城輪柵の広場で
瞼を開くと、どこか湿った、カビの匂いがした。
城輪柵のはずれにある宿。梁の低い部屋で、壁際に置かれた行燈の火はまだ消えていない。夜と朝の境目みたいな時間だ。一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなる――けれど、すぐに思い出す。ログインした直後は、よくこうなる。
身体を起こすと、関節がわずかに重い。疲労というほどではないが、完全に現実の身体とは違う感覚。呼吸を一つ、深くする。肺に入る空気は少し冷えていて、木と土の匂いが混じっている。
……今日は、十一日目。試験の中間日。
数字としては節目だが、感覚的には、まだ途中だ。終わりに近づいている気もするし、ようやく入口に立ったような気もする。ゲーム内では、今日一日でだいたい初夏が終わるだろう。
天井を見上げたまま、今日やるべきことを頭の中で並べる。
まず、吹浦へ向かう。ルリカの奉納ライブがある。約束したので、あれは顔を出さなくちゃならない。
それから――、瀬戸の用事。詳しくは聞いてないけど、僕はその手助けをすることになるんだろう。一人で行かせないと約束した。もちろん、その約束は果たすつもりだ。
ただ、美羽の痕跡を追う。このことは、少し前に進めたい。現状では、はっきりした手がかりはない。でも、昨日、ちゃんとやると決めた。その決意は、途切れてはいない。探すのをやめる理由は、どこにもない。
そのためには、経験者二名と接触するのが一番早そうだという結論に達した。ただ、彼らがどこにいるのか、それもわからない。ここでの用事が終わったら、彼らを探すのも目的の一つになるだろう。
そう思いながら、宿の布団を畳む。腰に下げた装備を確認し、戸を開ける。
外は、朝の城輪柵だった。柵の内側では、人が動き始めている。馬のいななき、荷を運ぶ声、役人の呼びかけ。ここは境界だ。中央でもなく、完全な外でもない。
その境目に立っている感覚が、今の自分には妙にしっくりくる。
城輪柵の中央通りを進み、政庁南門前の広場へ向かう。今日、みんなが集まる場所。たぶん、ここから流れが変わる。そんな予感だけを感じ取り、足取りを前へ進めさせた。
政庁前の広場にはすでに全員が揃っていた。朝の光はやわらかいが、空気はどこか落ち着かない。初夏の終わり。少し湿り気を含んだ風が、政庁の内側へと抜けていく。
「じゃあ、行動確認しよっか」
最初に声を出したのは相原だった。いつものように簡潔で、感情を乗せない口調だ。 広場の中央で立ち止まり、全員を一度見渡してから続ける。
「ここから先についてですが、この地は正直に言って安定していません。蝦夷の反乱がこの十年で複数回、火山活動も記録があります。私含め、榊原くんと室田くんの仕事はその調査となります。なので、ルリカさんの奉納公演以降は別行動も多くなるかと思います。もちろん、こちらの調査に協力していただけるならば歓迎です」
言葉を選びながらも、自分たちの任務を隠すことはない。僕は黙って聞きながら、城輪柵の外へ続く道に視線をやった。人の往来は多いが、どこか張りつめた感じがある。
「そうだよ満足、俺たちの仕事が終わったら、そっちの用事も手伝うからさ」
「うんうん、みんなでやれば早く終わるよきっと」
そう室田も同意する。僕は瀬戸の方を見るが、彼女は俯いたまま、しばらく口を閉ざしていた。
「少しだけ、考えさせてください」
そうとだけ言うと、相原は無理強いするようなことはなく、話を進めていく。
「とにかく、基本は無理をしない。はぐれない。判断が必要なときは、独断しないということで、よろしくお願いします。」
そこで一拍、置く。
「……以上。何か補足ある人いる?」
「あ、こっちは今日すぐに発つから」
軽く手を挙げたのはルリカだった。
「私と山本は、先に吹浦へ向かうね。特別奉納の準備があるから。合流は向こうで」
山本も一歩後ろで頷く。
あれだけ大掛かりなライブだ。それなりに準備も必要だろう。祭り会場のロケハンもまだだろうし、その後にはリハーサルなどやることは多そうだ。それを理解できているので、誰も異論を挟まなかった。
「じゃあ、私たちはここで別行動だね」
「私たちも国府で基本的な情報を仕入れたら向かいます。多分、明日はそちらで泊まると思います」
相原がそう告げると、ルリカが答える。
「了解。じゃあ、みんな、また明日」
「気をつけて」
そう言ったのは瀬戸だった。声音は穏やかだが、目線を一瞬だけ逸らした気がした。
「そっちもね」
そういって手を振ると、ルリカと山本は吹浦口の大物忌神社へ向かって、一足先に向かった。
二人を見送ると、今度は相原が口を開く。
「じゃあ、私たちも、昨日政庁でまとめておいてもらった資料取ってくるから、ちょっと行ってくる。ということで、いくわよ二人とも」
「え、俺も行かなきゃダメ? 満足と少し鍛錬したかったんだけど」
榊原がごねる。そういえば、このところ色々あって練習ができてなかった。
「市場見ようと思ってたのに」
室田もこれに便乗する。
「だめに決まってるでしょ。向こうの説明を、また私が二人にするのは二度手間。そもそも、どんな資料がでてくるかわからないじゃない。ほら、いくわよ」
相原はそう言うと、政庁の中に入っていった。相原の言うことはもっともだった。
「満足、すぐ戻るから、後で鍛錬付き合ってくれよな」
それだけ言い残し、榊原と室田も付いていく。
残されたのは、僕と瀬戸だけだった。
広場の端。柵の影が落ちる場所に二人でしゃがみこんだところで、瀬戸が口を開いた。
「……昨日、ログアウトしたあと、近衛くんたちと御飯食べに行った」
磐梯山の件以降、近衛は夜、皆の前に顔を出していなかったのは知っている。きっと、何かしらけじめをつける会だったのだろう。
「そうか」
「うん、謝罪された」
「だよな」
沈黙が流れる。政庁前だけあって、人が入れ替わり目の前を横切る。
しばらくして、瀬戸が先に口を開いた。
「そのときに、一つ忠告された。もしかしたら、いや、遅かれ早かれ、あなた指名手配されるかもしれないって」
僕は、すぐには返事をしなかった。驚きはなかった。ただ、胸の奥が少しだけ冷える。
「ちなみに理由は?」
「多賀城の放火の件だって。NPCの目撃者が多すぎて、もう庇いきれないって」
確かに、あのとき僕を取り囲んだのは、近衛たちだけではなかった。顔も、名前も、身分もばれてるだろう。
「……そうか」
瀬戸は続ける。
「もし正式に出たら、榊原くんたちどうするかな。彼らは、多賀城の軍人で、官吏だから……」
それは、現実的な指摘だった。仲間であることと、立場は別だ。
「ただ……」
瀬戸は、言葉を選んだ。
「猶予はある……はず。ここは多賀城から遠い。情報には必ず遅れがある。正式に手続きがされても、少なくとも一週間くらいは、その情報はここまでこないと思う」
僕は、少し考えてから頷いた。
「……奉納ライブ、見に行くって約束してるしな」
「ええ」
「それが終わったら、またどこかに潜伏するよ」
美羽のこともある。単独行動するタイミングとしては、ちょうどいいかもしれない。それは、言い訳でも強がりでもなかった。瀬戸も、それを理解した様子で、しばらく黙ったまましゃがんでいた。
そのとき、ふと視線に気づく。二人組の蝦夷らしい男が、こちらの様子を窺っている。その表情は、瀬戸を品定めするような嫌な感じだった。
ただ、彼女はそれには気づいていない。
「それまでは、瀬戸さんの手伝いをする。磐梯山の神からの頼まれごとっていってたけど、僕に手伝えることある?」
そういって僕は瀬戸の顔を覗き込んだ。ただ、彼女は無言で首を振るだけだった。そして、少しして、ようやく口を開いた。
「何かあったら」
ぽつりと告げる。
「……また、あの庵で」
「ああ」
僕は、短く返事をした。
「おい」
政庁から戻ってきた榊原が、蝦夷の男二人を見て声をかける。
「お前ら、何見てるんだよ」
「いえ……」
男は、にやりと笑った。
「あまりにも、巫女様がお美しかったので」
言葉は綺麗だが、なんとも下種な言い訳だった。これが、本当の蝦夷ということなのだろうか。ひょっとしたら僕も、そう見られているのかもしれない。
榊原は鼻で笑い、二人を軽く追い払うと、それ以上は追及しなかった。
榊原たちとは翌日、また政庁前で待ち合わせということに決め、僕と瀬戸は宿に向かった。その途中の市場で、僕は足を止めた。
市女笠。虫垂衣が付いていて、顔を隠せる女性用の笠だった。最近、室田にいろいろと買い取ってもらったから、少し懐にも余裕がある。今後、僕は彼女から離れることになると思う。なら、蝦夷のチンピラみたいなのに、絡まれるのはよくない。
「これ」
瀬戸に差し出す。
「さっき、指名手配されるかもって、教えてくれた、お礼。あとこれ被ってたら、虫よけにもなるだろ」
一瞬、驚いたように目を瞬かせてから、瀬戸は小さく微笑んだ。
「……ありがとう」
少し照れくさそうに、笠を受け取る。その仕草を見て、僕は、胸の奥が静かになるのを感じていた。




