だけ置かれている。
カティアが用意させた契約の草案だ。エレノアが九日かけて運んできた条件が、そのまま条項の形に直されていた。期限はこちらが切る。期限のあいだ、優先順位に口を出さない。書式は隣国のものだが、抜けているところはひとつもない。半日で作らせて、この精度だ。
「読んだ?」カティアが机の向こうから言った。
「読みました」
「文句は」
「一つだけ」
エレノアは紙の下のほうを指した。文面ではない。署名の欄だ。
枠が、三つあった。
貸す側の欄がひとつ。借りる側の欄がひとつ。それは分かる。分からないのは、その二つの下に、もうひとつあることだった。枠だけがあって、何の欄かは書かれていない。
「三つ目は、どなたの欄ですか」
「さあ?」
「書式は、そちらのものです」
「書式屋に訊いてちょうだい」カティアは頬杖をついたまま言った。「私、細かいことは見ないの」
「二日で草案を作らせる方が、細かいことを見ない、と」
「あら。褒めてる?」
「伺っています」
カティアは答えなかった。
彼女は面白がる目でエレノアを見ている。答えないことがそのまま答えになる場面を、この女はよく心得ていた。
戸が鳴った。
入ってきたのは、ロイド・ヴァルケンだった。
昼に街道で会ったときと同じ服装だ。灰色の上着で、襟が高く、袖の折り返しに細い線が一本だけ入っている。役所の位を示す線だろう。年は三十の半ばか、痩せてはいないが、余分なところもない。髪は短く刈り上げてあり、右の耳の上に古い傷跡がひとつ、そこだけ髪が生えずに線になっていた。
そして、手には何も持っていない。書類も、筆も、鞄もだ。
――手ぶらで来る人間は、覚えている人間だ。
「失礼します」ロイドは戸口で一礼した。「監査官のロイド・ヴァルケンです」
「昼に、お会いしました」
「はい」
彼はカティアのほうを見なかった。挨拶もしない。上役の部屋に入った男の入り方ではなかった。
ロイドは机まで来ると、草案を上から下へ一度だけ目で追った。読む速さではない。確かめる速さだ。中身をすでに知っている人間の手つきだった。
「一条、足していただきます」
「条件が二つ目にあります」エレノアは言った。「期限のあいだ、優先順位に口を出さない」
「口は出しません」
ロイドは即答した。
「数えるだけです」
部屋の空気が、そこで一度、止まった。
「毎月、この国の街道を通った荷を数えます。区分ごとに、量と、時間と、通らなかった分を」彼は続けた。「数えたものは、関所の掲示に出します。あの様式で回っている九つの街道、すべてに」
「それは、監査です」
「監査です」
「監査は、順番に口を出しません」エレノアは言った。「数字を並べるだけです」
「はい」
「通らなかった分、と仰いましたね」
「はい」
「こちらの様式では、その欄に必ず数字が入ります」
「入ります」ロイドは言った。「ですから、数えます」
ロイドは頷いた。頷いただけだった。
エレノアは、机の上の草案を見た。
見えたのは、そこに書かれていない先のほうだった。数字が並ぶ。九つの街道の関所に、月ごとに、同じ様式で並ぶ。エレノアの回す街道は一割を空けて組むから、その欄には必ず、通らなかった分が載る。年に換算して穀物で四千袋。誰も、その四千袋がどこへ消えたかを説明しない。ただ、数字が並ぶ。
並んだ数字を読むのは、この国の人間だ。
そして彼らは、こう読む。あの女の街道だけ、四千袋ぶん少ない、と。
エレノアは、その手つきを知っていた。よく知っていた。六年前から、彼女がずっと使ってきた手だ。
「――強制ではありませんね」
「強制ではありません」ロイドは言った。「数字を出すだけです」
「読むのは、この国の人間です」
「はい」
「一つ、伺います」
「はい」
「その掲示に、理由の欄はありますか」
「ありません」
「では、なぜ空けたかは、載りませんね」
「載りません」ロイドは言った。「私は、数えるだけですので」
彼の声には、勝ち誇るところがまったくなかった。仕返しをしている顔でもない。ただ、正しい道具を選んで、正しく置いている男の顔だった。
「……お上手ですね」
「あなたのやり方です」ロイドは言った。「六年、見せていただきました」
カティアが、机の向こうで小さく口笛を吹いた。
「ねえ、ロイド」
「はい」
「それ、私の契約なんだけど」
「はい」カティアのほうは見ずに、ロイドは答えた。「監査は、契約の外にあります」
ロイドは草案を手前に引き寄せ、三つ目の枠に自分の名を書いた。
筆を置く音がした。エレノアは、そこで初めて、その枠の位置を見た。
三つ目の枠は、いちばん下にある。だが、インクが乾いているのはそこだけだった。
「――順番を、伺っても」
「順番、とは」
「その紙は、どなたの署名から先に入りますか」
ロイドは、少しの間も置かなかった。
「監査からです」彼は言った。「次に、カティア様。最後に、あなたです」
エレノアは、紙を見た。
三つの枠。いちばん下から、上へ。国の紙が、下から上へ流れている。
彼女は六年、紙の流れる向きだけで、その組織が誰のものかを当ててきた。帳簿がどの机を最初に通るか。書簡がどの関所で最初に読まれるか。順番を決める者は、必ず、いちばん早いところに座っている。
カティアは、いちばん早いところに座っていなかった。
「ロイド様」
「はい」
「あなたの署名がない紙は、この国で動きますか」
「動きません」
即答だった。言い訳も、含みもない。事実を置いただけだ。
「ありがとうございます」
ロイドは一礼して、戸口へ向かった。歩き方に迷いがない。昼に街道で見たのと同じ歩き方だった。
戸のところで、彼は一度だけ足を止めた。
「エレノア様」
「はい」
「歓迎しております」彼は振り返らずに言った。「これは、本当です」
戸が閉まった。
部屋には、二人だけが残った。
通りの灯りが窓の桟を斜めに切って、机の上の紙を半分だけ照らしている。照らされているのは、ロイドの署名のほうだった。
カティアは頬杖を解かなかった。姿勢を変えず、笑みも変えず、ただ、机の木目を見ていた。
エレノアは、自分が九日かけて運んできたものを、もう一度、頭の中で並べ直した。
順番を決める権利を貸す。所有権は動かさない。期限を切って、こちらが回す。返すときに、そちらが自分で回せるようになっていれば、それで終わる――全部、正しかった。ひとつだけ、間違っていた。
貸す相手が、それを持っていなかった。
この女は、自分の国の順番を、もう握っていない。握っていないから、買おうとした。買って、取り返すつもりだった。「一緒にやらないか」の一行は、誘いでも罠でもなく、手が足りない人間の書いた、いちばん短い言い方だったのだ。
「カティア様」
「なに」
エレノアは、机の上の紙を、指で一度だけ叩いた。
「あなたは、いつ、この国の順番を手放されましたか」
カティアの目が、上がった。
その顔から、笑みが消えていた。六年のあいだで、エレノアがそれを見るのは、これで二度目だった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
監査は、強制しません。数えて、貼るだけです。
六年前にエレノアが「“選ばせる”のです」と言ったやり方を、
今度はロイドのほうが使っています。
次話「冬で数える」では、カティアがなぜ席を失ったのかが分かります。
負けたから、ではありません。
――そしてエレノアは、この男が量を「冬」で数えることに気づきます。
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