第43話 二本目の旗
翌朝、エレノアは関所ではなく、その先の街道を見たいと言った。
カティアは反対しなかった。それどころか、自分の馬車を出した。黒く、装飾のない、上質な作りの馬車だ。六年前にこの女が領地の門前に乗りつけてきたものと、同じ形をしていた。
「見せてって言ったのは、旗でしょ」馬車の中でカティアが言った。「街道じゃなくて」
「旗は、街道に立っています」
「そう」
カティアは窓の外へ視線を投げた。それきり、何も言わなかった。
街道は、よく整っていた。
路面は締まり、両端に排水の溝が切ってある。溝は一定の深さで、一定の間隔で、道の傾きに合わせて向きを変えていた。掘った人間が同じ基準で掘っている。
三里ごとに待避所があり、そこに掲示板が立っていた。
エレノアは馬車を止めさせ、降りた。
掲示板には紙が一枚。今日この街道を通る荷の、優先順位が書かれていた。上から順に、穀物、木材、鉄。それぞれの通行の時間帯と、遅れた場合にどれを先に通すかまで。
様式は、彼女の知っているものだった。
左に日付、右に区分、下に例外の扱い。列の取り方も、余白の残し方も、彼女が六年前に決めたとおりだった。
だが、字は違った。
彼女の字ではない。テオドルの字でもない。癖のある、少し急いだ、若い手だ。
「……」
エレノアは掲示板の前から動かなかった。
六年前、この様式を決めたのは彼女だった。決めたというより、決まっていった。最初の月に三度書き直し、次の月に二度直し、そのうち直さなくなった。直さなくなったから、これが様式になった。誰かに教えたことはない。教える相手がいなかった。
それが今、国境の向こうの街道で、見知らぬ若い手に書き写されている。
「回ってるでしょ」カティアが馬車から降りてきた。「言ったじゃない。うちの国、あなたが思ってるより回ってるのよ」
「回っています」
「じゃあ何が不満なの」
エレノアは答えず、掲示の下のほうを指でなぞった。
例外の欄がある。彼女の様式では、ここには「例外の扱い」を書く。今日は誰を後回しにするか。後回しにされた者が、次にいつ通れるか。この欄があるから、後回しにされた者は怒らずに帰る。次があると書いてあるからだ。
その欄が、空白だった。
空白ではない。線が引かれていた。
――例外なし。
「例外がありません」エレノアは言った。
「効率がいいってことでしょ」
「いいえ」
彼女は掲示板から一歩下がり、街道の先を見た。
道はまっすぐで、荷車が滞りなく流れている。詰まっていない。揉めていない。速い。速すぎた。
「余りがありません」
カティアが眉を寄せた。
「――余り?」
「こちらの様式では、通行の枠を一割、空けて組みます」エレノアは掲示を指した。「これは、十割埋まっています」
「埋まってて何が悪いの。空けたら損じゃない」
「損です」
「じゃあ――」
「損をするために空けています」
カティアが黙った。
エレノアは掲示の紙に触れた。厚みのある、仕立ての良い紙だ。役所の紙ではない。この街道の掲示を作らせている人間は、蝋と同じところから紙を出している。
「長雨が降れば、水路の補修が遅れます。遅れれば、木材の便が一日ずれます。ずれた一日を吸うのが、その一割です」
彼女は指を離した。
「一割を潰せば、たしかに今日は速くなります。ですが、ずれた日に吸うところがありません。吸えなければ、次の日へ送ります。次の日も十割ですから、また送ります」
「……溜まるってこと」
「溜まります。そして、溜まっていることは、掲示には出ません」
エレノアは街道の先を見た。滞りなく流れている。今日は。
「止まるまで、誰にも見えません」
風が吹いて、掲示の紙の端がめくれた。
「――正確ですね」
声は、待避所の反対側からした。
男がひとり、掲示板の陰に立っていた。いつからいたのかは分からない。整った服装で、落ち着いた態度で、そして、どこか冷たい目をしていた。
エレノアは、その顔を知っていた。直接会ったことは一度もない。だが、この六年、サラの報告の中に何度も出てきた名前だ。
「ロイド・ヴァルケンと申します」男は言った。「はじめまして」
「エレノア・ヴァルディエです」
「存じております」
ロイドは掲示板のほうへ一歩出た。カティアを見ようともしない。
「一割の件、仰るとおりです」彼は言った。「私が潰しました」
「理由を伺えますか」
「潰したほうが、多く運べるからです」
ロイドの声には、感情がなかった。言い訳でも、挑発でもない。事実を置いているだけだ。
「この街道の一割は、年に換算して穀物で四千袋になります」彼は続けた。「四千袋は、一つの州の冬を越させる量です。私はそれを、空けておくことができません」
「長雨が来ます」
「来ます」
「来た日に、止まります」
「止まります」ロイドは頷いた。「ですが、それは今日ではありません」
エレノアは、その顔を見た。
この男は分かっている。分かったうえで、潰している。
「あなたは、止まる日を勘定に入れていますね」
「はい」
「入れたうえで、潰した」
「はい」
ロイドは、そこで初めて、わずかに顎を引いた。
「あなたの様式は、優れています。私は模倣しました。認めます」彼は言った。「ですが、一割の余りは、あなたが決めたものです。あなたが、あなたの領地の大きさで決めた」
風が止まった。
「この国は、あなたの領地の四十倍あります」
エレノアは、答えなかった。
「四十倍の一割は、四十倍の損です」ロイドは続けた。「あなたの領地では、一割の余りは慎重さでした。この国では、それは――」
彼は言葉を選ばなかった。ただ、置いた。
「四千袋ぶんの、贅沢です」
エレノアは、その言葉を否定しなかった。否定する材料が、その場になかったからだ。
一割は、慎重さだった。だが慎重さというのは、余裕のある側の言葉でもある。四千袋のどこかには、それを食べる人間がいる。空けておいた枠は、その人間の口から取り上げた分だ。彼女は六年、その計算を一度もしていなかった。する必要がなかった。彼女の領地は、四十分の一の大きさだったから。
カティアが、小さく口笛を吹いた。
「……ほらね」彼女はエレノアのほうを見ずに言った。「言ったでしょ。書いてないところが三つあるって」
「三つ目が、これですか」
「そう」カティアは掲示板を顎で示した。「あなた、なんで一割空けるのかを、どこにも書いてないの」
エレノアは、掲示の紙を見た。
左に日付。右に区分。下に例外。彼女が六年前に決めた様式のとおりだ。
どこにも、理由が書いていない。
書く必要がなかったからだ。決めているのは彼女で、理由は彼女の中にあった。誰かに渡すつもりがなかったから、渡し方を考えたことがなかった。
――だから、真似されたときに、理由だけが落ちた。
「エレノア様」ロイドが言った。「あなたを、この国は歓迎します。私も歓迎します」
「そうですか」
「ですが、あなたの一割は、お預かりできません」彼は掲示板に手を置いた。「あれは、あなたのものです。この国のものではありません」
彼は一礼し、待避所を離れていった。歩き方に迷いがない。この街道を、毎日歩いている人間の歩き方だった。
馬車に戻るまで、カティアは何も言わなかった。
扉が閉まり、車輪が動き出してから、ようやく口を開く。
「あの子ね、うちの国のために働いてるのよ」
「存じています」
「ほんとに、国のためだけなの。私のためじゃない」カティアは窓の外を見ていた。「私が雇ったんじゃなくて、あの子が勝手に来たの。私の手が使えるからって」
「監査の旗を立てたのは」
「あの子」
エレノアは膝の上で手を組んだ。
街道が流れていく。詰まらず、揉めず、速く。十割埋まった枠のとおりに。
「カティア様」
「なに」
「この様式で回っている街道は、この国にいくつありますか」
カティアは、答えるまでに間を置いた。
その間の長さで、エレノアには分かった。
「……九つ」カティアは言った。「先月まで六つだった」
「増えていますね」
「増えてるわ」彼女は肩をすくめた。「勝手に」
エレノアは窓の外を見た。
六年かけて組み上げたものが、彼女の知らないところで、彼女の知らない誰かの字で、彼女の知らない大きさに引き伸ばされている。理由の欄を落としたまま。
そして今日も、滞りなく回っている。
止まるまでは。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
六年前にエレノアが決めた様式が、国境の向こうで、
知らない誰かの字で書かれていました。
同じ形のまま、理由の欄だけが落ちています。
彼女は「止まる」と言い、ロイドは「それは今日ではない」と答えました。
どちらも間違っていません。だから、止まります。
次話「数えるだけです」では、その二人が同じ紙に署名します。
ロイドが、彼女のやり方で返してきます。
本日の連続投稿はここまでです。明日から1日1話で続けます。
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