二人の余韻
意識が、ゆっくりと浮上する。
ヘッドセットの内側に残っていた川の音が、すっと引いていく。代わりに聞こえてくるのは、空調の低い唸りと、自分の呼吸音だけだった。
……静かだ。
体はちゃんとここにあるのに、どこか一拍、遅れている。VRの時間圧縮のせいだ、と頭ではわかっている。けれど、感情のほうは、まだ向こうに置いてきたままだ。
川。船。夜の津川。そして――祭り。
そして京崎ルリカの歌声が、ふいに蘇る。
派手で、うるさくて、観客に媚びていて。正直、好きにはなれなかった。
なのに。あのとき隣で、瀬戸が楽しそうに笑っていたことだけは、妙に鮮明だ。火の玉が空を舞い、歓声が上がる中で、「こういうの、初めて……」と、少し照れた声で言っていた。
……あれは。
そこで、思考が止まる。
「……デート、だったのか?」
口に出すと、やけに間抜けに聞こえて、すぐに首を振った。違う……はずだ。目的があった。情報を集めに行っただけだ。美羽の手がかりを――。
でも、そう言い切るには、誰かと二人で、入場料を払って、並んで座って、同じ舞台を見て、帰り道に他愛ない感想を漏らした、という事実が、静かに残っている。
胸の奥が、少しだけ、ざわつく。
近衛を殴ったときの感情とは、まるで違う。怒りでも、恐怖でもない。名前をつけるには、まだ早い何か。
「……考えすぎだな」
そう呟いてヘッドセットを外す。耳の奥に、潮と川の音だけが、まだ残っていた。
**
ログアウトの合図とともに、世界が静かに剥がれ落ちる。
祭りの喧騒も、火の玉の揺らめきも、一瞬で遠ざかり、現実の部屋の温度だけが戻ってきた。
瀬戸澄佳は、しばらく椅子に座ったまま、動かなかった。
私は、頭の中で今日のことを整理していた。
正直に言えば、ああいう祭りは初めてだった。
入場料を取られた時点で少し驚いたし、舞台の構成も、衣装も、これまで知ってきた「神事」とは、だいぶ違う。
それでも。歌と動きが重なり、人の視線と感情が集まって、場そのものが一つの流れになっていく感覚は――確かに、あった。
……巫女にも、いろいろあるんだな。
小さな気づきが、今日の体験にはあった。
学園で書いたレポートでは、巫女は「神と人の境界に立つ存在」と定義した。けれど、その立ち方は一つではない。
静かに祈る者もいれば、声を上げ、身体を使い、人の注意を引きつける者もいる。今日見た舞は、明らかに後者だった。少し派手で、少し俗っぽくて、でも――人に近い。
ふと、授業で扱った神話が頭をよぎる。
有名な天岩戸神話に登場する女神。
――天宇受賣命。
岩戸の前で舞い、神々を笑わせ、世界を再び動かした女神。
……なるほど。
思わず、頷いてしまう。自分は、ああいう在り方を選んだことはなかった。たぶん、性格的にも、役割的にも。
でも、あれも巫女の一つの形だと理解できた。――それなのに、胸の奥に小さな引っかかりが残っていた。楽しかった、という感覚もある。
隣で満足が、少し不機嫌そうにしていたのも覚えている。何かを期待していたようで、それと違ったのだろう。けれど、途中で帰ろうとはしなかった。最後まで、舞台を見ていた。
……不思議な人だ。
そう思うが、それ以上の意味は、私の中には生まれていない。
一緒に行ったのは、単に目的が一致したからだし、一人で行くよりも話し相手がいた方が安心だったからだ。それをどう見られたかまでは、考えていなかった……。
私は、気持ちを切り替えて、立ち上がった。
次にログインしたら、船の準備が進む。
日本海を進めば、今回の旅、その二つの目的地にたどり着く。
庄内平野を囲む二つの山、飽海嶽と羽黒山。
やるべきことは、もう決まっている。
あの祭りは、その途中で立ち寄った、少し変わった勉強のようなもの。そう整理すると、心はすっと落ち着いた。
巫女であること。人であること。その間で、自分がどこに立つのか。それを考える材料が、一つ増えただけ。その間に立つ選択肢を、一つ増やしただけ。私は、それで十分だと思っていた。
明日は、二本投稿いたします。6時と16時です。
よろしくお願い致します。




