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番外編 閑話 王太子の帳簿

これは、番外編(閑話)です。

 舞台は第九話のころ――エレノアが王都を去り、街の流れが静かに止まり始めた時期。これまで描かれなかった、王太子アレクシスの側から同じ日々を辿ります。


 断罪した者が、自分の切り捨てたものの重さを、遅れて知る。そういう静かな一編です。


 王都の夜は、いつもと同じ顔をしていた。


 執務室の窓から見下ろす街並みには点々と灯りがともり、遠くの大通りには馬車の影が行き交っている。塔の鐘は定刻に鳴り、衛兵は持ち場を離れない。何ひとつ変わってなどいないように、アレクシスには見えた。


 そう信じようとしていた、と言うほうが正しいのかもしれない。


 机の上には、この三日で届いた報告書が積み上がっている。どれも些細なものだ。北部の荷が遅れている。西区の製粉業者から苦情が来ている。東区の市場で、パンの値が昨日の倍になった。ひとつひとつは取るに足らない。役人が順に処理すればいい。行政の滞りなど、どこの都にもある。


 そう思って、彼は一枚目を脇へ寄せた。二枚目も、三枚目も。


 けれど四枚目で、手が止まった。


「……また、運送組合か」


 北部運送組合が、正式な問い合わせを寄越していた。文面は簡潔で、しかしどこか切迫していた。――どの荷を先に動かすべきか、王都の指示が来ない。誰が優先順位を決めるのか、教えてほしい。


 アレクシスは眉をひそめた。そんなものは組合で決めればいいだろう、と口の中で呟く。荷を運ぶのは彼らの仕事だ。順番くらい、現場で決められないはずがない。


 だが報告書の末尾には、震える筆跡でこう添えられていた。


 ――決められないのです。どれも急ぎで、どれも止められない。ひとつ間違えれば、連鎖します。以前は、すべて決まっていました。


 以前は。


 その二文字が、妙に耳に残った。


 彼は次の報告に目を移す。西区の製粉業者。粉が届かない。南方へ回されたと聞いたが、誰の指示なのか分からない。次。東区の市場。列に並んだ人々にパンが行き渡らず、値だけが上がっていく。次。南方の穀物商会の代表が、王家との取引を打ち切って隣国の買い手に流れた。


 ――南方の穀物商会。


 アレクシスの記憶の底で、冷たい声が蘇った。


『南方の穀物商会の代表が、まだ王家の来賓席へ案内されておりません』


 あの夜会だ。断罪の少し前、彼女はまだ婚約者の席に立っていた。誰にも笑いかけず、誰にも媚びず、ただ壁際の白百合のように動かなかった女。エレノア・ヴァルディエ。


『このまま放置なさるなら、明日から小麦の買い付け価格がさらに上がるだけです』


 あのとき彼は苛立った。今この場で話すことか、と。夜会の華やいだ空気に、彼女はいつも冷や水を差す。数字の話、荷の話、誰それが不満を抱えて帰るという話。楽しむべき場で、彼女だけが楽しもうとしない。それが人を傷つけていることに、なぜ気づかないのか。


 ――そう、思っていた。


 彼はもう一度、机の上の報告書に目を落とした。小麦の買い付け価格。上がっていた。彼女が言ったとおりに。北部の川運賃。上がっていた。彼女が名を挙げた青い上着の男が、あの夜、何も言わずに帰ったからだ。


 ひとつではない。ふたつでもない。


 あの夜、彼女が短く並べた言葉のすべてが、いま目の前で現実になっていた。


「……偶然だ」


 声に出してみたが、自分でも空々しかった。


 扉が叩かれた。入ってきたのは古参の文官だった。何度か王家の帳場を任されてきた、白髪まじりの実直な男だ。彼は硬い表情で、抱えていたものを机に置いた。


 分厚い綴りだった。革表紙のすり切れた、飾り気のない帳簿。


「殿下。お探しかと存じ、お持ちいたしました。ヴァルディエ侯爵令嬢が……前の管理者が、残していったものです」


「前の管理者」


「はい。倉庫の使用権、河川輸送の割り当て、各商会との取り決め――王都の物の流れは、この記録に沿って回っておりました。令嬢が去られてから、我々はこれを頼りに繋いでおりますが……正直、読み解けません」


 アレクシスは表紙を撫でた。彼女の悪辣さの証拠が、ここにあるのだと思っていた。使用人の手当を止めた。孤児院への寄付を減らした。社交界でそう囁かれていた。この帳簿を開けば、冷たい女が人々からどれだけ搾り取っていたか、その数字が並んでいるのだろうと。


 彼は綴りを開いた。


 そこにあったのは、搾取ではなかった。


 順番だった。どの倉庫に何をいつ入れ、どの荷をどの順で動かし、どこで一日だけ留め置くか。無数の取り決めが、細かな字でびっしりと書き込まれ、そのどれもが別のどれかと繋がっていた。ひとつを動かせば、三つが連れて動く。片方を止めれば、離れた区で別の何かが乾く。都という巨大なからくりの、歯車の一枚一枚に、彼女は名前と数字を与えていた。


 寄付の頁もあった。減らした、と噂されたその金は、消えてなどいなかった。冬に薪の値が跳ねる区へ回されていた。孤児院が最も冷える月に、確実に薪が届くように。表向きの帳簿では減った額が、別の頁で、別の顔をして生きていた。


 ――誰も、見ていなかった。


 アレクシスは頁をめくる手を止められなくなった。彼女が「温度がない」と言われたその手が、この都のどこに何人が住み、どの季節に何が足りなくなるかを、すべて知っていた。冷たいと罵られたその目が、夜会の硝子灯の下で、給仕の運ぶ葡萄酒ではなく、第三柱の陰に立つ運送組合の男を見ていた。


 見えていたのだ。ずっと。


 そして自分は、何ひとつ見ていなかった。


「殿下」


 文官の声が遠かった。


「この方式は、我々では続けられません。真似ることはできても、判断ができないのです。何を優先するか――それを決める者が、おりません」


「……決める者」


「令嬢は、それを一人でなさっていました」


 アレクシスは目を閉じた。


 あの夜会の終わり、彼女が最後に言った言葉が、耳の奥で鳴っていた。彼が「私の言葉はいつも正しい」と皮肉を返されたと思い込んだ、あのやり取り。


『殿下のお言葉は、いつも正しいのですね』

『皮肉のつもりか』

『いいえ。羨ましいだけです』


 あのとき、彼女が何を羨んだのか、彼はようやく理解した。


 羨ましかったのは、正しさではない。彼が、言葉だけを信じていられることだ。温度のある言葉、優しい言葉、人を傷つけない言葉――それさえ選んでいれば世界は回っていくのだと、信じたまま生きていられること。その裏で誰かが、見えない骨組みを一人で支えているとは、想像もせずに済むこと。


 彼女には、それができなかった。見えてしまうから。見えたものを放っておけば、都が乾き、子供がパンの列で泣くと知っているから。だから彼女は、優しくなれなかった。優しくしている暇が、なかった。


 彼は、断罪の場でそれを「冷たさ」と呼んだ。人々の前で、正義の顔をして。


「殿下。いかがなさいますか」


 文官が問う。呼び戻しますか、とは言わなかった。老いた官吏は、それがもう叶わぬことを知っている。彼女を追放したのは王家であり、その先頭に立ったのは、ほかならぬこの部屋の主だ。今さらどの面下げて、戻ってくれと言えるだろう。彼女が応じる理由は、どこにもない。


「……いや」


 アレクシスは帳簿を閉じた。革表紙のすり切れた縁に、彼女がこれを幾度めくったかが刻まれている。


「呼び戻さない。呼び戻せる立場ではない」


 文官は静かに頭を垂れた。


 窓の外で、夜の街はまだ灯りをともしている。だがアレクシスにはもう、それが「変わらない街」には見えなかった。灯りの一つ一つの下で、荷が滞り、粉が尽き、値が上がり、母親が子に「今日はごめんね」と告げている。見えてしまえば、もう見なかったことにはできない。彼女が背負っていたのは、この重さだったのだ。


 彼は机に積まれた報告書を、今度は一枚も脇へ寄せなかった。四枚目も、十枚目も、最後の一枚まで。読めない字は文官に尋ね、分からない取り決めは帳簿を繰って照らし合わせた。夜が更けても、彼は席を立たなかった。


 一晩で分かることなど、たかが知れている。彼女が何年もかけて編んだものを、断罪した男が数刻で継げるはずもない。それでも、始めるしかなかった。誰かが見なければ、都は乾く。彼女はもういない。ならば――遅れて、下手くそに、見えない目をこじ開けてでも。


 塔の鐘が鳴った。


 いつもと同じ音のはずだった。だが今夜だけは、その響きが、彼女が去ったあとの都の、静かな軋みのように聞こえた。


「……羨ましい、か」


 誰もいない執務室で、アレクシスは小さく呟いた。


 彼女が最後に残したその一言を、彼はもう、皮肉としては聞かなかった。

 ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


 本編ではエレノアの側からしか描かなかった「王都の崩れ」を、断罪した王太子の側から書いてみました。彼女が夜会で並べた予言が、ひとつ残らず現実になっていく――その裏側です。


 本編第38話でクラリスが「王都は自分たちで立て直す」と報告に来ますが、その最初の一晩を、この閑話に重ねています。


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