出立
羽黒山を発ったのは、朝靄がまだ参道に残っている時間だった。石段を下りきるころには、空気の匂いが変わる。湿った苔と杉の香りが薄れ、代わりに土と人の気配が混じり始める。
山を下りる、というより――守られていた場所から、外へ出る。そんな感覚だった。
足は動く。昨日よりも確実に。ただ、腹の奥に残る鈍い違和感が、完全ではないことを主張してくる。無視できないほどではないが、忘れていいほど軽くもない。
瀬戸は、何も言わない。ただ、歩調を合わせる位置が、昨日よりほんの少し近い気がした。
国府までは、丸一日。休憩を挟みながら、およそ八時間の行程だ。
相原が前を行き、室田が地図を確認しながら距離を刻む。榊原は、沈黙が続きそうになると、どうでもいい話を差し込んでくる。
誰がどこを歩くかで、それぞれの役割が、自然と見えてくる。
「城輪柵ってさ、一辺七百二十メートルだぞ」
室田が言う。
「ミニチュア平安京だな」
「東京ドーム、何個分だよ」
榊原が即座に返して、少し笑いが起きる。
相原と山本は、その話を聞きながらも、どこか余裕がある。
二人は、すでに一度、国府には行っている。僕とルリカが落水したあのとき、捜索隊派遣を依頼するために、すでに足を運んでいたらしい。
「まあ、初見の人は面食らうと思うけど」
相原が、そう前置きして言った。
「思ったより、でかいよ」
……ミニチュア平安京か、どんなところなのか今から少し楽しみだ。
街道を半分ほど進んだあたりで、休憩を取った。
小さな沢のそば。荷を下ろし、草に腰を落とす。誰かが水を汲みに行き、誰かが干し肉を齧る。動きが止まると、自然と会話が戻ってくる。
「そういやさ」
榊原が、何でもない調子で言った。
「東郷さんって、結局どこ行ったんだ?」
少し間を置いて、思い出したように続ける。
「もしかして、飽海嶽でまた会ったりしてな」
「東郷ねえ」
室田が眉を上げる。
「いたな、そんな人」
瀬戸が、すぐに首を振った。
「たぶん、飽海嶽ではありません」
断定に近い言い方だった。
「へえ。なんでそう思う?」
榊原が聞く。
「本人がそう言っていたわけではありませんが……」
少し考えてから、瀬戸は続ける。
「東郷さんは、人魚の肉を探していると言っていました」
一瞬、間が空いた。
「……出た」
室田が、半ば呆れたように言う。
「人魚の肉、不老不死のやつ?」
榊原が笑う。
「どうせ獣の肉でしょ」
「偽物は、そうですね」
瀬戸は淡々と返す。
そのとき、少し後ろを歩いていたルリカが口を挟んだ。
「でもさ」
軽い声だ。
「人魚の肉ってアイテム自体は、あるっぽいよ」
「あるの?」
榊原が振り返る。
「噂だけどね。どこかのプレイヤーが、昔、手に入れたって話」
ルリカは肩をすくめる。
「詳細は不明。SSもログも残ってない。ただ、あったって話だけが残ってる。京都の北の玄関、若狭の敦賀港でも、似た噂は聞いたことがある」
室田が思い出すように言う。
「海沿いの港町で、たまに出る」
「日本海側なら、どこでも噂あるんじゃないの?」
榊原が適当にまとめる。
「ありそう」
ルリカが笑う。
「物語的にも映えるし」
僕は、その会話を黙って聞いていた。東郷という名前自体、初耳だった。タイミングを見て、口を出す。
「……その、東郷さんって、どんな人?」
瀬戸が、こちらを見る。
「満足くんは、会ってなかったね」
一拍置いてから、簡単に説明してくれた。
「プレイヤーだけど、今回、試験バイトは二回目、つまり経験者。学院生で半導体の研究をしていて、鉱物に興味があるっていってた」
瀬戸の説明は、瀬戸は、現実側のことを淡々と話した。余計な感情は乗せない。ただ、必要なことだけ。
「雪の残る蔵王峠を越えて、村上盆地突っ切って、葉山、月山、羽黒山って単独で来るんだから、ちょっと普通じゃない感じだったよな」
榊原は完全にゲーマー視点、しかも、すでに格が違うことを認めてしまっている口ぶりだった。
「単独行動っぽかったけど、いかにも修験者ロールって感じ。二回目ともなると、知識も豊富だし、スキルも段違いなんだろうな」
そう、室田が補足して続ける。
「目的は、はっきりしてるタイプ?」
僕が聞く。
「多分、かなり正直な人だと思った。良くも悪くも」
瀬戸は頷いた。
「自分の欲求に」
「なるほどなあ」
榊原が、どこか納得したように言う。
「じゃあ越後や佐渡あたりが、ありそうだな」
「日本海沿いを、南下となると逆方向だね」
室田が地図を指でなぞる。会話は、そこで自然と別の話題に移った。誰も深追いはしない。ただ、その名前、会話の内容が、少しだけ胸に残った。
――東郷、そして人魚の肉。
あのとき、彌彦神社の夜店で、確かに僕の中のあいつは反応した。
人魚の肉は、ただの噂話。でも、この旅では、そういう噂ほど、後になって現実になる。そんな予感だけが、街道の埃と一緒に、靴底にまとわりついていた。
出羽国府、城輪柵に着いたのは、日暮れの少し手前の頃だった。
木柵と土塁。直線的に区切られた区画。倉、役所、馬、武装した役人。羽黒山とは、あまりにも違う。そこは、人が引いた線の集合体だった。祈りよりも、規律が先に立つ場所だ。
相原、榊原、室田は、そのまま着任報告へ向かう。任務としての動きだ。手続きを終えれば、宿も支給される。
「じゃ、あとで合流しましょう」
相原がそう言って、迷いなく人の流れに消えていく。榊原と室田も、その後に続いた。
残ったのは、僕と、瀬戸と、ルリカと、山本。僕らは、国府の外れにある旅宿を取った。
夕方、全員が合流したのは、簡素な詰所の一角だった。手続きの待ち時間。だから、自然と短い打ち合わせになる。
「飽海嶽の入り口、二つあるって話、聞いたか?」
室田が、いかにも拾ってきましたという口調で切り出す。
「蕨岡。龍頭寺。修験の口だな。ここから一時間」
「もう一つは、吹浦。海沿い。神社の口。こっちは三、四時間ってとこかな」
「で、この神社と寺が、仲が悪い、と」
榊原が肩をすくめる。
「んで、そこに蝦夷の豪族の利権も絡んでくる」
相原が付け足す。
「山ってより、人が険しいやつじゃん」
「調査するにも、どう入るか、決めないと」
相原が、そう懸念を挙げる。
そのとき、ルリカが、少しだけ間を置いて口を開いた。
「……私はもう決まってる、吹浦ね」
全員の視線が集まる。
「奉納があるから、そのために来たんだもの」
「おお、とうとうルリカさんのライブ、見れるのか!」
「やったぜ、これは見逃せない」
榊原と室田が、揃っていきり立つ。
「おともだち価格で入れてあげるね」
さすがルリカ。お友だちといいつつ、金をとる。
そして、油断していたところで、彼女は僕を横目で見る。
――マンゾクは来ないの? 見たいなら、おともだち価格で入れてあげるよ?
無言の圧。だが、――僕は行かない。
「ほら、意地張らない」
瀬戸にそう、たしなめられる。
「ルリカさん、みなさん、ご招待しましょう」
そして山本が、大人の対応を口にする。
「仕方ないわね、じゃあ、みんな、ゲーム内で三日後ね」
その一言で、榊原と室田は歓声を上げる。それをしり目に、ルリカが思い出したようにいう。
「そういえば今日はログアウトの日だったね」
……ログアウト? あれ、そんな経ってたっけ。
その言葉に、僕は大きな違和感があった。それを素直に口にする。
「もうそんな時期か」
そう口にすると、榊原がすかさず突っ込む。
「昨日のミーティングでも確認したろ」
記憶にない。いや、あったかもしれない。けど、思い出せない。
「そうだよ、これはログアウト後に、回転ずしで説教ですな」
室田がそうフォローする。でも、回転ずしって、何だろうか。そんな約束した覚えがない。
「まあ、私は奉納が終わったら、しばらくみんなとはお別れ。私、多分、山に入るから」
ルリカが皆に向けて告げる。
「まじすか、俺もついていくよ。護衛で」
榊原が必死で売り込むが、ルリカは軽くいなす。
「気持ちだけ受け取っておく。自分のクエスト頑張んなよ」
ルリカの脇に座る、相原の鋭い目線を感じて、榊原も引き下がる。
「まあ、みんなの力を頼ることもあるかも。私、奉納の後は、山の結界、引き締めないといけないからね」
「へえ、さすが都の巫女ですね」
榊原は、驚いたというより、感心したような声を出した。
「ルリカさんのイベント、結構凝ってますねえ」
室田の頭は常に、実務に向いている。
「手順と所要時間、ちゃんと確認しておいた方がいいですよ」
相原は、山本に向かって、そう伝える。
「まあ、程々にがんばれ」
僕はそう付け加えた。
そして、瀬戸は、何も言わなかった。驚きも、否定も、肯定もない。ただ、静かに、受け止めていた。
「じゃあ、今日はここまでね」
相原がまとめる。
「次回のログイン後は、先はどうなるかわからんけど」
榊原が言う。
「また、よろしくな」
「どうなるかわからんけどって、ルリカさんのライブだけで充分でしょ」
室田が苦笑する。
「私は配信あるから、先に落ちるね。よかったら配信も覗いてね」
ルリカが手を振る。
「みなさん、では奉納で。また、お会いできるのを楽しみにしております。」
山本がそれに続く。
最後に、瀬戸が、こちらを見た。一瞬だけ。
「……じゃあ、また」
「うん。瀬戸さんも」
それぞれが、それだけいって消えていく。視界の端が、淡く滲む。ログアウトの予兆。
――また。
軽い言葉のはずなのに、胸の奥に、妙な重さが残った。そして、そのまま、世界が、静かに暗転した。
明日は、二本投稿いたします。6時と16時です。
よろしくお願い致します。




