蜂子皇子
翌朝、目を覚ましたとき、体は思ったよりも軽かった。
痛みが消えたわけじゃない。腹の奥には、まだ鈍い違和感が残っているし、力も戻りきってはいない。それでも――「動いていい」という感覚だけは、はっきりしていた。
昨日は、一人で山に入った。
無理をしない程度に歩き、呼吸を確かめ、足元の感覚を取り戻して、それで引き返した。それだけのことなのに、戻ってきたときには、妙に充実していた。生きている、という実感が、ちゃんとあった。
今日は、これからのことを話し合う予定がある。飽海嶽へ向かうかどうかだ。
宿坊の広間には、朝の光がまだ差し込みきっていなかった。
卓の上には、簡単な朝食と、地図。庄内平野一帯を描いた粗いものだが、山の位置関係はよく分かる。
最初に口を開いたのは、榊原だった。
「で、これからだな。予定通りなら、飽海嶽に向かうことになる」
室田が、腕を組んだまま言う。
「距離は少しあるけど、庄内平野を北へ行くだけだ。途中、出羽の国府あたりに一泊して、まあ二日かけて行くのがいいかな」
瀬戸は、黙って地図を見ていた。指先が、飽海嶽の位置で止まる。
その様子を見て、山本が控えめに声を出す。
「……少し、待っていただけると」
全員の視線が、山本に向いた。
「ルリカさんは、まだ完全には体調が戻っていません。動けはしますけど、無理をすれば、また限界を超えかねません」
その言葉に、ルリカが小さく息を吐く。
「正直に言えば……、まだ体が追いついてない」
そう言ってから、僕を見る。
「マンゾクも、だよね」
否定できなかった。一晩休んで、動けることは動ける。でも、芯の部分が、まだ不安定だ。
瀬戸が、そこで初めて口を開いた。
「私にも、用事が残っています」
静かな声だったが、全員が耳を傾けた。
「検校様に、まだお会いできていません。ただ、私はまた戻ってきても構いません」
榊原が、納得したように頷く。
「じゃあ、二日ほど様子を見る、ってのでどうかな」
「はい、いいと思います」
瀬戸は、はっきり言った。
「じゃあ、二日後に、出発しましょう」
相原がまとめると、室田が、軽く笑う。
「了解。その間、各自、自由行動ってことでいいかな?」
異論は出なかった。情報集め。補給。体調の調整。それぞれ、やることはある。
……ただ、僕は。
「満足くんは?」
相原にそう言われて、僕は一瞬、言葉に詰まった。
「ええと……」
考えてみると、確かに。今すぐやるべきことは、特にない。
「山、かな」
ぽつりと答える。
「遠くには行かない。体が、どこまで動くか確かめたいだけ」
室田が、気軽に言った。
「なら、今度こそ売れそうなもの拾ってきてくれな」
その軽さに、少し救われる。
話は、そこで一段落した。
飽海嶽へ。次に向かう山として、その名がはっきりと共有された。
僕は、地図を見下ろしながら思う。
――また、山だ。
逃げ場じゃない。答えをもらう場所でもない。ただ、山にはいつも試されている気がする。
その後、榊原は僧兵たちとの演習に行き、室田はいつものように市場へ顔を出しに向かった。相原は、旅の手配で忙しそうだ。ルリカと山本は自室に戻った。休養が必要なのは、その通りなのだろう。
結果として、手が空いたのは、僕だけだった。
……今日も、リハビリ行くか。
そう考えた瞬間、背後から声がかかる。
「満足くん」
振り返ると、瀬戸が立っていた。立ち姿は相変わらず真っ直ぐで、逃げ場を与えない視線をしている。
「少し、いいですか」
断れる雰囲気じゃない。というより、断る理由もなかった。
「……ああ」
そう答えると、彼女は小さく頷いた。
「洞窟で、何があったのか。ちゃんと、聞きたいと思って」
その言葉に、胸の奥で、何かが引っかかる。
主の声。水の刃。「蜂子と同じだ」と言われたあの瞬間。
説明できるかどうかは、分からない。でも――誤魔化す気も、なかった。
「……場所、変える?」
「いえ。ここで」
そう言われて、息を整えた。とにかく話すしか、ないな。僕は覚悟を決めた。
「……主の言葉は、磐梯山のときと、ほとんど同じで」
そう切り出したとき、自分でも少し驚いた。整理して話そうとしている。つまり、あの出来事は、もう「恐怖」ではなく「経験」になりつつある。
「穢れを持ち込むな、って。理屈も、怒り方も、よく似てた」
瀬戸は黙って聞いている。相槌も、促しもない。だからこそ、続けられる。
「でも……途中から、変わった気がする」
言葉を選ぶ。
「どこが、って聞かれると、正直わからない。ただ……追い払う、って感じじゃなくなった。なんか見てるぞ、っていうか」
「試練、みたいな?」
瀬戸が、淡々と補足する。
「たぶん」
息を吐く。
「それと……祈りの気配もあった。多分……瀬戸さんの」
一瞬、瀬戸の呼吸が止まる。でも、その表情は変えなかった。
「それで?」
静かな促し。
「途中で、主の攻撃が……僕じゃなくて、ルリカに向いた」
思い出すと、喉の奥が少し詰まる。
「ルリカは、もう限界だった。だから、考えるより先に、体が動いた」
あの水の刃。冷たさ。腹に走った衝撃。
「間に入った。守ろう、とか……正直、何も考えてなかった」
瀬戸の視線が、少しだけ鋭くなる。
「……無謀」
「はい」
否定できない。
「でも、そこで主が言ったんだ。――蜂子と同じだ、って」
その瞬間の感覚は、今も説明できない。名前を呼ばれたわけじゃない。けれど、確かに重ねられた。
「意味は、分からなかった。でも……敵意は、消えた」
続ける。
「僕らは、ただ戻りたいだけだ、って言った。あの光の先に、帰りたいだけだ、って」
少し、間を置いて。
「そしたら、戻してくれた。……変な話だけど」
自嘲気味に笑う。
「部屋に入った虫が、『戻りたい』って言ったら……僕も、逃がすと思う。そんな感じかも」
言い終えた瞬間。
「あなたは、虫じゃない」
瀬戸の声は、低く、はっきりしていた。
「そういう、自分を卑下するいい方、好きじゃない」
ぴしゃり、と釘を刺される。
「……はい」
返事をしながら、少し安心している自分に気づく。
「でも」
瀬戸は、すぐに続けた。
「主が、あなたを単に追い出さなかった理由は、そこではないと思う」
視線が、こちらに定まる。
「穢れを持ち込んだことは、事実。それでも、試した。そして――あなたが、どう背負うかを、見た」
静かな分析。
「蜂子皇子も、そうだったのかも。逃げなかった。拒まなかった。だから、山に受け入れられた」
そこで、ほんの一瞬だけ、瀬戸の声が柔らぐ。
「……あなたは、同じ型に入った。のかもしれない」
型。
それは、祝福とも、呪いとも取れる言葉だった。
「だから」
瀬戸は、結論を出す。
「蜂子皇子について、きちんと話を聞きにいこう。推測ではなく、伝承として」
少しだけ、視線を逸らす。
「主がそう口にした以上、無関係ではすませてはだめだと思う」
僕は、ゆっくり頷いた。
羽黒山の僧房の奥は、ひっそりとしていた。窓はない。灯も落としてある。声だけが、壁に吸われていく。
「検校様は、まだお戻りではありません」
そう前置きしてから、年配の僧はゆっくり腰を下ろした。
「私たちは明後日、飽海嶽へ出立することになりそうです。私は、用をすませたら、また戻ってきます」
「それがいいかもしれません」
僧は、そう言うと瀬戸に一礼し、次に、僕を見る。
「それで、彼が、蜂子皇子のことを知りたい、と?」
「はい」
答えたのは瀬戸だった。
「洞窟の、いや池の主が、その名を口にしました。――同じだ、と」
僕はそう付け加えた。
僧は、わずかに目を細める。
「……なるほど」
それだけで、多くを察したようだった。
「蜂子皇子……、聖者様は特別な方です。この地の開祖ですので、山にとっても、もちろん特別ですが、それ以上に、あの方ご自身が特別なのです」
低い声で、語り始める。
「時代は、物部守屋が滅びた直後。仏法が朝廷に入り、古い信仰と新しい信仰が激しくぶつかっていた頃です」
瀬戸が、静かに補足する。
「崇峻天皇が、蘇我馬子の手の者によって暗殺された直後ですね。日本史上、唯一、殺されたと明確に伝わる天皇です」
……思ったより、ずっと血なまぐさい時代だな。
僕は、思わず息を呑んだ。
「聖者様は、その崇峻天皇の御子でした」
僧が、続ける。
「父は殺され、母は失われ、聖者様自身も命を狙われました。それを救ったのが――聖徳太子です」
瀬戸が、はっきり言った。
「太子は、皇子を都から逃がした。その行き先が、ここ出羽だった、と」
僧は、深く頷く。
「はい。そう伝えられています。名を捨て、位を捨て、聖者様はこの地に落ち延びました」
僧は、一枚の肖像画を差し出した。墨の線は荒く、顔立ちは歪んでいる。祈っているのか、耐えているのか分からない目が印象的だった
「……ずいぶん、怖い顔ですね」
思わず、口をついて出た。
「普通の見方をすれば、そうかもしれませんね」
僧は、穏やかに言う。
「醜いと。ただ、このお姿になられたのには理由があります。それは、聖者様が人の業を、罪を、その身に背負ったから、です」
胸の奥が、少し重くなる。
「聖者様は、この山に入り、修行を始めました。人を避け、里を離れ――」
「あの洞窟ですね」
瀬戸が言う。
「海岸線の洞窟。修験の場として、最も古い、そして厳しい」
僧は、驚いたように瀬戸を見る。
「よく、ご存じで」
……あの洞窟。
水の音。圧。主の気配。背筋に、薄く汗が滲む。
「聖者様は、そこで一度死を迎えられ、そして生まれ直したとされます」
僧の声が、少し低くなる。
「もはや、都の皇子ではない。だが、ただの山人でもない」
「能除聖者」
瀬戸が、静かに言った。
「穢れを祓い、背負い、流す者」
僧は、肯いた。
「修行の中で聖者様は自分のやるべきことを見つけられた、それが人の罪を引き受ける存在だった。だからこそ、この地で――」
言葉を切り、僧は僕を見た。
「龍神様と通じることができたのでしょう」
沈黙が落ちる。
瀬戸は、ゆっくり息を吐いた。
「龍神様が彼をここに連れてきた後、神託がありました」
「小手姫、聖者様の母君の神託ですね」
瀬戸が、静かに頷く。
「すでに、ご存知でしたか」
「はい」
瀬戸は、淡々と続ける。
「皇子は死と再生の境にある。その旅路を支えよと」
僧は、長く息を吐いた。
「それは……蜂子皇子、聖者様が辿った道、そのものです」
胸の奥で、ようやく色々と噛み合ってくる。
「……あのとき」
僕は、ぽつりと言う。
「龍神様は、最後に言いました。――同じか、蜂子と」
僧は、はっきり答えた。
「試されたのです」
「……何を?」
「背負うか、逃げるか」
その一言が、重い。
「蜂子皇子は、逃げなかった。だから、この山は、彼を受け入れた」
瀬戸が、僕を見る。
「あなたも、同じ問いを突きつけられた。そして――」
「逃げなかった、か」
自分で言って、少し苦笑する。
「正直、そんな立派なもんじゃない。ただ……体が動いただけだ」
「それで十分だったのでしょう」
僧が、静かに言った。
「選び続けること。それが、龍神様に認められたということだと思います」
部屋が、また静かになる。
僕は、肖像画を見つめた。歪んだ顔。背負いすぎた人の顔。ようやく、色々と腑に落ちた。
僕たちは礼を言い、僧房を出た。
「同じか……」
誰にともなく、呟く。
「逃げ場がなくなって、山に来るところとか。全部、一人で抱え込もうとするところとか」
瀬戸は、少しだけ目を伏せた。
「自覚したなら」
そして、言う。
「次は、一人で背負わないこと」
その言葉が、やけに重く、そして確かだった。
「もちろん気を付ける、よ」
蜂子皇子。山で生まれ変わり、人の業を背負う存在。
……僕は、そこまで行く気はない。
けど。少なくとも。同じ問いを投げられる場所には、立ってしまったらしい。そう思いながら、僕は、もう一度、あの肖像画の顔を思い返していた。




