馬と向き合う
近衛恒一は、集められた馬を見ていた。歯を、歯茎の色を、舌の湿り、呼気。そして、その肌つや、毛並み、歩様。馬は、わかりやすい。嘘をつかない。そういう存在と向き合うことで、自分の中の整理しきれないものを、なんとか整えようとしていた。
「次」
兵が手綱を引いてくる。
その横で、藤巻が帳面を開き、淡々と数字を追っていた。
宿場、交代馬、護衛の班割り。出立はまだ先だ。
二か月。だが二か月など、準備の前では一息に等しい。現実時間では二日で出立となる。さらに、そこから一か月の行程をかけて京へと向かう。道中は残暑が残る。水と塩、休憩の刻み、夜営の安全――考えることは山ほどある。
だから、本来なら、それに集中しているはずだった。
……はずだった。
手袋の内側で、指が無意識に首元へ触れそうになる。それを止める。癖にするな、と自分に言い聞かせる。触れたところで、状況が動くわけじゃない。触れないから苛立つ、というのも違う。
ただ、あの沈黙が続いている。
少し前にも一度だけあった。日本海の上。船の中。短い時間だった。その後、すぐに回復し、満足と京崎ルリカが落水したという状況が把握できた。その後は、特に問題はなかった。
だから、その一件は偶発的なノイズとして処理した。荒海という環境、いわゆるトンネル内で電波が届かないみたいな受信状況のせいにして、切り捨てた。
だが今回は――長い。その時間の長さを数えるのはやめた。数えた瞬間、苛立ちが形になるからだ。
「近衛」
藤巻が、馬の一覧から顔を上げた。
「第三隊の馬が一頭、脚を痛めています。差し替えを――」
「却下だ」
即答だった。自分でも鋭すぎると思う。藤巻の眉が、ほんの少し動く。
「……しかし、二か月後の出立を考えると、今のうちに――」
「却下だと言った」
言ったあとで、空気が固まるのがわかった。周囲の兵が、視線を逸らす。俺の後ろに控えている三好も、口を閉じる。
藤巻は、声を荒げない。荒げないから余計に響く。
「近衛、その判断に合理的な理由があるのか?」
「脚の判断は明日に回す。今日は一覧を完成させる」
自分で言って、自分の声が乾いているのがわかった。後回しにすることで苛立ちを覆っているだけだ。
馬が鼻を鳴らす。俺は馬の首を撫で、指先に残る熱で、理性を繋ぎとめた。
藤巻は一拍置いて頷いた。従う。従うが、納得していない。納得させる必要がある。だが、説明はできない。説明できない苛立ちほど、厄介なものはない。
俺は視線を上げ、宿場の名を記した札を眺める。秋の初めに京へ向かう。そこまでは任務だ。役目だ。だが今、頭の中でそれとは別の線が絡んでいる。
羽黒山。
「落水した者が戻った」
「穢れがある」
「瀬戸が祓うと宣言した」
その後、彼女は部屋に籠り、見えなくなった。
部屋の外の情報は、曖昧な噂しかない。さらに山内の者どもは口が重い。修験の山は、必要以上に語らない。語らないことで力を守るかのように。
俺は、唇の内側を噛んだ。そして、藤巻に探るように言う。探っていると悟られない程度に、あくまで公務の体裁で。
「羽黒山の状況はどうなってる」
藤巻が即座に答える。これも、準備の一部として処理している声だ。
「報告はある。ただし、やはり精度が低い。山内の僧房からの文はラグがあるし、ログの文言も揺れる」
「内容は」
「祓いのために閉じ籠ったという趣旨だ。人払いをし、宿坊の中に、だな。あと、秡川の水を大量に使ったとも」
秡川――禊の水。つまり儀式だ。正式な手順を踏んでいる。筋は通る。ただ、それで苛立ちが消えるわけじゃない。
「閉じた、か」
言葉にしただけで、胸の奥がざらつく。閉じる。遮断する。境界を立てる。それは、向こうの都合だ。しかし――少なくとも、管理者である自分にとっては許容できないことだった。
藤巻が続ける。
「寄進の件で、貞盛様から山への話は通っている。表向きの情報は取れる。ただ……中で何が行われていたか、そこまでは確認できない」
確認できない。その一言が、耳に刺さる。俺は、それ以上追わない。追えない。ここで踏み込みすぎると、藤巻はその理由を疑う。疑われたら終わりだ。
俺は視線を外し、別の札に目を移す。宿の数、護衛の交代、夏の終わりの水の確保。任務に戻れ。任務に戻れば、雑音は薄まる。今は待つことが最善だ。秀郷も、そんな俺を評価していた。だが……。
……薄まらない。
頭の隅に、どうしても一つの像が残る。見えない部屋。窓のない宿坊。封印された扉。その中で、何が行われている。瀬戸、そして満足は、その密室で、何をしている。何を選んだ。
俺は、手袋を締め直し、藤巻へ命じる。
「馬の差し替え案は、第三隊を残す案と、入れ替える案。二つ検討のうえで、報告を。宿の手配も、暑さ前提で水場のある宿を優先だ」
「承知した」
藤巻は、淡々と帳面に書く。その手が腹立たしいほど落ち着いて見える。
俺は、少しだけ声を落とす。落とすことで、怒りを隠す。
「……直人」
「ん?」
「羽黒山の報せは、来たら即座に回してくれ。内容が薄くてもいい」
藤巻が一瞬だけ目を上げる。
「ならば一件ある。今の件とは直接は関係ないが、京から飽海嶽に派遣されている者がいる」
「京崎ルリカのことなら知ってる」
「それとは、別だ。おそらく、彼女のサポートとして追加の人員を送ったのだろう」
「京崎の目的は?」
「それは依然としてわからんが、仮説ならば一つある。まあ、お前の考えとそう変わらんだろうが」
そう答えが返って、俺は息を吐いた。
京崎の任務は、恐らく磐梯山のときの俺の役割と同じだろう。そして、そこに瀬戸と満足が向かっている。ならば、その再現が飽海嶽でなされるかもしれない。それは、一つ介入を必要とする事態にもなり得るだろう。
そう考えたところで、僅かに頭を振る。
……俺は動く理由を探している?
今はそのときではない。動かない、待つことで、状況はいくらでもよくなるはずだ。その準備、仕込みも完了している。
心を落ち着けようとする。そう振舞うことが何より大事だ。そして、それができているはずだ。
……できていない。
馬の背を軽く叩いた。そして、自分に言い聞かせるように、胸の内で繰り返す。
二か月後に京へ行く。その前に、すべてを完璧に整える。それを、順にこなしていけば、あとは俺の考え通りに事は進む。そのはずだ。
あとは――俺が謝罪をしたとき、彼女がどんな顔をするかだ。
俺は、笑わない。今、笑えば感情が漏れる。とにかく、今は冷静に、平静に、ただそうあるだけでいい。だからただ、指を組み、淡々と馬を見る。




