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平安京エイリアンズ~彼女の独身垢によって裸にされた感情、さえも  作者: 岬口大鴉
【十日目】

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蜂子皇子

 翌朝、目を覚ましたとき、体は思ったよりも軽かった。

 痛みが消えたわけじゃない。腹の奥には、まだ鈍い違和感が残っているし、力も戻りきってはいない。それでも――「動いていい」という感覚だけは、はっきりしていた。


 昨日は、一人で山に入った。

 無理をしない程度に歩き、呼吸を確かめ、足元の感覚を取り戻して、それで引き返した。それだけのことなのに、戻ってきたときには、妙に充実していた。生きている、という実感が、ちゃんとあった。

 今日は、これからのことを話し合う予定がある。飽海嶽へ向かうかどうかだ。


 宿坊の広間には、朝の光がまだ差し込みきっていなかった。

 卓の上には、簡単な朝食と、地図。庄内平野一帯を描いた粗いものだが、山の位置関係はよく分かる。

 最初に口を開いたのは、榊原だった。


「で、これからだな。予定通りなら、飽海嶽に向かうことになる」


 室田が、腕を組んだまま言う。


「距離は少しあるけど、庄内平野を北へ行くだけだ。途中、出羽の国府あたりに一泊して、まあ二日かけて行くのがいいかな」


 瀬戸は、黙って地図を見ていた。指先が、飽海嶽の位置で止まる。

 その様子を見て、山本が控えめに声を出す。


「……少し、待っていただけると」


 全員の視線が、山本に向いた。


「ルリカさんは、まだ完全には体調が戻っていません。動けはしますけど、無理をすれば、また限界を超えかねません」


 その言葉に、ルリカが小さく息を吐く。


「正直に言えば……、まだ体が追いついてない」


 そう言ってから、僕を見る。


「マンゾクも、だよね」


 否定できなかった。一晩休んで、動けることは動ける。でも、芯の部分が、まだ不安定だ。

 瀬戸が、そこで初めて口を開いた。


「私にも、用事が残っています」


 静かな声だったが、全員が耳を傾けた。


「検校様に、まだお会いできていません。ただ、私はまた戻ってきても構いません」


 榊原が、納得したように頷く。


「じゃあ、二日ほど様子を見る、ってのでどうかな」


「はい、いいと思います」


 瀬戸は、はっきり言った。


「じゃあ、二日後に、出発しましょう」


 相原がまとめると、室田が、軽く笑う。


「了解。その間、各自、自由行動ってことでいいかな?」


 異論は出なかった。情報集め。補給。体調の調整。それぞれ、やることはある。


……ただ、僕は。


「満足くんは?」


 相原にそう言われて、僕は一瞬、言葉に詰まった。


「ええと……」


 考えてみると、確かに。今すぐやるべきことは、特にない。


「山、かな」


 ぽつりと答える。


「遠くには行かない。体が、どこまで動くか確かめたいだけ」


 室田が、気軽に言った。


「なら、今度こそ売れそうなもの拾ってきてくれな」


 その軽さに、少し救われる。

 話は、そこで一段落した。

 飽海嶽へ。次に向かう山として、その名がはっきりと共有された。

 僕は、地図を見下ろしながら思う。


――また、山だ。


 逃げ場じゃない。答えをもらう場所でもない。ただ、山にはいつも試されている気がする。

 その後、榊原は僧兵たちとの演習に行き、室田はいつものように市場へ顔を出しに向かった。相原は、旅の手配で忙しそうだ。ルリカと山本は自室に戻った。休養が必要なのは、その通りなのだろう。

 結果として、手が空いたのは、僕だけだった。


……今日も、リハビリ行くか。


 そう考えた瞬間、背後から声がかかる。


「満足くん」


 振り返ると、瀬戸が立っていた。立ち姿は相変わらず真っ直ぐで、逃げ場を与えない視線をしている。


「少し、いいですか」


 断れる雰囲気じゃない。というより、断る理由もなかった。


「……ああ」


 そう答えると、彼女は小さく頷いた。


「洞窟で、何があったのか。ちゃんと、聞きたいと思って」


 その言葉に、胸の奥で、何かが引っかかる。

 主の声。水の刃。「蜂子と同じだ」と言われたあの瞬間。

 説明できるかどうかは、分からない。でも――誤魔化す気も、なかった。


「……場所、変える?」


「いえ。ここで」


 そう言われて、息を整えた。とにかく話すしか、ないな。僕は覚悟を決めた。


「……主の言葉は、磐梯山のときと、ほとんど同じで」


 そう切り出したとき、自分でも少し驚いた。整理して話そうとしている。つまり、あの出来事は、もう「恐怖」ではなく「経験」になりつつある。


「穢れを持ち込むな、って。理屈も、怒り方も、よく似てた」


 瀬戸は黙って聞いている。相槌も、促しもない。だからこそ、続けられる。


「でも……途中から、変わった気がする」


 言葉を選ぶ。


「どこが、って聞かれると、正直わからない。ただ……追い払う、って感じじゃなくなった。なんか見てるぞ、っていうか」


「試練、みたいな?」


 瀬戸が、淡々と補足する。


「たぶん」


 息を吐く。


「それと……祈りの気配もあった。多分……瀬戸さんの」


 一瞬、瀬戸の呼吸が止まる。でも、その表情は変えなかった。


「それで?」


 静かな促し。


「途中で、主の攻撃が……僕じゃなくて、ルリカに向いた」


 思い出すと、喉の奥が少し詰まる。


「ルリカは、もう限界だった。だから、考えるより先に、体が動いた」


 あの水の刃。冷たさ。腹に走った衝撃。


「間に入った。守ろう、とか……正直、何も考えてなかった」


 瀬戸の視線が、少しだけ鋭くなる。


「……無謀」


「はい」


 否定できない。


「でも、そこで主が言ったんだ。――蜂子と同じだ、って」


 その瞬間の感覚は、今も説明できない。名前を呼ばれたわけじゃない。けれど、確かに重ねられた。


「意味は、分からなかった。でも……敵意は、消えた」


 続ける。


「僕らは、ただ戻りたいだけだ、って言った。あの光の先に、帰りたいだけだ、って」


 少し、間を置いて。


「そしたら、戻してくれた。……変な話だけど」


 自嘲気味に笑う。


「部屋に入った虫が、『戻りたい』って言ったら……僕も、逃がすと思う。そんな感じかも」


 言い終えた瞬間。


「あなたは、虫じゃない」


 瀬戸の声は、低く、はっきりしていた。


「そういう、自分を卑下するいい方、好きじゃない」


 ぴしゃり、と釘を刺される。


「……はい」


 返事をしながら、少し安心している自分に気づく。


「でも」


 瀬戸は、すぐに続けた。


「主が、あなたを単に追い出さなかった理由は、そこではないと思う」


 視線が、こちらに定まる。


「穢れを持ち込んだことは、事実。それでも、試した。そして――あなたが、どう背負うかを、見た」


 静かな分析。


「蜂子皇子も、そうだったのかも。逃げなかった。拒まなかった。だから、山に受け入れられた」


 そこで、ほんの一瞬だけ、瀬戸の声が柔らぐ。


「……あなたは、同じ型に入った。のかもしれない」


 型。

 それは、祝福とも、呪いとも取れる言葉だった。


「だから」


 瀬戸は、結論を出す。


「蜂子皇子について、きちんと話を聞きにいこう。推測ではなく、伝承として」


 少しだけ、視線を逸らす。


「主がそう口にした以上、無関係ではすませてはだめだと思う」


 僕は、ゆっくり頷いた。


 羽黒山の僧房の奥は、ひっそりとしていた。窓はない。灯も落としてある。声だけが、壁に吸われていく。


「検校様は、まだお戻りではありません」


 そう前置きしてから、年配の僧はゆっくり腰を下ろした。


「私たちは明後日、飽海嶽へ出立することになりそうです。私は、用をすませたら、また戻ってきます」


「それがいいかもしれません」


 僧は、そう言うと瀬戸に一礼し、次に、僕を見る。


「それで、彼が、蜂子皇子のことを知りたい、と?」


「はい」


 答えたのは瀬戸だった。


「洞窟の、いや池の主が、その名を口にしました。――同じだ、と」


 僕はそう付け加えた。

 僧は、わずかに目を細める。


「……なるほど」


 それだけで、多くを察したようだった。


「蜂子皇子……、聖者様は特別な方です。この地の開祖ですので、山にとっても、もちろん特別ですが、それ以上に、あの方ご自身が特別なのです」


 低い声で、語り始める。


「時代は、物部守屋が滅びた直後。仏法が朝廷に入り、古い信仰と新しい信仰が激しくぶつかっていた頃です」


 瀬戸が、静かに補足する。


「崇峻天皇が、蘇我馬子の手の者によって暗殺された直後ですね。日本史上、唯一、殺されたと明確に伝わる天皇です」


……思ったより、ずっと血なまぐさい時代だな。


 僕は、思わず息を呑んだ。


「聖者様は、その崇峻天皇の御子でした」


 僧が、続ける。


「父は殺され、母は失われ、聖者様自身も命を狙われました。それを救ったのが――聖徳太子です」


 瀬戸が、はっきり言った。


「太子は、皇子を都から逃がした。その行き先が、ここ出羽だった、と」


 僧は、深く頷く。


「はい。そう伝えられています。名を捨て、位を捨て、聖者様はこの地に落ち延びました」


 僧は、一枚の肖像画を差し出した。墨の線は荒く、顔立ちは歪んでいる。祈っているのか、耐えているのか分からない目が印象的だった


「……ずいぶん、怖い顔ですね」


 思わず、口をついて出た。


「普通の見方をすれば、そうかもしれませんね」


 僧は、穏やかに言う。


「醜いと。ただ、このお姿になられたのには理由があります。それは、聖者様が人の業を、罪を、その身に背負ったから、です」


 胸の奥が、少し重くなる。


「聖者様は、この山に入り、修行を始めました。人を避け、里を離れ――」


「あの洞窟ですね」


 瀬戸が言う。


「海岸線の洞窟。修験の場として、最も古い、そして厳しい」


 僧は、驚いたように瀬戸を見る。


「よく、ご存じで」


……あの洞窟。


 水の音。圧。主の気配。背筋に、薄く汗が滲む。


「聖者様は、そこで一度死を迎えられ、そして生まれ直したとされます」


 僧の声が、少し低くなる。


「もはや、都の皇子ではない。だが、ただの山人でもない」


「能除聖者」


 瀬戸が、静かに言った。


「穢れを祓い、背負い、流す者」


 僧は、肯いた。


「修行の中で聖者様は自分のやるべきことを見つけられた、それが人の罪を引き受ける存在だった。だからこそ、この地で――」


 言葉を切り、僧は僕を見た。


「龍神様と通じることができたのでしょう」


 沈黙が落ちる。

 瀬戸は、ゆっくり息を吐いた。


「龍神様が彼をここに連れてきた後、神託がありました」


「小手姫、聖者様の母君の神託ですね」


 瀬戸が、静かに頷く。


「すでに、ご存知でしたか」


「はい」


 瀬戸は、淡々と続ける。


「皇子は死と再生の境にある。その旅路を支えよと」


 僧は、長く息を吐いた。


「それは……蜂子皇子、聖者様が辿った道、そのものです」


 胸の奥で、ようやく色々と噛み合ってくる。


「……あのとき」


 僕は、ぽつりと言う。


「龍神様は、最後に言いました。――同じか、蜂子と」


 僧は、はっきり答えた。


「試されたのです」


「……何を?」


「背負うか、逃げるか」


 その一言が、重い。


「蜂子皇子は、逃げなかった。だから、この山は、彼を受け入れた」


 瀬戸が、僕を見る。


「あなたも、同じ問いを突きつけられた。そして――」


「逃げなかった、か」


 自分で言って、少し苦笑する。


「正直、そんな立派なもんじゃない。ただ……体が動いただけだ」


「それで十分だったのでしょう」


 僧が、静かに言った。


「選び続けること。それが、龍神様に認められたということだと思います」


 部屋が、また静かになる。

 僕は、肖像画を見つめた。歪んだ顔。背負いすぎた人の顔。ようやく、色々と腑に落ちた。


 僕たちは礼を言い、僧房を出た。


「同じか……」


 誰にともなく、呟く。


「逃げ場がなくなって、山に来るところとか。全部、一人で抱え込もうとするところとか」


 瀬戸は、少しだけ目を伏せた。


「自覚したなら」


 そして、言う。


「次は、一人で背負わないこと」


 その言葉が、やけに重く、そして確かだった。


「もちろん気を付ける、よ」


 蜂子皇子。山で生まれ変わり、人の業を背負う存在。


……僕は、そこまで行く気はない。


 けど。少なくとも。同じ問いを投げられる場所には、立ってしまったらしい。そう思いながら、僕は、もう一度、あの肖像画の顔を思い返していた。

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