山の中の安息
一日、休んだ。眠った、というより、落ちていたに近い。夢は見なかった。少なくとも、覚えていない。目を開けたとき、天井は見慣れない木目で、呼吸はちゃんと自分のものだった。
起き上がってみる。
……動く。
重い。鈍い。だが、壊れてはいない。腹に走る違和感に一瞬だけ身構えるが、痛みはもう鋭くない。体の内側で、何かが馴染もうとしている感じがした。
「……行けるな」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
外に出る前に、室田に声をかけた。羽黒山には穢れを持ち込めない。これは、もう身に染みている。
「市場で売れそうなもの、何がいいと思う?」
室田は、あっさり返した。
「僕が買い取るから、好きに集めてきたら?」
軽い。だが、その軽さに、変な気負いがなくて助かった。
「高く買ってくれるのか?」
「いいよ。どうせ情報料みたいなもんだし」
そういう問題じゃない気もしたが、今は突っ込まなかった。
装備を確かめる。鷺沢が用意してくれた装備は、あの過酷な洞窟をくぐり抜ける過程で、少し痛みはしたが、交換しなければならないほど消耗してはいなかった。元々、重さを感じない着心地で、縫い目も丁寧だったが、実際に使ってみるとこの耐久性の高さには驚いた。センスはともかく、機能性と耐久性を兼ね備えたいいチョイスだったと、鷺沢の見立てを認めざるを得ない。
腰の山刀を抜き、刃を確かめる。欠けはない。鞘に戻すとき、指に伝わる感触が、少しだけ違った。
……重さが、均一だ。
前は、抜くたびに微妙な違和感があった。刃そのものじゃない。自分の動きのほうが、刃に追いついていない感じ。今は、それがない。
僕は、この山刀だけを腰に残して、羽黒の裾野に入った。
庄内平野は、思ったよりも閉じている。北に飽海嶽が壁のように立ち、東南に羽黒山。その奥に月山と湯殿山が控えている。さらに越えれば葉山、そして村山盆地。地図で見るより、身体で感じるとよく分かる。
ここは、盆地じゃない。囲われた平野だ。
今日は遠くへは行かない。山に入り、沢をひとつ越え、尾根に少し触れる。それだけの予定だった。歩きながら、自然と記憶が戻ってくる。
日本海。冷たい水。視界を奪われる感覚。そして、洞窟の闇。水の音。光の気配。奥で待っていた――主。
あの圧。怒り。正しさ。
そこに、自分が土足で踏み込んだという、疑いようのない事実を思い出して、胸の奥がわずかに軋む。
だが、恐怖はもうない。あのとき、確かに死にかけた。それでも、生きて戻った。その感触を確かめるように、足元の草葉を踏む。影が、遅れてついてくる。
……いや。
遅れている、というより、間を取っている。意識を向けると、影は静かだ。暴れない。主張しない。ただ、そこにある。
「……一緒に歩いてる、か」
そう考えると、不思議と悪くなかった。沢で手を止め、歩き出す。一歩、二歩。地面を踏む。身体の内側に、意識を向ける。
……いる、にはいる。
はっきり分かる。ただ、近すぎない。以前は、胸の奥に塊があった。動くたびに、内側から押し返されるような重さ。今は、それがない代わりに、輪郭の曖昧な気配が、体全体に薄く広がっている。
「……かなり、使ったからな。馴染んだかな」
主との戦い。最後まで、意識だけは手放さなかった。
そのあと――聞いた話では、三日以上、僕は繭みたいになっていたらしい。
繭。さなぎ。
……あれってさ、中でぐちゃぐちゃになるんじゃなかったっけ。
思わずそう考える。幼虫が溶けて、再構成されて、成虫になる。そして、それを変態って言う。
……僕が?
一瞬、真顔になる。
「いや、違うだろ。僕は紳士だ」
誰に言い訳してるのか分からないが、思わず口に出して、即座に否定した。だが、歩きながら、別の考えが浮かぶ。
……でも。あのとき、見ていた夢。
夢、だったのか? このゲームの中で、あんな感覚を持ったことはなかった。そもそも、ゲーム内で夢を見るのが初めてなので、夢の感覚がわからない。
時間が溶けて、上下も内外も曖昧で、触れられているのに、触れられていないような。包まれて、ほどかれて、また戻されるようなイメージが残っている。
怖くはなかった。むしろ、否定されていなかった。
……あれ、夢じゃなかった?
そう思うと、背中に微かな寒気が走る。夢なら、もっと都合よく終わる気もするし、もしくはその逆で、もっと理不尽に終わる気もする。あれは、途中で放り出されなかった。
生きていい、と言われたわけでもない。死ね、と言われたわけでもない。ただ、通されたような感覚だった。
水音。その奥で、瀬戸の声、ルリカの息遣い。かすかに聞いていたような気がする。そして、自分の中を流れていった、重さ。
「……何かが変わった、のか?」
問いは宙に浮いたまま、答えは返ってこない。
でも、確かなことが一つだけある。あいつは、今もいる。ただし――前みたいな感覚がない。まるで、後ろに下がって、「次はどうする?」と聞いているみたいに。
少し歩くと、カモシカを見かけた。静かに、こちらを見ている。売れば高い、と室田が言っていたのを思い出す。でも今日は、リハビリ、お試しだ。獲物にするには大きすぎる。狩らない、という選択肢を選べるくらいには、余裕が戻ってきている。
その先で、ふと見つけた。
――天蚕。
葉の裏に、静かにぶら下がっていた。
また、繭。外から見ている分には、綺麗だ。中がどうなっているかなんて、考えなければ。
指先で、そっと触れる。軽い。壊れないように、慎重に枝ごと切り取る。
「……これは、約束だからな」
鷺沢の顔が浮かぶ。持って帰る。それが、取引だ。
布で包み、潰れない位置にしまう。
布――ああ、布ももっと欲しい。鍋も。折りたたみのやつ。あと濡れても使える火。明かり。蝋燭買うか。松明はもう信用しない。
必要なものを、ちゃんと考えられる。それだけで、少し安心した。
山を下りながら、体の奥に意識を向ける。あいつは、いる。静かだ。でも、消えてはいない。今は、眠っている、という表現が一番近い。
「……しばらくは、仲良くしような」
冗談半分で言ってみる。返事はないが、それでいい。
羽黒の山が見えてきた。今日の成果は、繭と、確認が一つ。
……僕は、ちゃんと歩ける。
それだけで、今日は十分だった。




