第42話 買いません、貸します
国境の宿場町は、思っていたよりも静かだった。
石造りの関所の脇に荷改めの小屋が並び、その前に荷車が三列。積み荷を検める役人の手つきは慣れていて、無駄がない。列は詰まっておらず、待たされている御者たちの顔にも苛立ちがなかった。
九日で着いた。定期便より二日早い。
エレノアは馬車を降り、関所の屋根の高さを一度だけ見上げた。旗が二本。手前が隣国の紋章で、奥は見たことのない意匠だった。
「――ようこそ」
声は、列のほうから聞こえた。
荷改めの小屋の日陰に、女がひとり立っている。長い金髪を風のままにして、装飾のない濃い色の外套を羽織り、この場所にまったく似合わない顔で笑っていた。護衛はいない。従者もいない。ただ、ここが自分の家の玄関であるかのように立っていた。
「思ったより早かったわね」カティア・ルーベンシュタインは言った。「十一日待つつもりだったのに」
「では、二日ぶん得をなさいました」
「そうね。得したわ」
彼女は笑みを深くした。温かくはない笑みだった。それでも、そこに苛立ちや落胆の影はどこにもない。九日で来られることを、この女は最初から勘定に入れていたのだ。
「関所の旗が二本ありますね」エレノアは言った。「奥のほうは、どちらの意匠ですか」
「気づくの、早いわね」
「昨日までは一本だったはずです。旗竿の根元だけ、土の色が違います」
カティアの目が、ほんのわずかに細くなった。それから彼女は、心底おかしそうに喉を鳴らす。
「本当に、変わらないわね。あなた」
「よく言われます」
カティアは日陰から一歩出て、関所のほうを顎で示した。
「あれは監査旗。今月から、この関所には二つの権限が立ってるの。ひとつは国境の役所。もうひとつは――」彼女は言葉を切った。「まあ、それは後で」
エレノアは旗を見た。それから、荷車の列を見た。
三列の待ちで、詰まっていない。役人の手つきに迷いがない。どの荷をどの順に通すかが、すでに決まっている。決まっているから、誰も揉めない。
この関所は、回っていた。
――誰かが、順番を決めている。
その事実だけが、旗よりも先に、彼女の胸の内側に落ちてきた。
通されたのは、宿場町の外れにある平屋だった。屋敷ではない。倉庫を居室に改めただけの、飾りのない建物だ。机がひとつ、椅子が二脚。それ以外には何もない。
六年前、決着をつけたあの日にこの女と向かい合った部屋に、よく似ていた。
「座って」カティアは自分から先に腰を下ろした。「お茶は出ないわよ。ここ、そういう場所じゃないから」
「結構です」
エレノアは椅子を引き、背筋を伸ばして座った。机の上には、彼女が十一日かけて出したはずの返事が――届いているはずのない返事の写しが――置かれている。
いや。写しではなかった。
彼女が書いた原本そのものだった。折り目まで同じだ。
「便を止めたわけじゃないの」カティアは目線でそれを示した。「北回りの定期便、うちの国に入って最初に通るのが、この関所なのよ」
だから、ここで読んだ。それだけのことだった。
定期便が最初に通る関所に、この女は自分の居場所を置いている。国境の役所でも、王都の屋敷でもなく、紙が最初に通るところに。六年前、領地の高台の屋敷に陣取っていたのと同じ理屈だ。高いところにいたいのではない。早いところにいたいのだ。
「あなたが九日で来るなら、こっちも読むわよ」
エレノアは自分の書いた紙を見た。区切りの一覧。どこまで開くかを、こちらから先に並べたもの。
「よく書けてる」
カティアの指が、その紙の上を滑っていく。倉庫の使用権、運送の優先順位、在庫の分配。ここまでは開ける、ここから先は開けない。線は、迷いなく引かれていた。迷いなく引かれた線というのは、引く前にすべて決め終えている人間にしか引けない。
指が、途中で止まった。
「で、書いてないところが三つある」
「二つのつもりでした」
「三つよ」
カティアは指で紙を叩いた。
「あなた、価格のことを一行も書いてない。それと、誰が優先順位を決めるかも書いてない。この二つは、たぶんわざとね」
「はい」
「三つ目は、たぶん、わざとじゃない」
エレノアの視線が、初めて紙から上がった。
「――何ですか」
「あとで」カティアは紙を裏返した。「先に、こっちの用件」
彼女は椅子に深く座り直し、机の上で指を組んだ。
「一緒にやらないか、って書いたでしょ」
「読みました」
「あれ、嘘なの」
部屋の空気が、静かに硬くなった。
カティアの笑みは、まったく変わっていない。むしろ、いっそう楽しそうだった。
「正確には、言い方を選んだの。一緒にやらないか、って書けば、あなたは必ず来る。断るにしても来る。条件を出すにしても来る。来てくれれば、こっちの用件が言える」
「用件を伺います」
「簡単よ」
カティアは即答した。
「あなたの構造を、うちの国が買う」
窓の外で、荷車の車輪が石を踏む音がした。
エレノアは、しばらく何も言わなかった。カティアもまた、急かさない。この女は待つのが上手い。十一日待てる人間だ。
「金額はいくらでも出すわ」やがてカティアが続けた。「本気よ。うちの国、あなたが思ってるよりお金はあるの。ないのは仕組みのほう。だから買う」
嘘ではない、とエレノアは思った。
この女は六年前、崩れかけた領地を安く買うために来た。あのとき彼女が欲しがったのは土地でも人でもなく、崩れているという状態そのものだった。安く買えるからだ。今は違う。今この女が欲しがっているのは、崩れないための仕組みのほうだった。
欲しがるものが変わったということは、この国で何かが変わったということだ。
「買った後、どうなさいますか」
「うちの国で回す。全部の州で。同じやり方で」
「回りませんよ」
エレノアは、静かに言った。
カティアの眉が、初めて動いた。
「――どうして?」
「あれは、売れないからです」
「売れない?」
「はい」
エレノアは机の上の紙を、自分のほうへ引き寄せた。
「あなたが買えるのは、書いてあるものだけです」
倉庫の場所、運送の順番、在庫の数。それは紙に書ける。書けるから、買える。買ったものは、そのまま隣国の州へ運んで、そのまま置くことができる。
エレノアは紙の余白を指した。何も書かれていない、白いところだ。
「ですが、こちらが決めているのは、そちらではありません。“書かなかったところ”です」
どの荷を遅らせてよくて、どの遅れが連鎖するか。どこに余りを残しておくか。誰を後回しにして、その者に次いつ回すか。それは川の水位と、前の月の雨と、その日に誰が怒っているかで変わる。日ごとに変わるものを紙に書けば、書いた瞬間に嘘になる。
嘘になった紙を、人は正しいと思って読む。それがいちばん危ない。
「じゃあ、あなたごと買うわ」
「私は売り物ではありません」
「値段の問題?」
「いいえ」
エレノアは首を横に振った。
「私を買えば、あなたの国は私に依存します。私がいなくなった日に、全部止まります」彼女は一度だけ、言葉を切った。「私は、それを一度、外側から見ました」
カティアが、口を開きかけて、閉じた。
王都のことを言っている。二人とも分かっていた。
「……なるほどね」カティアは椅子の背に体を預けた。「じゃあ、交渉決裂かしら」
「いいえ」
「あら」
「売りません」
エレノアは机に手を置いた。
「貸します」
部屋が、しんとした。
カティアの表情から、初めて笑みが消えた。消えたというより、収まるところを探して迷った、という顔だった。
「……貸す?」
「はい」
「何を」
「順番を決める権利を」エレノアは答えた。「あなたの国の流通を、こちらが預かります。所有権は動きません。買うのでも、雇われるのでもありません。期限を切って、こちらが回します」
「期限が切れたら?」
「返します。そのときに、あなたの国が自分で回せるようになっていれば、それで終わりです」
「――なってなかったら?」
「もう一度、貸します」エレノアは言った。「そのときは、値が上がります」
長い沈黙があった。
カティアは机の木目を見ていた。指は組んだままで、動かない。この女がこれほど長く黙るのを、エレノアは一度しか見たことがない。六年前、椅子が二脚しかない部屋で、「今回は、引く」と言う前の数秒だ。
「……ずるいわね、それ」
ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。
「そうでしょうか」
「そうよ。だってそれ、断れないもの」カティアは顔を上げた。「買えば依存する。断れば回らない。借りれば――借り続けることになる」
「返していただいて構いません」
「返せるわけないでしょ。返せる国なら、最初から買わない」
カティアは笑った。今度は、腹の底から出た笑いだった。
「ほんと、面白い」
「面白いですか」
「面白いわよ」彼女は指をほどき、片手をひらひらと振った。「私、あなたの首に縄をかけるつもりで呼んだの。そしたら、こっちの首に縄をかけて帰ろうとしてる」
「かけていません」エレノアは言った。「選んでいただくだけです」
「――ああ」
カティアの目が、細くなった。
「そう。それ。それが、あなたのやり方だったわね」
彼女は立ち上がり、窓のほうへ歩いていく。外では、関所の列が変わらず流れている。詰まらず、揉めず、順番どおりに。
「条件は?」
「三つあります」エレノアは椅子に座ったまま答えた。「一つ、期限はこちらが切ります。二つ、期限のあいだ、優先順位に口を出さないでください。三つ――」
彼女は、そこで初めて、わずかに間を置いた。
「あの関所の旗を、二本とも見せてください」
カティアの背中が、止まった。
振り返った顔には、もう笑みはなかった。かわりに、少し違うものがあった。感心とも、警戒ともつかない何かだ。
「……それが、三つ目ね」
「はい」
「私が『書いてないところが三つある』って言ったの、まだ効いてるでしょ」
「効いています」エレノアは言った。「ですから、先に聞きます」
カティアは窓枠に肘を乗せ、しばらく外を眺めていた。
それから、独り言のように言った。
「あの旗、うちの国の監査の旗なの。今月から立った」彼女は振り返らなかった。「私が立てたんじゃないわ」
「では、どなたが」
「あなたが知ってる人よ」
エレノアは、答えなかった。
窓の外で、荷車が一台、関所を抜けていく。誰かの決めた順番のとおりに、滞りなく。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
「売りません」「貸します」。
エレノアが六年前から変えていないのは、相手に選ばせるという一点だけです。
ですが、この交渉には、彼女がまだ知らない前提が一つあります。
関所に増えた、二本目の旗です。
次話「二本目の旗」で、彼女はそれを見に行きます。
立てたのは、カティアではありません。
――「あなたが知ってる人よ」
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