中間日の導火線
端末の画面を見つめながら、僕は深く息を吐いた。ログインボタンの手前で、指が止まる。
――人魚の肉。
頭に浮かぶのは、その言葉だった。正体不明。効能不明。ただ噂を聞くたびに、胸の中のあいつが騒めく。その感覚だけが、やけに生々しく残っている。
……自分は今、何をしている? 誰のために、どこへ向かっている?
試験バイトのランキング。評価。役割。それらは全部、分かっているし、理解しているけども、それは正直どうでもよかった。しかしながら、それを無視してでも僕があの場所で本当にやりたいことが、今できているかといえばそうではない気がする。
素材集めは楽しい。鷺沢との話の流れで、そういう面白さを知った。
集めた素材を室田に売るのは、ゲームとして進んでいる感じがする。
榊原との訓練は、純粋に上達が感じられて、成長の実感が達成感につながる。
相原は、旅程をしっかり整理して、いろんな手配も済ませてくれる。コーディネーターがいる旅は、負担が少ない。仲間と一緒に旅をする楽しさを、彼女は支えてくれる。
ルリカとの洞窟探検は、それこそ仲間と協力して、攻略をすすめるゲームみたいな冒険を味わえた。夏休みのいい思い出も、できたと言えるかもしれない。
そして、瀬戸との約束。彼女と一緒に考えて、勝手をせずに、並んで進んでいくのは、僕にとって、今やとても大切なことになっている。
ただ、一つ。できてないことがある。
――美羽の痕跡を追うこと。
昨日のログインでは、いろいろなことを体験したけど、美羽の痕跡に触れることはなかった。彼女は、喜多方から日本海へ戻った。それが、ゲーム内で15年前のこと。そこから先の手がかりが消えてしまった。
30年前、そして15年前、僕らと同じペースならば、おかしい。時間が合わない。美羽は何度も、複数回この試験バイトに参加しているのだろうか。
ならば、あの今回参加している、経験者だという、東郷という人、杉本という人に話を聞くのもありだろう。
経験者の二人、そもそも彼らは、僕の意識にない存在だった。榊原たちでさえ、僕はつい数日前までは、意識下になかった。記憶が圧縮されているからなのか、僕の認識力がおかしいのか。
とにかく、僕が今日すべきことは、彼らに美羽について聞くことだろう。タダで情報をもらえるとは思えない。善意で教えてもらえると思ってはいけない。ただ、僕が払える対価があるならば、やはり彼らと接触することが必要になる。
NPCから情報をもらうのとは違う。「なぜ知りたいの」と問われたときに、僕はちゃんと答えられるだろうか。
――フェアじゃない。
ふと、朝のミーティングでの榊原の言葉が蘇る。情報が伏せられ、条件が違い、評価軸も異なる世界。
それでも、みんな前に進む。文句を言いながら、納得しきれないまま、それでも進む。
僕もそうしようと思う。美羽のこと。その痕跡を追う理由。それは、まだ言葉にならないけども、わからないままでも進もう。
「……行くぞ」
誰に向けた言葉でもない。
そう呟き、僕は画面に触れた。
**
瀬戸澄佳は、静かに身支度を整えていた。動作は淡々としている。迷いは、表に出さない。
朝のミーティングの空気は、まだ身体に残っていた。
――フェアネス。情報開示。評価軸。
まったく、観ているところは違うけれども、榊原の言葉は正しかった。そして、少しだけ痛かった。
……私も、言いたかった。
満足に。ルリカに。この世界そのものに。フェアでいようと。フェアであろうと。でも、言わなかった。言えなかった。そんな今の私も、やっぱりフェアではない気がするから。
場を荒らさないためだったのか。流れを止めないためだったのか。私はまた抱え込んでいる。それを自分で選んだ。
――一緒に考えたい。勝手に決めない。勝手に背負わない。
そういう約束を、確かに彼と交わした。それなのに今、自分は一人で背負おうとしている。そして、彼にも一人で背負っていることがあると知ってしまった。
私が背負っているものは、使命だ。これは、私がやるべきこと。きっと、彼もそれを自分の使命として、やるべきことだと思っているのだろう。
だから、私も見えないところでやる。誰にも気づかれないように、終わらせる。
……それでいい。
そう言い聞かせる。自分が壊れなければ。そして、誰かを巻き込まなければ、世界はなだらかに流れ続ける。
「……行こう」
私は、端末を起動する。いつもの通りに、ただ、やるだけだ。
**
近衛恒一は、ミーティングが終わって部屋に戻る際、少し離れた位置から瀬戸澄佳を見ていた。話しかける理由は、いくらでもあった。だが、どれも選ばなかった。彼女が、今何を抱え込んでいるかを、わかっているからだ。
昨晩、部屋に戻った俺のもとに、思ってもいない有益な情報が飛び込んだ。
――磐梯山の神と、飽海嶽で元々祀られていた神は、同一神である可能性が高い。
これで、瀬戸澄佳、彼女が抱えている、抱え込もうとしているものの正体が完全に見えた。全ての情報が一本の線で繋がった。
飽海嶽の神、今は大物忌神である。ただ、これは朝廷が蝦夷を教化するために作り出した、新たな神格だ。そして、古い元々いた神は、後から降臨した大物忌神、あるいは高僧、修験者によって退治されたとされる。つまり、完全に磐梯山でかつて行われたことが、ほぼ同じ形で飽海嶽で行われ、今があるということだ。
京崎ルリカは、京都からわざわざ北の果てまで来ている。大物忌神と、彼女が所属する伏見稲荷の祭神は、ほぼ同様の神格を持つ。その神の力を増幅させるため、あるいは古い神の封印を強めに来たと見ていいだろう。瀬戸が身に着けている首輪からのログ、そして昨夜の京崎ルリカの配信にもそのログがあった。これは確実と言っていい。俺には、そうとしか思えなかった。これ以上、疑う理由が見つからない。
そして、一方の瀬戸は、磐梯の巫女。彼女がここに来た意味は、元々いた古い神の依頼とみるのが妥当だ。つまり、瀬戸と京崎は、潜在的に対立関係に置かれている可能性がある。そして、瀬戸はそのことを理解し、抱え込んでいる。
――しかも、一人で。
これが重要だ。このことは、満足にすら打ち明けていない。しかも、昨日、こちらが開示した、矢代美羽のことを、彼女は初めて知った様子だった。必ず、二人の間に、何かしらのわだかまりができているはずだ。
彼女は、おそらく抱え込んで、一人でなんとかしようとする。いつも、そうやって立つ。自分が倒れない位置を選びながら、誰も傷つかない方法を選ぶ。だが、今回は京都からルリカへの増援も来る。おそらく、彼女の力だけでは、どうにもならない。
――だからこそ、放っておけない。
彼女を守る。そのためには、俺も動かねばならない。
それは命令でも、義務でもない。衝動だ。介入しなければ、彼女は一人になってしまう。彼女の前に立たなければならない。それが正しいかどうかは、分からない。ただ、このまま見ているだけでは、いられない。この絶好の機会を見過ごす人間が、上に行けるわけがない。
俺は、自分の手を見た。まだ、何も掴んでいない。
それでも。
「……行くか」
小さく呟き、ログインを開始する。俺が動く理由は、もう十分だった。




