町中華にて
店に入った瞬間、油と醤油とニンニクの匂いがぶつかってきた。
「――ああ、これだよこれ」
思わず声が漏れると、榊原が即座に頷く。
「だよな。VRじゃ絶対に再現できないやつ」
「脂の重さが違うよな」
「あと、匂い。匂いが攻撃力ある」
室田はすぐに店員に声をかけビールを頼む。しかも大ジョッキを二つ。僕と榊原は、無難に生中でスタート。ジョッキが運ばれてくると、室田が音頭をとる。
「とりあえず乾杯しよ。ログアウトお疲れ」
「まだ旅は途中だけどね」
「いや、今日はいいだろ」
ガラスの音が軽く鳴る。
ぐっと飲んだ瞬間、喉に走る冷たさと苦味が、現実を思い出させた。VRの酒は再現でしかない。これは、ちゃんとしたアルコールだ。
「……あー、うまい」
自然に声が出てしまった。それを見て、榊原が笑った。
「お前、向こうだとあんま食わないもんな」
「食べるけど……味が違うしねえ」
「だよな」
注文は勢いだった。
ラーメン三つ。餃子も三皿。チャーハン大盛り二つ。追加で唐揚げ。気づけば卓が、炭水化物と揚げ物で埋まっていた。
「食いすぎじゃね?」
「ログイン中は食べてないから、基本二食だろ、俺ら」
「それに今日は三十日分だからな」
室田が当然のように言って、ビールをまた飲む。
「三十日旅してきて、現実じゃ一日だぞ? そりゃ腹減る」
「圧縮の後遺症、まず食欲だよな」
「わかるわ」
僕は、ラーメンを一口すすって、少し真顔になる。
「……味、濃い」
「それがいいんだろ」
「いや、そういう意味じゃなくて、ちゃんと重い。そして染みる」
胃に落ちる感覚。脂が広がる感じ。VRでは、どれだけ再現度が高くても、ここまで身体に残らない。
「向こうだとさ」
室田が唐揚げを頬張りながら言う。
「腹は満ちるけど、なんか溜まらないんだよな」
「そうそう」
「一方、現実だと、こう……逃げ場がない」
榊原が笑う。
「それ、悪い意味じゃなくてな」
「わかるわ」
しばらく、無言で食べた。
音を立てて、汗をかいて、ビールを飲んで。
ふと、榊原が言う。
「……圧縮、今回どうだった?」
「僕?」
僕は少し考える。
「今回は、正直……いつもより普通だった」
「普通?」
「うん。三十日旅してきた、って感覚がそのまま残ってる」
榊原が頷く。
「俺は毎回そんな感じだな。戻るときちょっとだるいくらい」
「酒も残らないしな」
「残られても困るけど」
僕は、チャーハンを口に運びながら言った。
「……ただ」
「ん?」
「感情の余韻は、長いかも」
二人が黙る。
「向こうで考えたこととか、向こうでの判断とか……」
「切り替わらない?」
「うん。現実に戻っても、続いてる感じ」
榊原は、少しだけ真面目な顔になった。
「それ、俺も昔あった」
「ネトゲ?」
「ネトゲ。廃人やってた頃」
笑いながら、でも誤魔化さずに続ける。
「現実が薄くなるんだよな。向こうの続きが気になって」
「……」
「だから今は、こうやって飯食う。酒飲む。身体に戻る」
室田がジョッキを掲げる。
「現実の味、大事」
「カレーも食いてえ」
「それ言うと思った」
「VRの世界、そもそもスパイスがない。香りが足りない」
「あと、コクな」
僕は少し笑う。どれもよくわかる。みんな同じことを思っているのだ。
「……向こうでイノシシ狩ってさ」
「ん?」
「なんとかしてカツ丼作れないかな」
「無理だろ」
「でも挑戦はできる」
「お前、変な方向に熱心だよな」
笑いが起きる。
その中で、僕は思った。この感じ。胃が重くて、少し眠くて、現実に引き戻される感じ。
――こんな食事、いつぶりだろう。
「ま、次もよろしくな」
榊原が言う。
「練習も」
「……ああ」
僕は、空になった丼を見下ろしながら答えた。
向こうの世界は、まだ続いている。
でも今は、ここでいい。チャーハンの皿が空になるたびに、身体が一段ずつ、こちら側に戻ってきた。




