生死の境界を介す
最初に触れた瞬間、京崎ルリカは、思わず息を止めた。
――重い。
影は、これまでに感じたことがない感触を持っていた。はっきりと「量」があるのに、現実感がない。でも質量は確実にある。冷たい。濡れた土をそのまま抱え込んだような感触。皮膚に張りつき、指の隙間から逃げない。
それが、絡みつく。
――足首。脛。膝。腿。腰。
巫女装束の裾の内側で、影が蠢くのが分かる。逃げ道を探すように、あるいは、入り口を探すように。
「……っ」
声が漏れそうになるのを、歯を食いしばって抑える。
これは、祓いだ。けれど――これまで知っていた「祓い」とは違う。
……少し怖い……。
横を見ると、瀬戸がいた。
彼女は、表情を歪めている。苦しそうだ。呼吸が浅く、肩が小さく上下している。それでも、彼女は止めていない。
影は、彼女の身体にも絡みついている。腰に、腹に、胸に。はっきりと、内側へと入り込んでいるのが、私にも分かった。
そのとき、瀬戸が、小さく呟いた。
「……この影」
声は低く、震えていた。
「彼が、背負っていたものだと思えば……」
一瞬、息を整えてから、続ける。
「……受け入れるのは、怖くありません」
その言葉が、胸に落ちた。影は、たしかに重い。冷たく、絡みつきながら、体の奥へ流れ込んでくる。内に触れられる感覚。押されるような、満たされるような、居心地の悪さ。
苦しい。だが――満足の顔が、浮かぶ。
荒れた日本海で、そして洞窟の中の水道で、抱きかかえられたときに触れた彼の体。水の刃を受け止めたときの背中。何も考えず、体が動いただけだと言った声。
……これを、彼は一人で背負っていた。
そう思った瞬間、私は、息を吐いた。
……逃がさない。拒まない。……私の中を通す。
影が、腹の奥に入り込む。そこから、胸を抜け、喉へ向かう。
「うっ……」
声が出る。涙が滲む。それでも、目を逸らさない。
やがて、影の細かな滓が、私の体を通して、山に流れていく感覚が伝わる。
……出ていく。
少し前にあった緊張から、私の体は僅かにだが解放される。そして、ひとときの弛緩に浸る。しかし、空いた隙間に、また影は入り込んでくる。この繰り返しだった。
「……はっ、……っく」
瀬戸も同じだ。自らの体を通し、その穢れを絶え間なく、流し続けている。
そんな時間がずっと続いた。
私たちも、永遠に続けられるわけではない。どちらかが限界に近づくと、入れ替わる。一方が床に膝をつき、呼吸を整え、もう一方が、影を引き受ける。その繰り返しだった。
ただ――満足の身体に変化は、ない。
影は、確実に通っている。ただ、見た目は変わったようには見えない。依然として固い。繭のまま、殻を閉ざしたままだった。
変化は、見えないけど、それでも、私たちはやめなかった。
額の汗を拭い、次に影に触れたとき、自分が前ほど戸惑っていないことに気づいた。重さは同じ。冷たさも、絡みつく感触も、変わらない。けれど、身体が、その流れを知っている。慣れてきたのだ。
瀬戸は、さらに一歩、踏み込んでいた。
全身からは疲労の気配がある。呼吸も荒く、全身から発汗し、その表情も赤く染まっている。それでも、彼女の集中が、高まるのが分かる。その分、影は、以前よりもはっきりと彼女に集まる。量が増え、流れ込む速度も増している。
だが、苦しそうに、息を詰めながらも、彼女は止まらない。
そのときだった。
――微かに。満足の胸が、上下した。
「……呼吸」
私は、思わず呟いた。
確かに、息をしている。弱いが、意識のない呼吸ではない。影が、ほんのわずか、柔らいだ。殻の表面が、以前ほど硬くない。触れれば、まだ冷たい。だが、拒絶する硬さではない。
――生きている。
その実感が、私たちを支えた。
影は、さらに絡みつく。中へ、中へと、深く入り込む。
怒り。痛み。妬み。諦めきれなかった瞬間。言葉にならない感覚が、身体を通る。声が、漏れる。呼吸が乱れる。それでも、私たちは流し続けた。
膝をつく回数だけ、息が浅くなった。その感覚も薄れてきた頃、影の「重さ」が、変わった。同じ量のはずなのに、どこか、滑らかになった。
繭の表面が、垂れる。割れるのではない。力を失い、形を保てなくなっている。それと引き換えに、横たわる満足の呼吸が、深くなる。一つ。また一つと。
影は、まだ残っている。だが、それはもう、閉じ込める殻ではない。流れるものになっていた。
私は、息を吐きながら思った。
――これは、祓いだけど、祓いじゃない。生と死の、境を通す儀式だ。
母胎へ戻り、もう一度、生の側へ送り返す。そのための道を、自分たちの身体で、整えている。
それに気づいた頃だろうか、次第に影が、影に戻る。物としての強度を失い、重さだけを残して、溶ける。そして、彼の輪郭が、はっきりする。呼吸が整う。人の形が、そこにあった。
私は、床に手をつき、深く、息を吐いた。
終わった、とは思わなかった。ただ――彼は、戻る道の上にいる。その確信があった。
明日は、二本投稿いたします。6時と16時です。
よろしくお願い致します。




