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第40話 条件次第です

第2部を始めます。


第1部のエピローグで、エレノアは隣国から届いた一行だけの書簡に

「……条件次第です」と答えました。

この話は、その直後から始まります。


第1部と同じく、派手な断罪返しはありません。

誰も見ていなかった仕組みが、一手でひっくり返る瞬間を書いていきます。

ただ、今度は彼女が、それを作った側として立つことになります。


※話数について

本編はエピローグを39話目として数えているため、この話が第40話になります。

あいだにある「番外編 閑話 王太子の帳簿」は本編の番号の外にある一話ですので、

読み飛ばしていただいても本編は繋がります。

第1部をお読みでない方は、第1話からどうぞ。


更新を追っていただけるようでしたら、ブックマークをいただけると嬉しいです。


 書簡は、机の上で開かれたままだった。


 窓の外では、荷車が絶えず行き交っている。車輪が石畳を叩く音、荷を数える声、遅れを詫びる声。数年前にはそのどれひとつ聞こえなかった通りに、今はもう、誰にも気づかれないほど当たり前に鳴っていた。回っているものは、音を立てない。人がそれに気づくのは、止まったときだけだ。


 エレノア・ヴァルディエは、その音を背中で聞きながら、封蝋を見ていた。


 文面のほうではない。切り取られて盆の隅に載せられた、割れた蝋のかけらのほうだ。濃い赤。厚みのある、丁寧な仕上げ。押された紋章は隣国のもので、書式には何ひとつ欠けたところがない。


 だが彼女が見ているのは紋章ではなかった。蝋の、縁だった。


 垂らしてから印を押すまでの、ほんのわずかな間。急いだ者は縁が薄く歪み、待った者は厚く盛り上がる。この封蝋の縁は、丸く、静かに盛り上がっていた。


 書いてから押すまでに、たっぷりと間を置いた者の手だ。


 迷ったか――あるいは、楽しんだか。


「……開けないの?」


 壁際から、サラの声がした。いつからそこにいたのかを、この執務室の誰ももう確かめない。


「もう開けました」


「知ってる」椅子の背に肘を掛ける音がする。「開けたのに、まだ読んでるでしょ。さっきから四半刻、そこ動いてないもの」


「読んでいるのは、こちらです」


 エレノアが指先で示したのは、割れた蝋のほうだった。サラは覗き込み、それから、あまり面白くもなさそうに眉を上げる。


「割れた蝋を?」


「ええ」


「……何か書いてあるの、そこに」


「書いてはありません。ですが、分かることはあります」


 サラは黙った。この女がこう言うとき、たいてい、そのあとに続く話は長くない。そして、聞いた側の腹の底に、しばらく居座る。


 扉が二度叩かれ、返事を待たずに開いた。急ぎの報せをこの部屋へ運ぶ者に、待つ習慣を求めていないからだ。入ってきたのは文官長のテオドルで、腕には仕分けの済んだ書簡の束を抱えている。この三年、エレノアの決めた順番どおりに紙を動かし続けてきた男だった。


「お嬢様。ご指示の件、確認が取れました」


「どうぞ」


「昨日の書簡は、隣国の定期便で届いております。北回りの、月に三度の便です」テオドルは束から一枚を抜いた。「早馬ではありません。特使でもありません。ごく普通の、荷と一緒に運ばれてきた紙です」


「差出の記録は」


「ありません。便の台帳には『書状一通』としか」


「結構です」


 エレノアは椅子の背から身を起こした。窓のほうを一度だけ見て、それから、開いたままの書簡へ視線を戻す。


 便箋には一行しか書かれていない。


 ――一緒にやらないか。


 それだけだった。署名も、日付も、宛名すらない。


 エレノアは蝋のかけらを摘まみ上げ、光にかざした。隣国の官用の蝋は黒と決まっている。これは赤で、しかも染料が濃い。国庫から出た蝋ではなかった。


 紙も同じだ。隣国の官製紙は縦目で、端に漉きの筋が出る。手元の便箋は横目で、仕立てはいいが、役所の紙ではない。


「国が出した書簡ではありません」エレノアは蝋を盆に戻した。「国の紋章を押せる人間が、私的に出しています」


 テオドルの喉が、小さく鳴った。


 そして、便だ。隣国からこの領地まで、急ぐ用があれば早馬で四日、定期便なら十一日。差出人は十一日のほうを選んでいた。


「余裕があるってこと?」


「いいえ。急ぐ必要がない、ということです」


 急ぐ用件というのは、先に動かれると困る用件のことだ。この相手は、こちらが先に動いても困らない。むしろ、こちらが動くのを見てから決めたい。


 だから最も遅い便を選び、そのうえで一行しか書かなかった。


 一行に情報はない。情報がなければ、受けることも断ることもできず、必ず問い返すことになる。問い返せば、条件を出すのは向こうだ。先に口を開かせて、後から値をつける。


 よくあるやり方だった。


 よくあるやり方を、これほど丁寧にやる人間は多くない。


「たった一行のために、月三度の便を十一日」エレノアは言った。「これが、こちらの読んでいるものです」


 サラの指が、机を叩くのを止めた。


「……で、それができる人間が、隣国に何人いるの」


「条件を並べます」


 エレノアは指を一本ずつ立てた。


「隣国の紋章を私的に押せる。国庫を通さず紙と蝋を用意できる。こちらの領地が今どうなっているかを知っている。そして――十一日、待てる」


 四本目の指が立ったところで、彼女は手を止めた。


「この四つを同時に満たせる人間は、一人しかいません」


 部屋が静かになった。窓の外の荷車の音だけが、変わらず鳴っている。テオドルが口を開きかけ、何も言わずに閉じた。この男は三年のあいだに、自分が言おうとしたことの半分は言わなくてよいことなのだと学んでいる。


「……本気で言ってる?」サラが言った。


「ええ」


「証拠は?」


「ありません」エレノアは、盆の上の蝋を見た。「必要ありません」


 サラが、今度は声を出して笑った。机の縁に腰を預けて、この女をあらためて眺める。淡い灰の瞳は、いつもどおり何も映していないように見えた。


「……そりゃ、面白いわ」


「面白いですか」


「面白いわよ。十一日かけて一行だけ寄越して、こっちが先に喋るのを待ってるのよ?」サラは肩をすくめた。「で、どうするの。乗るの、乗らないの」


「返事を書きます」


「なんて?」


「条件を」


 エレノアは新しい紙を引き寄せ、羽根ペンを取った。インクの壺の蓋を開ける音が、やけに乾いて響く。


「相手の条件を聞くんじゃなくて?」


「先に口を開かせたい方に、先に口を開かせてやる義理はありません」


 白い紙の上を、ペンが迷いなく走っていく。文字は小さく、行間は詰まり、一行ごとに数字が並んだ。値段ではない。日付でもない。それは、この領地の流通のどの部分をどこまで開くかという、区切りの一覧だった。


 テオドルが横から覗き込み、そして息を呑んだ。


「お嬢様、これは……」


「はい」


「これでは、こちらの手の内を先に見せることになります」


「見せます」


「なぜ――」


「見せても構わないものだけを書いているからです」


 ペンは止まらなかった。


「そして、書かなかったところが、この方には見えます。見えれば、必ず、そこを突きに来ます」


 最後の一行を書き終え、エレノアはペンを置いた。


「どこを突かれるかを、こちらで決めます」


 サラが、口の端をわずかに動かした。笑みとも、呆れともつかない表情だった。


「……本当に、変わらないわね。あなた」


「そうですか」


「そうよ。数年たっても、まだそれをやるんだから」


 サラは机から腰を離し、いつもの壁際へ戻っていく。その途中で、思い出したように振り返った。


「で、そこまで読んでて、まだ名前を言わないのね」


 エレノアは書き上げた紙を折り、テオドルへ差し出した。


「テオドル。北回りの定期便で出してください」


 テオドルの手が、紙を受け取ったまま止まった。


「……早馬では、ないのですか」


「ええ」


「しかし、それでは十一日――」


「十一日です」エレノアは頷いた。「あちらが十一日で寄越したものに、四日で返してはいけません。急いだと知られます」


 テオドルは何か言おうとして、やめた。それから深く一礼し、書簡を胸に抱えて部屋を出ていく。扉が閉まる音のあとには、窓の外の荷車の音だけが残った。


 エレノアは、盆の上の割れた蝋を、もう一度だけ見た。


 丸く盛り上がった縁。垂らしてから押すまでに、たっぷりと間を置いた者の手。


 迷ったのではないだろう。あの人が迷うところを、彼女は一度も見たことがない。


 だとすれば、楽しんでいたのだ。この一行を書いて、蝋が固まるのを待ちながら。こちらがそれを、いつ、どこまで読むかを想像しながら。


「サラ」


「なに」


「二日で、留守の段取りをつけます」


 壁際の気配が、ほんの少しだけ動いた。


「……出るの?」


「返事が届くのは十一日後です」エレノアは窓の外を見た。荷車が、途切れなく流れていく。「その頃には、こちらが着いていたほうが早い」


 サラは、しばらく何も言わなかった。それから、低く、楽しそうに笑った。


「あなた、返事を待たずに行く気ね」


「ええ」


「向こうが十一日待つつもりでいるところに、九日目に着くわけだ」


「そうなります」


「……最悪ね」


 ひどく満足そうな声だった。


「その人、たぶん、それも待ってるわよ」


 エレノアは答えなかった。


 窓の外では、誰にも気づかれないまま、この領地が回り続けている。数年かけて、止まらないように組み上げたものだ。もう彼女が見ていなくても動く。そう作った。


 そして今、その仕組みを一行で欲しがっている人間が、隣の国にいる。


 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。第2部の第1話でした。


 エレノアが読んだのは、文面ではなく封蝋の縁のほうでした。

 彼女が「見る」というのは、いつもこういうことです。


 次話「三割の更新」では、留守を空けるために、

 六年のあいだ一度も動かさなかった数字に手をつけます。

 相手は、壁際にいるあの女です。


 ――なぜ、四割を断るのか。


 本日はこのあと、第43話まで続けて投稿します。

 よろしければ、ブックマークで追っていただけると嬉しいです。


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