第10話 誰も知らなかった仕事
それは、もはや偶然ではなかった。
王城の執務室に積み上げられた書類の山は、朝よりも確実に高くなっている。
「……増えているな」
アレクシスが低く言った。
「はい。報告が、次々と」
文官が答える。
その声にも、疲労が滲んでいた。
机の上には、未処理の書類。
足元には、処理待ちの束。
壁際には、急ぎの案件がまとめられている。
だが――
どれも、進んでいない。
「南方はどうなった」
「優先して処理中です。ただ……」
「ただ?」
「北部の運送が滞り、西部への供給が遅れています」
昨日の判断。
その影響が、すでに出ている。
アレクシスは眉をひそめた。
「北部は後回しにしたはずだ」
「はい。その結果、北部側が別の契約を優先し始めています」
「……勝手に動いたのか」
「正確には、“そうせざるを得ない状況”かと」
歯切れの悪い言い方。
だが、現実はそれだった。
指示が来ない。
優先順位が不明。
ならば、自分たちで動くしかない。
それが連鎖している。
「……止めろ」
アレクシスが言う。
「はい?」
「連鎖を止めろ。これ以上広がれば、収拾がつかなくなる」
文官は一瞬黙った。
そして。
「……どこを、止めますか」
その問いに、アレクシスは言葉を失った。
どこを止めるか。
それはつまり、どこを切るかということだ。
どこか一つを止めれば、そこに影響が出る。
だが、止めなければ全体が崩れる。
その判断を、今この場で求められている。
「……」
沈黙。
長い沈黙。
誰も助けてはくれない。
誰も答えを持っていない。
そのとき。
「殿下」
先任の文官が、一歩前に出た。
「これを」
一冊の帳簿を差し出す。
革装丁。
重厚な作り。
見覚えがある。
「……これは」
「エレノア様の机から、押収されたものです」
アレクシスは、それを受け取った。
重い。
ただの紙の重さではない。
何かが詰まっている。
そんな感触だった。
ゆっくりと、開く。
中には、びっしりと文字と数字が並んでいた。
整然としている。
無駄がない。
だが――
「……読めない」
思わず、呟く。
理解はできる。
文字も、数字も。
だが意味が繋がらない。
「これは、一覧ではありません」
文官が言う。
「設計図です」
「設計図?」
「はい」
ページをめくる。
「ここを見てください」
指で示す。
一見、ただの数字の羅列。
だが――
「この数値、南方の穀物価格と一致しています」
「……」
「そして、次のページ」
めくる。
「北部の運送費です」
「……同じ日付だな」
「はい」
さらにめくる。
「これは、西部の製粉量」
「……」
「そして――」
最後のページ。
「王都の消費量です」
沈黙。
アレクシスは、そのページを見つめた。
点と点だったものが、線になる。
だがまだ、面にはならない。
「……つまり」
ゆっくりと口を開く。
「これらを、同時に見ていたということか」
「はい」
文官は頷いた。
「一つでも狂えば、全体が崩れる構造です」
その言葉は、重かった。
まさに、今起きていること。
「……誰が、これを理解している」
問い。
だが答えは分かっている。
「エレノア様のみです」
静かな断言。
その場の空気が、凍る。
「……では」
アレクシスが言う。
「彼女がいない今、これはどうなる」
文官は、少しだけ目を伏せた。
そして。
「崩れます」
その一言は、確定だった。
誰も否定しない。
できない。
現に、崩れ始めている。
「……なぜ」
アレクシスが呟く。
「なぜ、誰も知らなかった」
その問いに、文官は少し考えた。
そして。
「知らされていなかったからです」
「なぜだ」
「必要がなかったからです」
同じ答え。
エレノアと同じ言葉。
アレクシスは、ゆっくりと顔を上げた。
「……どういう意味だ」
「この仕組みは」
文官が続ける。
「全体を一人で把握しているからこそ成立していました」
静かな説明。
「複数で共有すれば、遅れます。遅れれば、間に合いません」
合理的。
冷酷。
そして――
正しい。
「だから、彼女は一人でやっていた」
アレクシスが言う。
「はい」
「誰にも教えずに」
「はい」
短い答え。
それがすべてだった。
沈黙が落ちる。
重い沈黙。
そのとき。
「……ならば」
アレクシスが言った。
「呼び戻せばいい」
その言葉に、全員が顔を上げた。
「彼女を、戻せ」
命令。
王太子としての。
だが。
文官は、ゆっくりと首を振った。
「難しいかと」
「なぜだ」
「追放は、王家の名において宣言されました」
冷静な説明。
「それを覆すことは、王家の威信に関わります」
正論。
だが――
「今は、それどころではない」
アレクシスの声が低くなる。
「このままでは、王都が――」
言葉が止まる。
その先を、口にできない。
だが、全員が分かっている。
このままでは、崩れる。
確実に。
「……もう一つ」
文官が言った。
「仮に戻したとしても」
「何だ」
「彼女が、戻るとは限りません」
その一言は、静かだった。
だが、鋭かった。
アレクシスは、言葉を失った。
頭の中に浮かぶ。
昨夜の光景。
何も言わなかった女。
すべてを受け入れた女。
そして――
何も求めなかった女。
「……」
沈黙。
帳簿を閉じる。
重い音が、部屋に響く。
その重さが、そのまま現実の重さだった。
誰も知らなかった。
彼女が、何をしていたのか。
そして今。
誰も、できない。
それを、代わりに。
――空白は、埋まらない。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
エレノアがやっていたことの全体像が、
ようやく見え始めました。
そして同時に、
「誰にも代わりができない」という現実も。
次話では、
その影響がさらに“感情として”表に出てきます。
王都はどこまで崩れていくのか。
ぜひブックマークして見届けてください。




