祓いの支度
この宿坊の一室には、窓がない。もともと修行用に切られた部屋で、外界とつながるのは一枚の扉だけだ。その扉も今は、内側から封じている。札と結界が重なり、開閉の気配すら遮断していた。
ここに入れる者はいない。声も、視線も、踏み込む意志も。外にいる誰かが感じ取れるのは、せいぜい気配だけだろう。
瀬戸澄佳は一度、深く息を吐いた。空気は澱んでいない。整っている。場としては、申し分なかった。
床の中央。満足は横たわっている。黒い影が、繭のように彼の身体を包み込んでいる。硬質化したそれは、表面に鈍い艶を帯び、まるで石と生皮の中間のようだった。
呼吸はある。だが、外から分かるのはそれだけだ。意識は深く沈み、生と死のあわいに留め置かれている。時間は、ある。だが、永遠ではないだろう。
その傍らに、ルリカが立っている。
先ほどまでの装束とは違い、今は巫女服に着替えていた。彌彦神社で見たときと同じ、彼女の儀式用の装束。個性的な巫女服だが、彼女の気合が伝わってくる。顔色は万全とは言えないが、目は澄んでいる。迷いも、怯えもない。疲労はあるだろうが、それでも、彼女は折れていなかった。――ここに立つと決めた人間の姿だった。
私たちは、言葉を交わさない。確認は、もう終わっている。
床に置いた甕の蓋を外す。秡川の水。満たされた甕の中で、水面がわずかに揺れる。その揺れが、私の呼吸と自然に重なっていく。
柄杓で水をすくい、床へ落とす。円を描くように、ゆっくりと。水音が、部屋の中で吸われていく。反響はない。結界が、音の行き先を閉じている。
――よし。
私は満足のそばに膝をついた。影に触れる直前で、手を止める。
思い出す。磐梯山での祓い。影が流れ込み、身体の奥を通り抜けていった感覚。消すのではなく、通す。断ち切るのではなく、循環させる。今回も、同じだ。ただし、時間をかける。力を分け合う。
視線を上げると、ルリカが小さく頷いた。準備はできている。その合図だった。
私は、満足の手を取る。冷たい。だが、まだ生きている。
ここから先は、選択の連続だ。急がない。止めない。流れを信じる。
私は意識を静め、影の重さを受け入れる準備をした。
――祓いを。
声には出さない。この部屋には、祝詞は要らない。必要なのは、通すこと。生から死へ、死から生へ――その道を、整えることだけだった。
甕の水を両手で抱え上げた。秡川の水だ。澄んでいるのに、ひどく重みがある。
硬質化した影の繭に覆われた身体は、眠っているようにも、沈んでいるようにも見えた。私は迷わず、水をすくい、その胸元へと静かに振りかける。
水は、弾かれない。影の表面を伝い、ゆっくりと流れ落ちる。
……禊だ。
そして、私は自分の額にも水をかけた。冷たさが、皮膚を打つ。息を一つ、深く吐く。そして、肩、腕、胸、腹、背中、脚と、順に続けていく。
その様子を見ていたルリカが、少し間を置いて言った。
「……私にも」
私は一瞬だけ彼女を見る。そして、小さく頷いた。
水を両手で掬い上げ、それを傾けた。彼女の頭へ、そして肩へと、順に注いでいく。
秡川の水は、巫女装束の布を濡らしながら、首筋を伝い、背へと落ちていく。
ルリカは目を閉じ、黙って受けた。冷たさに、肩がわずかに震える。
三人分の禊が終わる。
私は静かに顔を床へ戻す。そして、満足のほうへ向き直った。
「――では、始めます」
それは宣言ではなく、確認だった。
ここから先は、戻らない。流すべきものを、通すための道に入る。そうして、影へと、手を伸ばした。




