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第41話 三割の更新

 翌朝の帳場は、いつもより人が多かった。


 出立の支度というものは、荷を積むことではない。人が抜けたあとに、何が止まるかを先に潰しておくことだ。エレノアは机の上に三十七枚の紙を並べ、そのうち二十九枚に印を押し終えたところだった。残りの八枚は、彼女がいなくても決まる形にまだ直せていない。


 窓の外は晴れている。荷車の音は、昨日と変わらない調子で鳴っていた。


「ねえ」


 壁際から声がした。今日はいつもより、少しだけ近い。


「その八枚、何?」


「留守のあいだに、判断が要るものです」


「あなたがいないと決まらないってこと?」


「今のところは」


 エレノアはペンを置き、八枚を扇のように広げた。


「北側の水路の補修が長雨で遅れた場合、南の便をどう回すか。ラザールの倉庫が満杯になった場合、どこへ流すか。そういうものです。起きるかどうかは分かりません」


「起きたら?」


「起きたら、判断が要ります」


 サラは机の縁に腰を預け、その八枚を上から覗き込んだ。


 しばらく、何も言わなかった。


 彼女は紙の上を目で追っていた。数字を追っているのではない。数字と数字のあいだの、何も書かれていないところを追っていた。この女はそういう読み方をする。エレノアが知る限り、それができる人間は、この領地に二人しかいない。


「……これ、私が決めるの?」


「三割のままで、とは申しません」


 エレノアは、そこで初めて顔を上げた。


「取り分の話をします」


 サラの指が、止まった。


 三割という数字は、六年前に決まったものだった。


 あのとき、エレノアには時間がなかった。二日で領地の流通を回さなければラザールは乗らず、乗らなければ南は死んでいた。帳簿の上では回るはずだった。数字に抜けはなく、見落としもない。それでも回らなかったのは、紙の上の順番を現場の人間に呑ませる筋道が、彼女の手元に一本もなかったからだ。


 そこへこの女が壁際から現れて、利益三割で組みませんかと言った。


 高い、と彼女は言った。安いですよ、とこの女は返した。この状況で“確実に動く”手段です、と。


 その通りだった。あれは安かった。


 六年のあいだに、三割は一度も動いていない。動かす理由がなかったからではない。動かす話をすると、この女が何を考えているのかを、正面から聞かねばならなくなるからだ。エレノアはそれを、六年、後回しにしてきた。


 後回しにしてよいものと、そうでないものがある。九日離れるというのは、後者に線を引くということだった。


「三割は、当時の値です」エレノアは言った。「当時のあなたは、繋ぎでした。今は違います」


「違わないわよ」


「違います」


 エレノアは八枚の紙を、机の中央へ押しやった。


「これは、繋ぎの仕事ではありません。判断の仕事です。判断には、責任がつきます。責任の分だけ、値が要ります」


 サラは紙を見た。それから、エレノアを見た。


「……いくら出すつもり」


「四割です」


「断るわ」


 即答だった。


 エレノアは、わずかに目を細めた。


「理由を伺えますか」


「理由なんてないわよ」サラは肩をすくめた。「私が四割もらったら、あなた、私に相談しなくなるでしょ」


「なりません」


「なるわよ」


 サラは机から腰を離した。いつもの壁際へは戻らず、窓のほうへ歩いていく。朝の光が、彼女の横顔に当たった。


 エレノアは、そのとき初めて、この女の顔をきちんと見た気がした。


 六年、隣にいて、一度も見なかったわけではない。だが、いつも壁際の影にいて、いつのまにか現れ、いつのまにか消える。光の下に立っているところを見たのは、これが初めてかもしれなかった。


 癖のある黒髪を無造作に束ねていて、そのわりに襟元だけは几帳面に整っている。目の色は淡い灰で、瞳孔のふちに金の輪があった。年は――分からない。六年前と、どこも変わっていない。


「私ね」サラは窓の外を見たまま言った。「何にも作れないのよ」


「――」


「あなたの八枚、読めるわよ。どこがまずいかも分かる。どこを削れば通るかも分かる」彼女は窓枠に指を置いた。「でも、白い紙を渡されたら、何も書けない。六年やっても書けなかった」


 エレノアは、答えなかった。


 この女は、いつも他人の設計を評していた。決済が遅れはじめたあの夜、彼女は帳簿を一目見ただけで、綺麗にやられてる、正面から来ない、だから止めにくい、と言い当てた。あのとき言い当てたのは、相手の設計の形だ。形は、誰かが先に作っていなければ、そこにない。


「だから三割なの」サラは振り返った。「四割もらったら、私、自分が作れる側だって勘違いするわ。勘違いした人間の判断って、いちばん高くつくのよ。あなた、いやってほど見たでしょ」


「見ました」


「でしょ」


 サラは笑った。いつもの、危うい笑みだった。


「三割は、私が“読むだけの人間”でいるための値段。据え置きでいいわ」


 エレノアは、しばらくその顔を見ていた。


 それから、机の八枚を一枚ずつ揃え、束にした。


「では、条件を一つ足させてください」


「なに」


「完全に握らせてください」


 サラの目が、わずかに開いた。


「――全部?」


「はい」エレノアは束を差し出した。「留守のあいだ、この八枚に限らず、判断が要るものはすべてあなたが決めてください。こちらへ照会しないでください。届くまでに九日かかります。九日待つ判断は、判断ではありません」


「……間違えたら?」


「間違えます」


 エレノアは即座に答えた。


「必ず間違えます。こちらも間違えました。医療を削って水路に回した日も、北西を切るのが一手遅れた日も」


 サラの指が、束の端に触れた。触れて、止まった。


「間違えたときに、どうするかだけ決めておきます」エレノアは続けた。「間違いを見つけたら、直す前に、記録を残してください。直すのは、そのあとで構いません」


「なんで記録が先なの」


「直したあとに書いた記録は、直したことしか書かないからです」


 サラは、その言葉を数秒かけて飲み込んだようだった。


 それから、束を受け取った。


「……あなた、ずるいわね」


「そうでしょうか」


「そうよ。四割断ったら、もっと重いもの渡された」


 彼女は束を小脇に抱え、ようやくいつもの壁際へ戻っていく。その途中で、思い出したように足を止めた。


「ねえ」


「はい」


「あなた、この領地から出るの、初めてよね」


 エレノアは、答えるまでにわずかな間を置いた。


「――そうですね」


「六年、一歩も出てないわよ。私、見てたもの」サラは首を傾げた。「王都から追い出されて、ここに来て、それきり」


「必要がありませんでした」


「うん。それは、そう」


 サラは、それ以上何も言わなかった。


 馬車が門を出たのは、その日の午後だった。


 エレノアは窓の外を見ていた。石畳、荷車、荷を数える声。数年かけて組み上げたものが、いつもどおりに流れている。彼女が見ていなくても動くように作った。作ったつもりだった。


 門を抜けると、街道の石畳が途切れる場所がある。


 六年前、彼女はここを反対向きに通った。あのときの道は崩れていて、車輪が深く沈んだ。枯れかけた畑と、手入れの行き届かない水路が続いていた。人影はあったが、動きが鈍かった。回っていない、と彼女はあのとき思った。それだけを思って、この領地に入った。


 今は違う。土は締められ、両端に排水の溝が切ってある。溝の深さは一定で、掘った人間が同じ基準で掘ったことが、見ればわかった。


 誰が掘ったのかを、彼女は知らない。名前も顔も知らない。


 だが、その人間は、彼女の決めた基準で掘っていた。


 馬車は進み、領地の境がゆっくりと近づいてくる。


 エレノアは膝の上で手を組み、静かにそれを見ていた。


 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


 サラは他人の設計なら一目で読めるのに、白い紙からは何も書けません。

 三割は、そのための値段でした。


 そしてエレノアは、六年ぶりに領地の外へ出ます。


 次話「買いません、貸します」で、あの一行の差出人と向かい合います。

 十一日も待って、この人が言いたかったことは何なのか。


 ――そこで彼女は、一度だけ、主導権を取り返します。


 よろしければ、ブックマークで追っていただけると嬉しいです。


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