瀬戸澄佳の責任
部屋に戻ると、空気が冷えていた。
試験バイト用にあてがわれた、簡素なワンルーム。匂いも音も、すべてが無機質。さっきまでいたレストランとも、夜の道とも、羽黒山ともまるで違う。現実世界と異世界をつなぐ、ゲートのような、ただの空間。
扉を閉め、鍵をかける。それだけで、肩の力が少し抜けた。
今日、受け取ったものは多い。
謝罪。情報。知らなかった名前。矢代美羽。
飽海嶽。儀式。近衛たちの動き。封印。京崎ルリカに用意された援軍。そして、私の役目と、ルリカの役目が正反対だった事実……。
考えるべきことは山ほどある。やるべきことも、見えている。
なのに。
シャワーを浴びながら、思考が勝手に別のところへ滑っていく。温水が肩を叩き、髪を濡らし、音が頭の中を空っぽにしていく。
さっきの会話の内容が、何度もよみがえった。そして、かつての言葉も。
――一緒に考えたい。勝手に決めないし、勝手に背負わない。
――私も、逃げないから。
彼に向かって自分がいった言葉。
彼が小さく笑ったときの表情。
ゲーム内での約束。VRの中で交わした言葉。
ただ、それはゲーム内での出来事。現実の私は、彼と向かい合って話したことは、ほとんどない。
それなのに。シャワーを止めたあとも、胸の奥に、あのやり取りの余韻が残っていた。
蒸発する水分が、肌の熱を奪うのが、はっきり分かる。
タオルで髪を拭き、ドライヤーをかける。鏡に映った自分の顔は、いつもと変わらない。感情を抑えた、整った表情。
……混同してはいけない。
自分に言い聞かせる。あれはゲームの中でのことだ。試験だ。役割だ。あの約束は、ゲーム内の合理的な合意でしかない。
それなのに。
ドライヤーを切ったあと、無意識にスマホを手に取っていた。画面が点く。連絡先を開く。
……ない。
当然だ。彼の連絡先は、最初から入っていない。交換したことがない。必要がなかった。ゲーム内で、すべてが完結していたから。
指が止まる。画面を見つめたまま、数秒、動けなくなる。
……何を、期待していたの?
自分で自分に問いかけて、少しだけ苦くなる。会いに行く理由も、連絡する理由も、ここには存在しない。
もし今、彼の連絡先があったとして。もしメッセージを送れたとして。「指名手配されるかも」と伝えて……。それは、優しさだろうか。もしくは責任か。それとも、境界を踏み越える行為だろうか。
……楽になるために会うのは、卑怯だ。
そう思ってしまう。楽になる手段として彼を使うのは、正しい責任の取り方じゃない。私が背負うと言ったものを、背負う姿勢を崩すことになる。
私は、スマホの画面を伏せた。ベッドの脇に置き、深く息を吐く。
……大事だと思ってしまった。
ゲーム内だけの約束。現実では形のない関係。それでも、あの言葉を、あの時間を、軽いものとして扱えない自分がいる。
だからこそ、今は行かない。今は、触れない。
現実で会うなら、現実で話すなら、それは理由を持ってから。それが、私の責任の取り方だ。
そんなことに思いを巡らせながら、部屋の灯りを落とした。
暗闇の中で、もう一度だけ、あの言葉を思い出す。
――私の責任。
封印をほどく役目のことか。彼のことか。自分のことか。少し、わからなくなっていた。ただ、分からないままにしておけない、という感覚だけが残った。




